第32話 金糸のリボン
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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授業が終わると、子供たちは次々と教室を後にした。
最後のひとりが出て行くと、部屋はしんと静まり返る。
光の傾きが変わり、机の上に伸びる影がゆっくりと形を変えていく。
マルガレータは席に残っていた。
書きかけのノートを閉じ、何をするでもなく、指先で表紙を撫でる。
ただ、誰かの足音を待っていた。
――いつからか、放課後のこの静けさが好きになっていた。
戸口の向こうから足音が近づく。
田中だった。
資料を抱えて戻ってきた彼は、窓辺に立つマルガレータを見つけ、少し意外そうに眉を上げた。
「まだ帰らないのかい」
「ええ。少しだけ……。風が気持ちよくて」
窓から吹き込む風が、彼女の髪を揺らした。
淡い金糸のリボンが光を受け、まぶしくきらめく。
田中はその髪を何気なく見つめた。
金色の光が、どこか痛々しく見える。
あの細い糸が、彼女を縛っているように感じた。
「……それ、重たくないか?」
「え?」
マルガレータが振り返る。
田中は言葉を探すように一瞬黙り、やがて懐から小さな包みを取り出した。
「前に、街で買ったものがあるんだ」
包みの中には、素朴な木の髪飾り。
花を模した形が、不器用な手仕事のぬくもりを残している。
田中はそのまま、自然な手つきで彼女の髪に触れた。
「……!」
マルガレータの呼吸が止まる。
金糸の結び目を指先で探り、ゆっくりとほどく。
糸がするりと滑り落ち、光の粒を散らした。
彼女の髪が風に揺れ、夕陽の中で柔らかく広がる。
田中は、迷いもなく木の飾りを差し込んだ。
「これでいい。金の糸より、こっちの方が軽そうだ」
あまりに自然な口調だった。
彼自身、その行為にどんな意味があるかも知らない。
マルガレータの世界が、わずかに軋んで揺れた。
胸の奥に張りついていた薄い膜が、静かに破れるようだった。
きつく縛られていた髪が、ふわりと広がる。
風が流れ込み、頬を撫で、耳の後ろをくすぐる。
その感触は、生まれて初めて「風」を肌で感じたかのようだった。
「……どうして、そんなことを……」
「ああ、すまない。気に障ったなら、戻そうか」
田中が慌てて言うと、マルガレータは首を横に振った。
金糸のリボンが手の中に残っていた。
その重みを確かめながら、マルガレータの頬を一筋の涙が伝った。
「このリボン……母が言いました。嫁ぐ日まで、絶対に解いてはいけないって。家の誇りの象徴なんです」
田中は、はっとして彼女の顔を見た。
無意識にしてしまったことの意味を、今さらながら悟る。
「……悪かった。戻した方が――」
「いいえ」
マルガレータは静かに微笑んだ。
その表情には、これまで見せたことのない柔らかさがあった。
「……風が、髪に触れるんですね」
思わず漏れた言葉に、自分で驚く。
この街の風は、いつも祈りの鐘と共に吹いているのに、いままでその音しか知らなかったことに気づく。
金糸の重みは、家の名と誇り、そして義務の象徴だった。
それを解かれた瞬間――彼女の心は、自分が誰であるかという問いから、ひととき解放された。
胸の奥から、涙がこみ上げてくる。
悲しみではなく、ようやく息ができることへの驚きの涙。
「……不思議です。たった糸をひとつ解かれただけなのに、ずっと閉じこめられていた空気が、一気に流れ出したようで」
田中は何も言わず、ただうなづいた。
彼女の髪が陽光を受けて、金でも銀でもない、ただの人の色に戻っていく。
その色こそ、マルガレータというひとりの女性の色だった。
夜の修道院は、静寂に包まれていた。
石造りの回廊に灯る燭台が、影を揺らしている。
その中を、修道士ゲルトルーデが歩いていた。
外の風は冷たく、月光が高窓から細く射し込む。
彼女の指先は冷えていたが、胸の奥だけがざわついている。
あの男――ターナカ。
彼は祈らない。
神の御名を呼ばず、聖印を結ぶこともない。
けれど、彼のもとに集まる者たちの顔は、なぜか穏やかだった。
理解できない。
だが、理解したい。
それが、今の彼女の胸を占めていた。
ゲルトルーデは修道院の奥にある記録室の扉を開けた。
冷たい空気が流れ込み、蝋燭の炎が小さく震える。
部屋の中には、古びた羊皮紙の束や木簡が乱雑に積まれていた。
それらは正式な報告書ではない。
修道士たちの耳に残った懺悔、信者が祈りの中でこぼした独白、あるいは神の関与を感じた瞬間を、誰かが書き留めた信仰の記録――。
彼女は棚の奥から、最近の日付が記された束を取り出した。
そこに、目的の名があった。
――ターナカ。
異国の響きを持つその名が、いくつもの記録に現れていた。
紙を開く。インクがまだ新しく、筆跡はばらばらだ。
討伐のあと、血に染まった兵士がいた。
祈りを授けても震えが止まらず、夜も眠れぬという。
そこに現れた男が、ただ一言『もう大丈夫だ』と告げた。
兵士はそのまま安らかに眠った。
寡婦の会にて、泣く女の肩に手を置き、『もう、よくやった』とささやいた。
その女は、まるで罪を赦されたように笑った。
どの記録にも、祈祷の言葉はない。
神の名も、聖典の章句も、どこにも書かれていなかった。
――それでも、人は救われている。
ゲルトルーデは紙を手にしたまま、深く息を吸い込んだ。インクと蝋の匂いが胸に刺さる。
「神の御業と記すべきところを……誰も、そう書かなかったのね」
それは恐れか、それとも敬意か。
彼の行いを奇跡と呼ぶことを、誰も決断できなかったのだろう。
蝋燭の火が小さく弾けた。
彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、震える手で次の記録をめくる。
祈りの形なき癒やし。神の沈黙の中で、人が人を救うことは、罪か。
記した修道士の名は、読めない。
けれど、その一文が胸を締めつける。
――神の沈黙。
ゲルトルーデは、手を合わせる。
唇がわずかに動く。
だが、出てきたのは祈りの文句ではなかった。
「……あの人は、どこで神を見たの?」
自分でも驚くほど、柔らかい声だった。
言葉にした途端、胸の奥で何かが静かに崩れ落ちる。
その音を、祈りの鐘がかき消した。
深夜。
窓の外で月が修道院の尖塔を照らしている。
ゲルトルーデは聖書を閉じた。
そこに記されている神は、あまりに遠い。
けれど、あの男の言葉は近かった。
言葉を越えた癒やし。
それを受け入れられぬ自分の心を、彼女は初めて神の試練として感じていた。
「……あの人がしたことを、確かめなくては」
祈りの鐘が止み、修道院を満たす沈黙の中で、彼女だけがまだ祈りを続けていた。
立ち上がったゲルトルーデの影が、壁に長く伸びる。
その瞳には、信仰ではなく――探究の光が宿っていた。
金糸のリボンは、後で出て来ますので、覚えて置いて下さいね!
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