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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第七章 2人の信仰

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第35話 奇跡の三定義

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 夜が明けきらぬ修道院の一室。

 窓の外はまだ薄暗く、鳥の声すら聞こえない。

 蝋燭の炎だけが机上を照らし、紙の上に揺らめく影を作っていた。


 ゲルトルーデは、ペンを執っていた。

 報告書――エルンスト師から下された任務の記録。

 だが、書き進めるたびに、文字は報告ではなく心の吐露に変わっていく。


 「対象、ターナカ。行動に異端の兆候なし。むしろ、接する者の情動に安定傾向が見られる」


 そう記したところで、ペンが止まる。

 インク壺の黒が、蝋燭の光を吸い込んで沈んでいく。


 異端の兆候なし――。その一文が、あまりに無力に感じられた。

 彼の存在は、善でも悪でもない。

 ただそこに居るだけで、人が穏やかになる。


 奇跡と呼ぶには小さすぎる。

 だが、それを否定するには、あまりに温かい。


 ペンを置き、彼女はゆっくりと息を吐いた。

 祈りの時間が近い。だが、今の自分には、神に向かう言葉が見つからなかった。




 鐘が鳴り、修道士たちの足音が回廊を満たす。

 朝の祈り。聖歌の旋律が石壁を伝い、やがて天井の高みに溶けていく。

 ゲルトルーデも列の中に加わり、無意識に同じ節を口にしていた。


 「――主よ、われらを見捨てたまうなかれ……」


 声は自然に出た。だが、心はどこか遠くにあった。

 祈りの言葉が空を漂い、形だけの儀式のように消えていく。

 その感覚に、ふと胸が痛んだ。


 私も、あの子と同じだ。

 マルガレータ――。形式だけの祈りに(あぐ)んでいた少女。

 自分が彼女を哀れんだあの日の視線が、いまは自分に向けられている気がした。




 昼の鐘が鳴る。

 食堂では、修道士たちが静かにパンを割り、スープを分け合っている。

 ゲルトルーデも列に並び、器を受け取る。

 だが、一口も喉を通らなかった。


 彼女の隣で、若い修道女がそっとささやく。


 「顔色が悪いですよ、ゲルトルーデさま」

 「……少し、考えすぎただけです」

 「お祈りのことですか?」

 「ええ」


 修道女は微笑んだ。


 「私も、時々わからなくなります。祈りは神のためなのか、自分のためなのか」


 ゲルトルーデはハッとした。

 その何気ない言葉が、胸の奥に刺さる。


 「……あなたは、どちらだと思いますか?」

 「さあ。でも、誰かを想っているとき、少しだけ神さまが近くにいる気がします」


 若い修道女はそう言って席を立った。

 その背中を見送りながら、ゲルトルーデは小さくつぶやいた。


 「誰かを想う――。それが、祈りなのか」




 午後、修道院の中庭では、洗濯物を干す修道女たちの声が風に混じっていた。

 ゲルトルーデは回廊の柱に背を預け、読み返す。

 書きすぎた。あまりに多くの自分が滲み出ている。


 報告書の隅に、無意識に書き込んだ一文が目に留まる。


 「――この男、神を語らず。奇跡を誇らず。ただ、人を癒す」


 筆跡がわずかに震えている。

 まるで心が手を動かしたように見えた。


 彼女はペンを取り、もう一文だけ書き足した。


 「もしこれが罪なら、私も同じ罪を犯している」




 夜が深まり、修道院の灯が一つ、また一つと消えていく。

 報告書を抱えたゲルトルーデは、長い回廊を歩いていた。

 石壁は昼間より冷たく、足音がやけに響く。


 封蝋を押した報告書が、胸の内で重く感じられる。

