第34話 奇跡の境界
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
------------------------------------------------
話は少しさかのぼり。
田中が修道院で講演を行った日のこと。
夜明け前の修道院は、静まり返っていた。
石造りの回廊を渡る冷気が、蝋燭の炎を震わせる。
その灯りの下で、ゲルトルーデは細いペンを整え、報告書の余白に清書の文字を重ねていた。
机の上には、幾重にも重ねられた写本、神学の註釈書、そして小さな水晶球。
すべて、彼女の日常の延長にあるもの――だが、この朝だけは違った。
扉の向こうから、靴音が一つ。
ゆるやかながら、確実に権威を帯びた足取り。
彼女が顔を上げたとき、長衣の裾が月明かりを掠めた。
「……エルンスト師」
その名を口にするだけで、空気が張り詰める。
修道院の錬金塔を束ね、神学と実証の両面を司る人物。
彼の言葉は、教義と同等の重みを持つ。
「夜明け前に呼び出してすまない、ゲルトルーデ」
「いえ、師のご命令とあらば」
エルンストは薄い笑みを浮かべ、机の上に一通の封書を置いた。
封蝋には彼の個印――「錬金の輪と十字架」が押されている。
「これが新しい任務だ。……例の男を調べてもらいたい」
「例の……?」
「ターナカという。巡礼者で、今は冒険者をしている。人々が「神の使徒」だの「癒し手」だのと呼んでいるらしい」
彼の声は、まるで独り言のように淡々としていた。
「神の奇跡に似たものを、人が行う――実に興味深い。奇跡を再現できるなら、それは神の領域の再定義になる。我々が手にする、新しい理の礎だ」
ゲルトルーデは、思わず息を呑む。
神の領域を人が――それは、教義の根幹に触れる禁句だ。
「……師、それは……神学的には危うい発言では?」
「危ういほど価値があるのだよ、ゲルトルーデ。君なら分かるはずだ。神の奇跡と、人の知恵は表裏一体だ」
その言葉に、彼女は反論できなかった。
エルンストは薄い硝子の瓶を一つ取り上げる。
中では、金属粉が光を受けてかすかに揺らめいている。
「これは聖灰と呼ばれてきたものだ。だが、成分を調べればただの腐った金属だ。ただ、これを神の灰と信じる限り、癒しをもたらすこともある」
エルンストの目が、氷のように光った。
「信仰を理解する者こそ、信仰を操れる。――そして、神をも操れる」
ゲルトルーデの背筋を、冷たいものが這った。
「……私は、報告を講師殿へ上げればよろしいのですね?」
「ああ。しかし最終報告は、必ず私の机へ」
「承知いたしました」
その夜、彼女は部屋に戻っても、手が震えていた。
ペンを取る指先が冷え、紙の上に滲む文字が歪んでいく。
翌日、ゲルトルーデは街に降りた。
修道服の裾をたくし上げ、石畳を慎重に歩く。
祭日の喧噪とは違い、朝市の空気には土と人の匂いが混ざっている。
最初に訪ねたのは、修道院が世話をしている「寡婦の会」の集会所だった。
広場の片隅、炊き出しの匂いと子供たちの笑い声が交じる。
中ではリーナが、湯気の立つ大鍋をかき混ぜていた。
「……修道士さま、ようこそ。何か御用でしょうか?」
「少し、お話を伺いたくて。ターナカという男をご存知ですね?」
「もちろんです。あの方は、よく手伝いに来てくれます」
リーナは少し微笑む。
「あの人は、不思議な方ですよ。特別なことは何もしていないのに、一緒にいると、心が穏やかになるんです。……まるで、長い祈りのあとみたいに」
ゲルトルーデは、ペンを走らせながら首を傾げる。
「何か、奇跡のようなことを見たわけでは?」
「奇跡……? いえ、そうじゃないです。あの人の言葉を聞いていると、自分の中に何かが戻ってくる感じなんです」
リーナは照れたように笑った。
「神さまの言葉より、あの人の言葉の方が分かりやすい、って言ったら叱られますかね」
その言葉を聞いて、ゲルトルーデの胸に微かなざわめきが走った。
次に訪れたのは、郊外の農地だった。
汗に濡れた農夫たちが鍬を休め、彼女の修道服を見て帽子を脱ぐ。
