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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第七章 2人の信仰

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第34話 奇跡の境界

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 話は少しさかのぼり。

 田中が修道院で講演を行った日のこと。




 夜明け前の修道院は、静まり返っていた。

 石造りの回廊を渡る冷気が、蝋燭の炎を震わせる。

 その灯りの下で、ゲルトルーデは細いペンを整え、報告書の余白に清書の文字を重ねていた。

 机の上には、幾重にも重ねられた写本、神学の註釈書、そして小さな水晶球。

 すべて、彼女の日常の延長にあるもの――だが、この朝だけは違った。


 扉の向こうから、靴音が一つ。

 ゆるやかながら、確実に権威を帯びた足取り。

 彼女が顔を上げたとき、長衣の裾が月明かりを掠めた。


 「……エルンスト師」


 その名を口にするだけで、空気が張り詰める。

 修道院の錬金塔を束ね、神学と実証の両面を司る人物。

 彼の言葉は、教義と同等の重みを持つ。


 「夜明け前に呼び出してすまない、ゲルトルーデ」

 「いえ、師のご命令とあらば」


 エルンストは薄い笑みを浮かべ、机の上に一通の封書を置いた。

 封蝋には彼の個印――「錬金の輪と十字架」が押されている。


 「これが新しい任務だ。……例の男を調べてもらいたい」

 「例の……?」

 「ターナカという。巡礼者で、今は冒険者をしている。人々が「神の使徒」だの「癒し手」だのと呼んでいるらしい」


 彼の声は、まるで独り言のように淡々としていた。


 「神の奇跡に似たものを、人が行う――実に興味深い。奇跡を再現できるなら、それは神の領域の再定義になる。我々が手にする、新しい理の()だ」


 ゲルトルーデは、思わず息を呑む。

 神の領域を人が――それは、教義の根幹に触れる禁句だ。


 「……師、それは……神学的には危うい発言では?」

 「危ういほど価値があるのだよ、ゲルトルーデ。君なら分かるはずだ。神の奇跡と、人の知恵は表裏一体だ」


 その言葉に、彼女は反論できなかった。

 エルンストは薄い硝子の瓶を一つ取り上げる。

 中では、金属粉が光を受けてかすかに揺らめいている。


 「これは聖灰と呼ばれてきたものだ。だが、成分を調べればただの腐った金属だ。ただ、これを神の灰と信じる限り、癒しをもたらすこともある」


 エルンストの目が、氷のように光った。


 「信仰を理解する者こそ、信仰を操れる。――そして、神をも操れる」


 ゲルトルーデの背筋を、冷たいものが這った。


 「……私は、報告を講師殿へ上げればよろしいのですね?」

 「ああ。しかし最終報告は、必ず私の机へ」

 「承知いたしました」


 その夜、彼女は部屋に戻っても、手が震えていた。

 ペンを取る指先が冷え、紙の上に滲む文字が歪んでいく。




 翌日、ゲルトルーデは街に降りた。

 修道服の裾をたくし上げ、石畳を慎重に歩く。

 祭日の喧噪とは違い、朝市の空気には土と人の匂いが混ざっている。


 最初に訪ねたのは、修道院が世話をしている「寡婦の会」の集会所だった。

 広場の片隅、炊き出しの匂いと子供たちの笑い声が交じる。

 中ではリーナが、湯気の立つ大鍋をかき混ぜていた。


 「……修道士さま、ようこそ。何か御用でしょうか?」

 「少し、お話を伺いたくて。ターナカという男をご存知ですね?」

 「もちろんです。あの方は、よく手伝いに来てくれます」


 リーナは少し微笑む。


 「あの人は、不思議な方ですよ。特別なことは何もしていないのに、一緒にいると、心が穏やかになるんです。……まるで、長い祈りのあとみたいに」


 ゲルトルーデは、ペンを走らせながら首を傾げる。


 「何か、奇跡のようなことを見たわけでは?」

 「奇跡……? いえ、そうじゃないです。あの人の言葉を聞いていると、自分の中に何かが戻ってくる感じなんです」


 リーナは照れたように笑った。


 「神さまの言葉より、あの人の言葉の方が分かりやすい、って言ったら叱られますかね」


 その言葉を聞いて、ゲルトルーデの胸に微かなざわめきが走った。




 次に訪れたのは、郊外の農地だった。

