第36話 祈りの行方
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
午後の光が高窓を抜け、講堂の木の床をやわらかく照らしていた。
授業を終えた子供たちの声が遠ざかり、静寂の中に笑いの残響だけが漂っている。
マルガレータは長椅子の端に座り、手元の木の髪飾りを見つめていた。
淡い茶色の木目は、まるで光を吸い込みながら呼吸しているようだ。
金糸のリボンの重さから解き放たれて以来、彼女は毎日この髪飾りを身につけている。
――不思議なものだ、と彼女は思う。
神殿で唱える祈りより、この木のぬくもりのほうが、よほど心を落ち着かせてくれる。
そのとき、背後から靴音が響いた。
硬質で、規律正しい音。
振り向くと、修道服を纏ったゲルトルーデが立っていた。
その背筋は真っすぐで、姿勢そのものが信仰の形に見える。
「ここにいたのですね、マルガレータさん」
「……はい。お疲れさまです、ゲルトルーデさま」
ゲルトルーデは軽く会釈すると、彼女の正面に腰を下ろした。
同じ沈黙の中で二人の呼吸が重なる。
「少し、お話を伺いたいのです。ターナカという方について」
「……あの方のこと?」
「ええ。最近、あなたとよく一緒にいると耳にしました」
その声には、問い詰めるような鋭さと、微かな興味が同居していた。
「そう、ですね……」
マルガレータはしばらく目を伏せた。田中の名前を聞くと、あの日の午後を思い出す。彼女の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。
「……あの方に出会ってから、少し、生きやすくなったんです。神様に祈っても届かない気がしていたのに……あの方の前では、なぜか言葉がいらないんです」
「言葉がいらない?」
「ええ。祈りって、届かないと分かっていても、続けるものだと思っていました。でも、あの方と話すと、心が静かになる。それが届いたということなのかもしれません」
ゲルトルーデのまなざしが鋭くなる。
それは興味か、それとも信仰を侵す者への警戒か。
「……それを祈りだと、あなたは思うのですか?」
「はい。神に届かなくても、人に届くなら、それでいいと思うようになりました」
その一言に、空気がわずかに変わった。
講堂の静けさが、耳鳴りのように重く響く。
「祈りは、神に捧げるものです。天に向けてこそ祈りとなる。人に向けるものは……。ただの言葉でしょう」
「そうかもしれません。でも、私は隣にいる人に祈りたいんです。誰かを思う気持ちが祈りなら、それでいいと思うから」
ゲルトルーデは沈黙した。
彼女の中で、理性と感情が小さくぶつかり合っていた。
「あなたは……。ターナカさんに何を見ているのですか?」
「何でしょうね。強さでも、優しさでもなくて……。ただ、聴いてくれる人。それだけなのに、どうしてか、救われたような気がするんです」
マルガレータの言葉に、ゲルトルーデの指先が震えた。
聖書には書かれていない救いの形。
それを口にする者を、彼女は何人も異端として見てきた。
「私も……一度、彼と話をしました」
「そうなんですか?」
「ええ。けれど、不思議でした。彼の前では、聖書の言葉が薄く感じられる。まるで、教義の外に真理があるようで……怖くなるんです」
「怖い、ですか?」
「はい。神の沈黙に慣れていたはずなのに、彼の言葉は沈黙の中から別の答えを引き出してしまう。それが怖いのです」
ゲルトルーデは、自分でも気づかぬうちに胸元を押さえていた。
心臓が、静かに速く打っている。
「それでも、彼の言葉に惹かれてしまう時がある。理解できないものに、どうしようもなく」
マルガレータは微笑んだ。
「わかります。あの方の言葉は、救いというより、癒やしなんです。責めることも、導くこともせず、ただ受け止めてくれる」
ゲルトルーデは、その言葉に小さく息を呑んだ。
癒やし――。その響きが、石の壁に淡く反響する。
神の奇跡ではなく、人の優しさが心を解く音だった。
扉の外で、風が鳴った。
窓の外の空が少し陰り、遠くから鐘の音が聞こえてくる。
ゲルトルーデはその音を聞きながら、胸の奥で考えていた。
――信仰とは、上に積み上げるものだ。
だが、あの男の語る言葉は、下に根を張る。
神を目指すのではなく、人の痛みの中に降りていく。
その在り方こそが、彼女の信仰を揺さぶっていた。
「……マルガレータさん。あなたの祈りは、どこへ向かうのですか?」
「どこでもいいんです。ただ、届いたとき、誰かの涙が止まれば」
その答えに、ゲルトルーデは言葉を失った。涙を止める祈り――それは、神を必要としない祈り。
扉の蝶番が軋み、柔らかな光が差し込んだ。