「ターナカさんのこと? ああ、知ってるよ。あの人が来ると、変なもんで……空気が和らぐんだ」
「和らぐ?」
「不思議なもんだよな。喧嘩してた奴らも黙って、気づきゃ一緒に飯を食ってる。……教会の祈りより、効き目があるさ」
そして、教会付属学校の子供たち。
彼らは無邪気に跳ね回りながら口々に言う。
「ターナカはねー、“いたいのいたいの飛んでけ”って言うんだよ!」
「ほんとに治るんだ!」
「ぼくの膝、もう痛くないもん!」
ゲルトルーデは思わずしゃがみ、その子供の傷跡を見た。
普通に良くある怪我だ。
ペンを取り出し、静かに記す。
「証言、いずれも一致。悪事の兆候なし。むしろ、接した者の情動が安定する傾向」
その文字の下に、思わず別の一文を添えていた。
「この穏やかさが異端であるならば、我々は何を信じているのか」
ゲルトルーデは日暮れの鐘を聞きながら、ゆっくりと自室へ戻った。
背後で、子供たちの笑い声が遠くに消えていく。
その響きが、妙に胸の奥に残った。
ゲルトルーデは、数日掛け、田中の話を聞いて回った。
そして、聞けば聞くほど、彼の人柄と、その行動に、皆一様の感謝の言葉を伝える。
なぜ師が、この男を調べろと言ったのかが分からないほど、善意と慈愛に満ちた人物のように思えた。
彼女は、修道院の講師修道士室を訪ねた。彼女の直属の上司に当たる人物の部屋だ。
書棚を背にした壮年の修道士が、眼鏡越しに書類を眺めている。
「――人々の証言をまとめました」
差し出した報告書を受け取ると、講師修道士は鼻を鳴らした。
「悪事なし、人々は穏やかに……。これでは調査報告ではなく、感想だな。もしくは讃辞だ」
「事実を記しました。虚偽はありません」
「事実か。では問おう。人の行いで心を癒すなど、可能だと思うか?」
ゲルトルーデは一瞬、言葉を失った。
沈黙を、彼は勝手に肯定と取る。
「神の奇跡を、人が真似できるなど傲慢の極みだ。民は癒しという言葉を求めるが、それは神の御手にのみ許された恩寵だ」
報告書を机に叩きつけるように置き、彼は続けた。
「お前は若い。理を求めすぎる。神は思索の対象ではない、服従の対象だ」
ゲルトルーデは、唇を噛みしめながら一礼した。
「……失礼いたしました」
部屋を出て廊下を歩くと、夕陽が西の塔を赤く染めていた。
石壁に映る自分の影が揺れ、胸の奥がざわつく。
服従の対象――。それが信仰なのだろうか。
思索を罪とする教えに、どれほどの真理があるのだろう。
その思考のまま、彼女は足を止めた。
廊下の窓の下、広場では田中が子供たちと何かを話している。
笑い声が風に乗って届いた。
――その声を聞くだけで、胸のざらつきが消えていく気がした。
講堂の隅。
人影が減り、窓から差す光が石床に淡く広がっている。
ゲルトルーデは静かに近づき、声をかけた。
「あなたが……ターナカさん、ですね?」
「ええ。修道士さまにお会いするのは初めてです」
田中は微笑んだ。
彼の態度には、一切の緊張も恐れもない。
むしろ、目の前の者を対等として見ている。
「私は、あなたのことを調べるよう命じられています」
「そうでしょうね」
「驚かないんですか?」
「こういう場所では、誰かが誰かを見張っているものです」
ゲルトルーデは眉をひそめた。
その一言に皮肉も怒りもない。ただ、淡々とした現実認識だけがある。
「あなたは、祈りますか?」
「祈りますよ。……人を思い出した時に」
「神に、ではなく?」
「神さまは、みんなのことをもう知ってると思うんです。だからわざわざ説明する必要はないでしょう?」
ゲルトルーデは言葉を失った。
それは、神を否定していない。だが神に頼らない信仰だった。
「あなたの言葉は、危ういです」
「そうですかね。僕はただ、誰かの笑顔を思い出すだけです。それを祈りと呼ぶなら、そうなんでしょう」
田中は肩をすくめて笑った。
その自然な笑顔を見た瞬間、ゲルトルーデは悟った。
――この男は奇跡を起こしているのではない。安心が人の心を変えているのだと。
毎日19:10頃更新しています。
ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!




