第33話 初めての贈り物
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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金糸のリボンを解かれたあの日から、マルガレータの中に、小さな変化が生まれていた。
朝、鏡の前で髪を整えるたびに、あの木の髪飾りが指先に触れる。
重くもなく、眩しくもない。ただ、木の香りと手の温もりだけが残っている。
――あの人は、なぜこんなことをしてくれたのだろう。
誰も手を伸ばしてくれなかった場所に、ためらいもなく触れた。
その優しさを思い出すたび、胸の奥で何かがあたたかく波打つ。
その日の授業後。
生徒たちが帰った教室に、マルガレータはひとり残っていた。
窓辺に立つ田中の背を見つめ、胸の奥の鼓動を抑えきれない。
「ターナカ。……さん」
呼びかけると、彼が振り返る。
いつもの穏やかな表情。
それだけで、声が震えそうになる。
「この間は……ありがとうございました」
「ああ、あの髪飾りのこと?」
「はい。でも、あれは……私がずっと望んでいたことでした」
彼女は少し息を詰め、続けた。
「誰かに解いてほしいと思っても、自分ではできなくて。でも、あの日から、心が軽くなった気がします」
田中は静かにうなずいた。
「それなら、良かった」
「はい。……それで、あの……お礼がしたいんです。ささやかですが、家にいらしていただけませんか?」
言い終えると、マルガレータは両手を胸の前で重ね、わずかにうつむいた。
断られたらどうしよう――そんな不安がよぎる。
だが田中は、少しだけ笑って答えた。
「いいんですか? 僕なんかが……」
「あなたに来てほしいんです」
その言葉には、はっきりとした意志があった。
数日後。
田中は、街の中心近くにあるマルガレータの家を訪れていた。
裕福な商人らしく、彼女の家は石造りの堂々とした建物で、玄関先には香辛料や布を扱う店の倉庫が併設されている。
広すぎる門を前に、田中は少し気後れした。
門番に招待された旨を伝えると、すぐに年配の使用人が現れる。
「お待ちしておりました。ターナカ様でいらっしゃいますね」
「ああ、ええ。……その、急にお邪魔してすみません」
使用人は微笑み、扉を大きく開いた。
奥から、聞き覚えのある声がする。
「――こちらです!」
マルガレータだった。
エプロン姿で、小走りに廊下を抜けてくる。
淡い水色の服の上に白い布を重ね、髪をゆるくまとめていた。
彼女がこんな姿を見せるのは初めてだった。
「ようこそ、ターナカさん! 今日は……私が料理をしました」
「あなたが? 本当に?」
「ええ。いつも他の人に任せきりなので、今日は自分で」
彼女の笑顔には誇らしさがあった。
田中は思わずうなずく。
「それは……光栄ですね」
彼女に案内され、屋敷に足を踏み入れる。いくつ部屋があるのか分からない廊下を抜け、食堂に通される。
食卓に並べられたのは、香草の香りが立つ煮込み料理、焼きたてのパン、具沢山のスープ――どれも本格的だった。
席についた田中は、ひと口スープをすする。
塩気も十分で、だが素材の甘みがしっかりと広がる。
「……美味しい」
その一言に、マルガレータの表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ。素直にそう思います。派手じゃないけど、落ち着く味ですね」
「……そんなふうに言われたのは、初めてです」
マルガレータは恥ずかしそうに目を伏せる。
その頬がほんのりと染まり、カップを持つ手がかすかに震えた。
2人の会話は弾んだ。
本来、話ながら食事をするのはマナー違反かもしれない。でも、屈託無く笑う彼女と、満たされる食欲に、言葉が止まらなかった。
教室では、いつもつまらなそうにしていた。同年代と一緒にいるのを見ても、こんな素敵な笑顔を見せているのは見たことがない。
田中は、今日呼ばれたこと嬉しく思うようになっていた。
「よろしければ、食後にお茶を。静かな場所の方が落ち着けますから」
彼女の声は、少し甘く響いた。
田中は苦笑しながらもうなずく。
「ええ、お願いします」
案内されたのは、彼女の私室だった。
壁には花の刺繍、棚には丁寧に並べられた本や小物。
日差しがカーテン越しに柔らかく差し込み、部屋全体が淡い金色の空気に包まれていた。
田中が座ると、マルガレータは侍女に視線を送る。
「……ごめんなさい、しばらく誰も入らないで」
侍女たちは一瞬驚いたが「かしこまりました」と頭を下げ、扉を閉めた。
静寂が訪れる。
ティーカップを持つ彼女の指先が、わずかに震えている。
彼女は深呼吸をひとつして、田中をまっすぐに見た。
「……ターナカさん。あの時、私を縛っていたのは、金の糸だけじゃなかったんです」
田中は静かにうなずいた。
「わかります。人の心を縛るのは、糸よりも見えないものですから」
「ええ。でも、あなたがその結び目を解いてくれた。それが、どれほどのことか……私にも、まだ分かりません」
彼女の声がかすかに震える。
部屋の中に、湯気と淡い沈黙が漂っていた。