田中が講堂に姿を現した。
修道服でもなく、冒険者の装いでもない、ありふれた麻の上着。
「ここにいたんですね、マルガレータ。そろそろ帰りましょう……。と、ゲルトルーデ修道士?」
マルガレータは少し頬を赤らめて立ち上がり、ゲルトルーデはわずかに身を正した。
「お騒がせして、申し訳ありません。少し……祈りについて話をしていたんです」
ゲルトルーデがそう言うと、田中は穏やかに笑った。
「祈り、ですか。いいですね」
その声には、どこか子供を諭すような優しさがあった。
それだけで、教室の空気がわずかに柔らぐ。
「ターナカさん」
「はい?」
「あなたにとって祈りとは、何ですか?」
ゲルトルーデの問いには、探究と恐れの両方が混ざっていた。
問いた瞬間に、世界が変わってしまう予感を抱いているかのように。
田中は少しだけ上を見上げ、手のひらを光の筋に差し出した。
「祈りって、たぶん願うことから始まるんだと思います」
彼は、少しだけ息を呑む。
「誰かに助けてほしいとか、何かをどうにかしたいとか。でも、人に向けてそれを口にしたとき、少し楽になるでしょう? 神に届く祈りも、人に届く言葉も、根っこは同じだと思います。どちらも心を整えるための行いなんです」
静寂が落ちた。
言葉が石壁に染み込み、時が止まったようだった。
「届く先……が、違う?」
「神さまに届く祈りもあれば、誰かの心に届く祈りもある。でも、どちらも誰かを想うという一点では同じです」
その声は穏やかだった。
だがゲルトルーデには、それが信仰の根幹を揺るがす響きに聞こえた。
「では――。あなたは神を否定するのですか?」
「否定なんてしてません。むしろ、神さまが人の言葉を借りて誰かを癒す、そんなこともあると思うんです」
ゲルトルーデの胸の奥で、何かが軋んだ。
教義にない理屈。だが、否定することもできない。
「……あなたの言葉は危ういです」
「そう思われても仕方ありません。でも、もし危ういというのが、神を離れてしまうことを指すなら……。僕は離れているんじゃなくて、ただ近づき方が違うだけなんだと思います」
田中はそう言うと、 教壇に近づき、窓辺に手を置いた。
「マルガレータ。あなたにとって祈りは、どんなものですか?」
田中の問いに、彼女はゆっくりと答えた。
「……昔は、神さまに願うものでした。でも今は、誰かの涙を止めたいときにするものです」
「いい祈りですね」
田中は微笑む。
その表情に、ゲルトルーデは息を詰めた。
「……それは祈りではなく、単なる行為です」
「行為でもいいじゃないですか。人を想うことが祈りなら、それを形にするのは自然なことです」
ゲルトルーデは思わず口を開く。
「それでは、神はどこにいるのですか? あなたの言う祈りでは、神が介在しない」
「いると思いますよ。でも、上にではなく、間にいるんです」
「間……?」
「人と人のあいだに。助け合う手の中に。言葉を交わす沈黙の中に。神さまって、案外そういうところに隠れてるんじゃないですかね」
その言葉を聞いた瞬間、ゲルトルーデの脳裏に、あの日の光景が浮かんだ。
田中に祈られたあの農夫の笑顔。
寡婦の会で見た、子供を抱いた母親の涙。
――奇跡でも神業でもない、ただの優しさ。
だが、それが最も人を変えていた。
鐘の音が鳴った。
日が沈み、講堂の影がゆっくりと伸びていく。
田中は腰を上げ、二人に軽く会釈した。
マルガレータと帰るつもりだったが、今は2人の方が良さそうだと思ったのだ。
「……そろそろ戻ります。お二人とも、いい夜を」
その背中を見送りながら、マルガレータは小さくつぶやいた。
「あの方は、神さまみたいですね」
「違います」
ゲルトルーデの声は震えていた。
「神ではない。ただ、人が神を見たくなるほど真っすぐなだけです」
「それでも……。私は、あの方に祈りたいと思うんです」
「祈りたい?」
「ええ。神さまに届かなくても、あの方の心には届く気がしますから」
沈黙。
それは対立でも否定でもなく、まるで別の道を歩む者同士の理解のような静けさだった。
ゲルトルーデは、ゆっくりと息を吐いた。
「……あなたの祈りは、美しいですね」
「ありがとうございます」
マルガレータは微笑んだ。
その笑みを見て、ゲルトルーデの中の何かが少しだけ溶けた。
――祈りとは、誰に向けるかではなく、――誰の心を動かすか。
鐘の余韻が静かに消えていく。
それぞれの胸の中に、違う祈りが灯ったまま、二人は立ち上がった。
その祈りが、どこへ届くのかは、まだ誰にもわからない。
今日から3が日は、1日2話更新です!
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