 汗に濡れた農夫たちが鍬を休め、彼女の修道服を見て帽子を脱ぐ。


 「ターナカさんのこと? ああ、知ってるよ。あの人が来ると、変なもんで……空気が和らぐんだ」

 「和らぐ?」

 「不思議なもんだよな。喧嘩してた奴らも黙って、気づきゃ一緒に飯を食ってる。……教会の祈りより、効き目があるさ」




 そして、教会付属学校の子供たち。

 彼らは無邪気に跳ね回りながら口々に言う。


 「ターナカはねー、“いたいのいたいの飛んでけ”って言うんだよ!」

 「ほんとに治るんだ!」

 「ぼくの膝、もう痛くないもん!」


 ゲルトルーデは思わずしゃがみ、その子供の傷跡を見た。

 普通に良くある怪我だ。

 ペンを取り出し、静かに記す。


 「証言、いずれも一致。悪事の兆候なし。むしろ、接した者の情動が安定する傾向」


 その文字の下に、思わず別の一文を添えていた。


 「この穏やかさが()()であるならば、我々は何を信じているのか」


 ゲルトルーデは日暮れの鐘を聞きながら、ゆっくりと自室へ戻った。

 背後で、子供たちの笑い声が遠くに消えていく。

 その響きが、妙に胸の奥に残った。




 ゲルトルーデは、数日掛け、田中の話を聞いて回った。

 そして、聞けば聞くほど、彼の人柄と、その行動に、皆一様の感謝の言葉を伝える。

 なぜ師が、この男を調べろと言ったのかが分からないほど、善意と慈愛に満ちた人物のように思えた。


 彼女は、修道院の講師修道士室を訪ねた。彼女の直属の上司に当たる人物の部屋だ。

 書棚を背にした壮年の修道士が、眼鏡越しに書類を眺めている。


 「――人々の証言をまとめました」


 差し出した報告書を受け取ると、講師修道士は鼻を鳴らした。


 「悪事なし、人々は穏やかに……。これでは調査報告ではなく、感想だな。もしくは讃辞だ」

 「事実を記しました。虚偽はありません」

 「事実か。では問おう。人の行いで心を癒すなど、可能だと思うか?」


 ゲルトルーデは一瞬、言葉を失った。

 沈黙を、彼は勝手に肯定と取る。


 「神の奇跡を、人が真似できるなど傲慢の極みだ。民は癒しという言葉を求めるが、それは神の御手にのみ許された恩寵(おんちょう)だ」


 報告書を机に叩きつけるように置き、彼は続けた。


 「お前は若い。理を求めすぎる。神は思索の対象ではない、服従の対象だ」


 ゲルトルーデは、唇を噛みしめながら一礼した。


 「……失礼いたしました」


 部屋を出て廊下を歩くと、夕陽が西の塔を赤く染めていた。

 石壁に映る自分の影が揺れ、胸の奥がざわつく。


 服従の対象――。それが信仰なのだろうか。

 思索を罪とする教えに、どれほどの真理があるのだろう。


 その思考のまま、彼女は足を止めた。

 廊下の窓の下、広場では田中が子供たちと何かを話している。

 笑い声が風に乗って届いた。


 ――その声を聞くだけで、胸のざらつきが消えていく気がした。




 講堂の隅。

 人影が減り、窓から差す光が石床に淡く広がっている。

 ゲルトルーデは静かに近づき、声をかけた。


 「あなたが……ターナカさん、ですね?」

 「ええ。修道士さまにお会いするのは初めてです」


 田中は微笑んだ。

 彼の態度には、一切の緊張も恐れもない。

 むしろ、目の前の者を対等として見ている。


 「私は、あなたのことを調べるよう命じられています」

 「そうでしょうね」

 「驚かないんですか?」

 「こういう場所では、誰かが誰かを見張っているものです」


 ゲルトルーデは眉をひそめた。

 その一言に皮肉も怒りもない。ただ、淡々とした現実認識だけがある。


 「あなたは、祈りますか?」

 「祈りますよ。……人を思い出した時に」

 「神に、ではなく?」

 「神さまは、みんなのことをもう知ってると思うんです。だからわざわざ説明する必要はないでしょう?」


 ゲルトルーデは言葉を失った。

 それは、神を否定していない。だが神に頼らない信仰だった。


 「あなたの言葉は、危ういです」

 「そうですかね。僕はただ、誰かの笑顔を思い出すだけです。それを祈りと呼ぶなら、そうなんでしょう」


 田中は肩をすくめて笑った。

 その自然な笑顔を見た瞬間、ゲルトルーデは悟った。

 ――この男は奇跡を起こしているのではない。安心が人の心を変えているのだと。


毎日19:10頃更新しています。

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