マルガレータは、カップを両手で包み込んだまま、言葉を選ぶように沈黙した。
紅茶の湯気が、彼女のまつげをかすめて揺れる。
小さな部屋に、鐘の音が遠くからかすかに響いていた。
「……変なんです。あの日から、心の奥がざわざわしていて」
彼女の声は震えていた。
「私は、周囲に合わせ、形ばかり祈ってきました。でも、あなたと話していると、どうしてか……。そんな祈りすら、意味がないように思えてしまうのです」
「修道士の方になんと言われるかは別ですが。僕は、それでいいと思います。祈りは強制されるものではありません。想いがあって、祈りたくなったら、祈ればいいと思います」
「……っ」
彼女は、田中の唇を目で追う。
深い呼吸とまばたきが、それに続く。
「……あなたの声って、不思議です」
ぽつりとつぶやいた。
「聞いていると、心の奥が静かになる。まるで、誰かにもう無理に祈らなくてもいいって言われているみたい」
「それなら、嬉しいです」
「でも、そう言われると……もっと聞きたくなります」
マルガレータはうつむいたまま、紅茶の表面を見つめる。
カップの中で、小さな泡が弾けて消えた。
「ねえ、ターナカさん。この街に来てから、あなたは寂しくないんですか?」
「どうでしょうね。寂しいと思う暇もないかもしれませんね」
「そんなの……少し、悲しいです」
彼女は、微笑みながらも、どこか切なげだった。
その瞳には、教室で見せた礼儀正しい生徒の顔ではなく、誰かを想うひとりの女性そのものだった。
マルガレータは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外はすでに薄暗く、街灯の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
その背中を、田中は黙って見つめた。
「あの時、金の糸をほどいてもらった時――」
彼女は振り返らずに言った。
「あれは、心の檻を壊された気がしたんです。誰かに触れられることが、あんなに温かいものだなんて、知らなかった」
田中は椅子の背に手を置き、ゆっくりと立ち上がる。
マルガレータが振り返った。
その瞳は、涙をこらえて光っている。
「……ねえ、ターナカさん。私の中の何かが、あの日から止まらないんです」
「何か?」
「あなたに会いたい、声を聞きたい。こんな気持ちは、いけないんですよね?」
彼女の問いに、田中は少しだけ笑った。
「いけないことをしてるように感じるなら、それは、あなたが正直な証拠ですよ」
「正直……」
マルガレータは息を吸い込み、ゆっくりと歩み寄った。
田中の胸の前まで来ると、立ち止まり、彼を見上げる。
「……もう少しだけ、正直でいたいです」
そう言って、胸に身を寄せた。
田中は驚いたように息を飲み、肩越しに彼女の髪が流れる。
髪飾りが頬をかすめ、かすかな木の香りがした。
彼は腕を上げかけて、少しの間、動けなかった。
だが、マルガレータの指が彼の服を掴んだ瞬間、彼はそっと片手を彼女の背に添えた。
「……ありがとう。でも、無理はしないでください」
「無理なんて、してません」
彼女の声が、胸元に押し当てられて震える。
温もりが、布越しにじんわりと伝わってくる。
「私、いままで人に触れたことなんて、ほとんどなかったんです。怖かったんです。拒まれるのが」
時が止まったような静けさ。
やがて、マルガレータは少しだけ顔を上げた。
近くで見る田中の瞳には、どこか哀しみが宿っている。
「……あなた、いつも誰かのことを気にかけているのに、自分のことは、誰にも話さないんですね」
「なかなか。そう、中々話せないことも多いんですよ」
「それでも……私は、聞きたいです」
田中は苦笑した。
「そんなことを言うと、あなたの方が疲れてしまいますよ」
「いいんです」
マルガレータは目を閉じた。
彼の胸の鼓動が耳元で響く。
その音を聞いていると、不思議と涙がこぼれた。
「ああ……。この気持ちが、祈りの本質なのかもしれませんね」
その言葉に、田中の腕がわずかに震えた。
だが彼は何も言わず、ただその髪を撫で続けた。
部屋の外では、誰も足音を立てなかった。
扉の向こうにある世界が、遠く霞んでいく。
マルガレータは彼の胸に顔を埋めたまま、ほんの小さな声でつぶやいた。
「この気持ちが、罪でも構いません。神に許されなくても、私は……今が幸せです」
田中はその言葉を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。
「やっと。もう一つの呪縛から逃れることができました……」
腕の中で、微笑む彼女が口にする。
「お父様に、なんと言って怒られるか。想像もつきません」
田中は、目の前の少女が抱える痛みと願いの重さを、確かに感じていた。
だからこそ、その抱擁に言葉を添えることはなかった。
外の風が、カーテンを揺らす。
夕陽の残光が二人の影を長く伸ばし、やがて、夜の帳が静かに降りてきた。
神の名も、祝福の言葉もいらない。
ただ、人の温もりだけが、確かにそこにあるのだった。
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