第35話 奇跡の三定義
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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夜が明けきらぬ修道院の一室。
窓の外はまだ薄暗く、鳥の声すら聞こえない。
蝋燭の炎だけが机上を照らし、紙の上に揺らめく影を作っていた。
ゲルトルーデは、ペンを執っていた。
報告書――エルンスト師から下された任務の記録。
だが、書き進めるたびに、文字は報告ではなく心の吐露に変わっていく。
「対象、ターナカ。行動に異端の兆候なし。むしろ、接する者の情動に安定傾向が見られる」
そう記したところで、ペンが止まる。
インク壺の黒が、蝋燭の光を吸い込んで沈んでいく。
異端の兆候なし――。その一文が、あまりに無力に感じられた。
彼の存在は、善でも悪でもない。
ただそこに居るだけで、人が穏やかになる。
奇跡と呼ぶには小さすぎる。
だが、それを否定するには、あまりに温かい。
ペンを置き、彼女はゆっくりと息を吐いた。
祈りの時間が近い。だが、今の自分には、神に向かう言葉が見つからなかった。
鐘が鳴り、修道士たちの足音が回廊を満たす。
朝の祈り。聖歌の旋律が石壁を伝い、やがて天井の高みに溶けていく。
ゲルトルーデも列の中に加わり、無意識に同じ節を口にしていた。
「――主よ、われらを見捨てたまうなかれ……」
声は自然に出た。だが、心はどこか遠くにあった。
祈りの言葉が空を漂い、形だけの儀式のように消えていく。
その感覚に、ふと胸が痛んだ。
私も、あの子と同じだ。
マルガレータ――。形式だけの祈りに倦んでいた少女。
自分が彼女を哀れんだあの日の視線が、いまは自分に向けられている気がした。
昼の鐘が鳴る。
食堂では、修道士たちが静かにパンを割り、スープを分け合っている。
ゲルトルーデも列に並び、器を受け取る。
だが、一口も喉を通らなかった。
彼女の隣で、若い修道女がそっとささやく。
「顔色が悪いですよ、ゲルトルーデさま」
「……少し、考えすぎただけです」
「お祈りのことですか?」
「ええ」
修道女は微笑んだ。
「私も、時々わからなくなります。祈りは神のためなのか、自分のためなのか」
ゲルトルーデはハッとした。
その何気ない言葉が、胸の奥に刺さる。
「……あなたは、どちらだと思いますか?」
「さあ。でも、誰かを想っているとき、少しだけ神さまが近くにいる気がします」
若い修道女はそう言って席を立った。
その背中を見送りながら、ゲルトルーデは小さくつぶやいた。
「誰かを想う――。それが、祈りなのか」
午後、修道院の中庭では、洗濯物を干す修道女たちの声が風に混じっていた。
ゲルトルーデは回廊の柱に背を預け、読み返す。
書きすぎた。あまりに多くの自分が滲み出ている。
報告書の隅に、無意識に書き込んだ一文が目に留まる。
「――この男、神を語らず。奇跡を誇らず。ただ、人を癒す」
筆跡がわずかに震えている。
まるで心が手を動かしたように見えた。
彼女はペンを取り、もう一文だけ書き足した。
「もしこれが罪なら、私も同じ罪を犯している」
夜が深まり、修道院の灯が一つ、また一つと消えていく。
報告書を抱えたゲルトルーデは、長い回廊を歩いていた。
石壁は昼間より冷たく、足音がやけに響く。
封蝋を押した報告書が、胸の内で重く感じられる。
まるでその重さが、自分の罪の形そのもののように思えた。
階段を下り、講師修道士室の前に立つ。
扉を叩くと、すぐに低い声が返ってきた。
「入りなさい」
室内には、蝋燭の灯が数本。
壁際の本棚には古い聖典と羊皮紙がぎっしり詰まっていた。
講師修道士が椅子に腰かけ、眼鏡越しに彼女を見上げる。
「もう報告を?」
「はい。今夜中に提出を、と」
「エルンスト師の命か」
「……ええ」
短い沈黙の後、彼は書類を受け取り、手早く目を通す。
ページを繰るたび、紙が擦れる音だけが部屋に響いた。
「人の言葉で人の心を癒す、か」
ぽつりと漏れた一言に、ゲルトルーデは息を詰めた。
「報告書とは思えぬ詩文だな。まるで説教の草稿のようだ」
「申し訳ありません」
講師修道士は書類から目を離し、彼女を見た。
その瞳には、厳しさと同時に、わずかな慈悲があった。
「君は、この男をどう見た?」
「悪人ではありません。むしろ、人々を穏やかにする力を持っています」
「神の力ではなく、人の力で?」
「……そう、思います」
「ならば問おう」
彼は立ち上がり、背後の棚から1冊の古い神学書を取り出した。
表紙は擦り切れ、金文字の題名は読めない。
「これは“奇跡の三定義”と呼ばれる古典だ」
「1つ、神の意志によって起こる奇跡」
「2つ、神の不在を示す奇跡」
「3つ、人が神に似るとき起こる奇跡」
彼はページをめくりながら続けた。
「この3つのうち、どれに当てはまると思う?」
ゲルトルーデは、言葉を失った。
沈黙が続く。
やがて彼女は、ほとんどつぶやくように答えた。
「……3つめ、でしょうか。人が神に似るとき。それは、愛の形の一つだと」
「ならば危うい」
講師修道士の声が低くなる。
「神に似るということは、神の領域に踏み込むということだ。愛もまた、信仰と同じく、人を狂わせる」
ゲルトルーデは目を伏せた。
反論できなかった。
だが、心の奥で何かが静かに反発していた。
議論は長く続いた。
神の奇跡とは何か。
祈りとは、どこからが人の行為か。
だが、答えは出なかった。
やがて講師修道士は溜息をつき、報告書を閉じた。
「この内容、エルンスト師にも送る」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で小さな恐怖が灯った。
「はい」
「……一つ忠告しておこう」
彼は声を潜めた。
「あの方の興味は、神ではなく証明にある。信仰を実験にかけるような真似をする。君が巻き込まれる前に、身を引くことだ」
ゲルトルーデは息を呑んだ。
だが、首を横に振る。
「いいえ。私は最後まで見届けます」
「なぜだ」
「彼の中に……。真実があると感じるからです」
「誰の真実だ? 神か、人か?」
「わかりません」
それ以上、言葉は続かなかった。
講師修道士は静かにうなずき、灯を一つ消した。
夜半。
自室に戻ったゲルトルーデは、蝋燭を灯し、再び報告書を開いた。
自分用の写しには、余白が残っている。
そこに、彼女は震える手で書き足した。
「神の御業は、必ずしも神の手によらず。人の心を通して現れることもある。それを異端と呼ぶなら、信仰そのものが罪になる」
書き終えると、深い呼吸をした。
胸の奥に重くのしかかっていた霧が、少しだけ晴れた気がした。
蝋燭の灯が揺れ、窓の外で風が鳴る。
その音は、まるで誰かがそっと見守っているようだった。
「……明日、もう一度、会いに行こう」
そうつぶやくと、彼女は蝋燭の火を指でつまみ、静かに消した。
煙が細く立ちのぼり、朝の風に溶けていった。
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