第37話 神の使徒か、異端か
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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修道院の奥、石造りの廊下はいつもより冷たく感じられた。
燭台の明かりが、灰色の壁を鈍く照らしている。
その奥にある錬金術師長・エルンスト師の部屋では、一本の蝋燭だけが細く燃えていた。
窓は閉ざされ、風もない。
硝子の器に沈めた薬草の葉が、微かな音を立てて泡を吐いている。
部屋の中央には分厚い机。
その上には、数枚の羊皮紙が無造作に並べられていた。
「異国の男、ターナカ。祈りを行い、人々を癒す。教会外の活動。噂拡大中」
報告書の最後の1行を読み終えたエルンストは、目を細めた。
長い指先で羊皮紙の端をつまみ、ゆっくりと丸める。
そして、蝋燭の炎にかざした。
紙がくすぶる音が、静寂を破った。
「……神の名を語らず、人を癒すだと?」
その声は低く、大地を削るもののようだった。
彼は燃え尽きた灰を指で払い落とすと、机の端の書物に視線を移す。
革表紙の上には、金文字で刻まれた題名――『神学的序論』。
それを開くことなく、彼は言葉を続けた。
「秩序を乱す兆しがある。神を経ずに心を救う者。それは奇跡ではない。腐蝕のはじまりだ」
蝋燭の明かりがその頬を照らし、陰影を深くする。
その瞳はまるで、置き去りにされた鉄のように冷えていた。
扉が軽く叩かれ、若い修道士が入ってきた。
手には小さな封筒。
「師よ。寡婦の会での活動記録、補足が届きました」
「置け」
若い修道士は机に封筒を置き、頭を下げる。
しかしその背に、エルンストの声が追いかけた。
「例の男の行動を見張れ。小さな逸脱でも構わん。罪は後から作れる」
修道士が驚いて顔を上げる。
だが、エルンストの表情は動かない。
「神の秩序は絶対だ。それを乱す者には、必ず名が与えられる。――異端、とな」
若い修道士は小さくうなずき、部屋を後にした。
扉が閉じる音がやけに重く響く。
エルンストは窓際へ歩み、外の闇を見下ろした。
月は雲に隠れ、街の明かりがぼんやりと滲んでいる。
「教義とは檻だ。檻があるからこそ、神は形を保つ。檻の外に出た者は、いずれ自らを神と誤解する」
その独白は、まるで呪文のようだった。
そして、彼の唇に小さな笑みが浮かんだ。
それは、確信に満ちた者の笑み。
――最初から、結論は決まっていた。
同じころ、修道院の門前。
子供たちの笑い声が風に乗って響いていた。
田中は炊き出し場の片隅で、大鍋をかき混ぜていた。
「スープ、もう少し煮込みますね。今日はちょっと塩気が薄いので」
彼の隣では、寡婦の会の女性たちが慌ただしく動いている。
昼過ぎから始まった炊き出しは、もう数十人分を越えていた。
鍋の湯気の中で、パンの香りと香草の匂いが混ざり合う。
列の最後尾では、リーナが子供にパンを渡していた。
その様子を見た田中が声をかける。
「今日も助かりました。リーナがいなかったら間に合いませんでしたよ」
「ふふ、ターナカさんこそ。……でも、もう少し休んだほうがいいですよ?」
「いえ、大丈夫です。仕事をしてる方が落ち着くので」
穏やかなやり取り。
だが、その光景を遠くから見つめる視線があった。
夕刻。修道院の庭では、鐘の音が柔らかく響いていた。
灰色の空の下、風が花壇をなで、若い修道女たちの衣を揺らす。
その一角で、ゲルトルーデは1人、帳面を広げていた。
ペンの先が、紙の上でためらいがちに止まる。
――「異端の兆候、なし」
その一行を書いてから、彼女は長く息を吐いた。
すでに何度も同じ報告を書いている。
ターナカという男の行いは、どこを取っても罪にはならない。
それどころか、彼の周囲には、心を軽くした人々が確かに存在する。
(……あの笑顔のどこに、神への冒涜があるというの?)