 まるでその重さが、自分の罪の形そのもののように思えた。


 階段を下り、講師修道士室の前に立つ。

 扉を叩くと、すぐに低い声が返ってきた。


 「入りなさい」


 室内には、蝋燭の灯が数本。

 壁際の本棚には古い聖典と羊皮紙がぎっしり詰まっていた。

 講師修道士が椅子に腰かけ、眼鏡越しに彼女を見上げる。


 「もう報告を?」

 「はい。今夜中に提出を、と」

 「エルンスト師の命か」

 「……ええ」


 短い沈黙の後、彼は書類を受け取り、手早く目を通す。

 ページを繰るたび、紙が擦れる音だけが部屋に響いた。


 「人の言葉で人の心を癒す、か」


 ぽつりと漏れた一言に、ゲルトルーデは息を詰めた。


 「報告書とは思えぬ詩文だな。まるで説教の草稿のようだ」

 「申し訳ありません」


 講師修道士は書類から目を離し、彼女を見た。

 その瞳には、厳しさと同時に、わずかな慈悲があった。


 「君は、この男をどう見た?」

 「悪人ではありません。むしろ、人々を穏やかにする力を持っています」

 「神の力ではなく、人の力で?」

 「……そう、思います」

 「ならば問おう」


 彼は立ち上がり、背後の棚から1冊の古い神学書を取り出した。

 表紙は擦り切れ、金文字の題名は読めない。


 「これは“奇跡の三定義”と呼ばれる古典だ」

  「1つ、神の意志によって起こる奇跡」

  「2つ、神の不在を示す奇跡」

  「3つ、人が神に似るとき起こる奇跡」


 彼はページをめくりながら続けた。


 「この3つのうち、どれに当てはまると思う?」


 ゲルトルーデは、言葉を失った。

 沈黙が続く。

 やがて彼女は、ほとんどつぶやくように答えた。


 「……3つめ、でしょうか。人が神に似るとき。それは、愛の形の一つだと」

 「ならば危うい」


 講師修道士の声が低くなる。


 「神に似るということは、神の領域に踏み込むということだ。愛もまた、信仰と同じく、人を狂わせる」


 ゲルトルーデは目を伏せた。

 反論できなかった。

 だが、心の奥で何かが静かに反発していた。




 議論は長く続いた。

 神の奇跡とは何か。

 祈りとは、どこからが人の行為か。


 だが、答えは出なかった。

 やがて講師修道士は溜息をつき、報告書を閉じた。


 「この内容、エルンスト師にも送る」


 その名を聞いた瞬間、胸の奥で小さな恐怖が灯った。


 「はい」

 「……一つ忠告しておこう」


 彼は声を潜めた。


 「あの方の興味は、神ではなく証明にある。信仰を実験にかけるような真似をする。君が巻き込まれる前に、身を引くことだ」


 ゲルトルーデは息を呑んだ。

 だが、首を横に振る。


 「いいえ。私は最後まで見届けます」

 「なぜだ」

 「彼の中に……。真実があると感じるからです」

 「誰の真実だ? 神か、人か?」

 「わかりません」


 それ以上、言葉は続かなかった。

 講師修道士は静かにうなずき、灯を一つ消した。




 夜半。

 自室に戻ったゲルトルーデは、蝋燭を灯し、再び報告書を開いた。

 自分用の写しには、余白が残っている。


 そこに、彼女は震える手で書き足した。


 「神の御業は、必ずしも神の手によらず。人の心を通して現れることもある。それを異端と呼ぶなら、信仰そのものが罪になる」


 書き終えると、深い呼吸をした。

 胸の奥に重くのしかかっていた霧が、少しだけ晴れた気がした。


 蝋燭の灯が揺れ、窓の外で風が鳴る。

 その音は、まるで誰かがそっと見守っているようだった。


 「……明日、もう一度、会いに行こう」


 そうつぶやくと、彼女は蝋燭の火を指でつまみ、静かに消した。

 煙が細く立ちのぼり、朝の風に溶けていった。


明日から3が日は、1日2話更新です!

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