胸の奥に小さな痛みが走る。
それは信仰の軸が揺らぐ痛み――彼女自身の理性が抵抗していた。
そのとき、背後から足音。
振り返ると、上位修道士が立っていた。
腕を組み、帳面を覗き込むようにして低く言った。
「報告が遅いぞ、ゲルトルーデ。師がお待ちだ」
「……確認すべき点がありまして」
「必要なのは確認ではない。――証拠だ」
その冷ややかな声に、ゲルトルーデの背筋がこわばる。
「罪が見つからねば、作るまでのことだ」
その一言に、ペン先が震えた。
インクのしずくが紙に落ち、黒い染みを作る。
上位修道士は満足そうに微笑み、去っていった。
ゲルトルーデは静かに帳面を閉じた。
もう1行も、書けなかった。
その夜、金髪の少女マルガレータは修道院の聴聞室に呼び出された。
長い廊下を進むたびに、足音がこだまする。
高い天井に灯された燭台の明かりが、静かに揺れていた。
扉の向こうから聞こえてくる声。
「信仰を逸脱している」
「神に祈らずして救うとは何事か」
それがすべて自分に向けられていると、彼女はすぐに悟った。
扉を開けると、机の奥に三人の修道士。
中央の男が冷ややかな声で告げる。
「マルガレータ。あなたはターナカという者と、頻繁に接しているそうですね」
「……はい」
「その行為に、神の導きはありますか」
「導きというより……。お友達です。話をするのは当たり前です」
修道士の眉がわずかに動く。
「認めると、言うのですね」
マルガレータは唇を噛む。
胸の奥から、押し殺していた言葉が漏れた。
「彼は……。わたしのことを想い、わたしのことを救ってくれました。誰かの痛みを思って祈ることが、どうしていけないんですか!」
部屋の空気が、一瞬止まった。
答えは返ってこない。
やがて修道士の一人が机を軽く叩き、冷たく言い放つ。
「神を通さずして救おうとする心こそ、傲慢だ」
その言葉に、マルガレータの目が震えた。
だが、恐れよりも先に出たのは、静かな反論だった。
「傲慢なのは、救うことを神の特権だと思っていることです」
沈黙。
燭台の炎がかすかに揺れた。
彼女の声は震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
やがて、修道士たちは互いに視線を交わし、短く言った。
「退室なさい」
マルガレータは黙って頭を下げ、扉を閉める。
外に出た瞬間、背中の力が抜けた。
廊下の壁に手をつき、深く息を吐く。
(――私が間違っているの?)
窓の外では、鐘楼が静かに光を反射していた。
その冷たい光の向こうに、あの優しい笑顔が浮かぶ。
彼の言葉を思い出す。
「祈りは、誰かの痛みに寄り添うこと」
それが本当に罪なら――この世界の神は、いったい誰を救うのだろう。
深夜。
再び、エルンスト師の執務室。
蝋燭が半ばまで燃え、長い影を壁に映している。
彼は机に広げた羊皮紙を見つめていた。
そこには短い文だけが書かれている。
「田中。神の静寂を破る者。観察継続」
部屋に入ってきた部下が、静かに頭を下げた。
「師よ。修道士ゲルトルーデの報告、届きましたか」
「読んだ」
「罪の証拠は……?」
「不要だ」
エルンストは窓の外を見た。
街の明かりが滲む。
遠くで、まだ鐘の音が鳴っていた。
「奇跡を信じる者ほど、神に遠い。だからこそ――試す価値がある」
彼は羽根ペンを取り、白紙に一文を加えた。
「公衆の前で祈りを行わせ、真偽を確認せよ」
ペン先が紙を滑る音だけが響く。
蝋燭が揺れ、炎の影が机上の硝子瓶に反射する。
その光はまるで、神の裁きを模した火のようだった。
「神を試すのだ」
低くつぶやいたその声は、静かな笑いに溶けていった。
その笑みの奥には、冷たい信仰――。そして、権威への陶酔があった。
修道院の外では、夜風が吹き抜けていく。
その風はどこか、遠くの願いの声を運んでいるようだった。
さて、次話から最終章に突入です!
今日から3が日は、1日2話更新です!
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