第31話 祈りの声
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
------------------------------------------------
その日の授業が終わると、教室の中には淡い夕光が残っていた。
子供たちは元気に帰っていき、笑い声が廊下の向こうに遠ざかっていく。
机の上に光の筋が落ち、舞い上がる埃がきらきらと揺れた。
田中が帰る準備を終えると、窓際に座っているマルガレータに気づいた。
彼女は机に頬杖をつき、外の空をぼんやりと眺めている。
普段の整った姿勢が崩れていて、どこか遠くの世界を見ているようだった。
「疲れたの?」
田中がそう声をかけると、彼女は小さく瞬きをした。
「……ええ、少し」
声に張りがなかった。
それでも、彼女は微笑を作ろうとした。
無理に形を整えようとする、その仕草に田中は気づく。
「ここは夕方になると、急に静かになるね」
「ええ。……でも、静かすぎるのも、少し怖いです」
田中は椅子を引いて、彼女の向かいに腰を下ろした。
机の木目に指をなぞりながら、少しだけ声を落とす。
「疲れたときは、風の音を数えるといいよ。いくつも数えるうちに、余計なことを考えなくなるから」
マルガレータはためらいながらも、そっと目を閉じた。
窓の外では、木の葉が擦れる音。
子供たちの笑い声が遠くで溶けていく。
「風が通るのが分かるでしょ?」
「……はい」
「いくつか数えてみよう」
彼の声は、まるで水面に波紋を描くように柔らかく届いた。
ひと呼吸ごとに、彼女の肩の力が抜けていく。
どこかで小鳥の声がして、光がまぶたの裏に滲んだ。
しばらくして、マルガレータはぽつりとつぶやいた。
「英雄さまは、英雄になりたかったのですか?」
急な質問に、田中は首をかしげる。
「どちらかというと、気づいたらそういう風に呼ばれるようになった、かな」
彼女は、窓の外に止まる小鳥に視線を移す。
「……日々、どうしたらいいのか、分からなくなることがあるんです。祈っても、心が静まらないんです。信じることが何なのか、分からなくて」
田中は口を開かず、ただうなずいた。
彼女の声が、心の奥を掘り返していくようだった。
「家では立派な娘でいなければならなくて、ここでは模範的な修道生徒でいなければなりません。でも……どちらの顔も、私じゃない気がするんです」
マルガレータは苦笑した。
「わたし、自分の意志で通っているわけじゃありません。家の決めごとで、修道院に通っています。寄進で家の名を買っているようなものです。信仰は、わたしのものではない気がして……」
彼女の手が机の上で小さく震えた。
田中はゆっくりと声を出した。
「人の形を守るために、自分を削ることがある。でも、それでいいと思う。どこかで息をしていれば、それが生きてる証拠だと、僕は思うよ」
その言葉に、マルガレータは小さく目を開けた。
瞳の奥に、わずかな光が戻っていた。
「なんだか、修道士様のお言葉みたい」
彼女はふっとした笑みを漏らした。
重く絡んでいた糸が、少しだけほどけるような感覚だった。
「心が軽くなるのに、胸が少し痛い。変ですね」
田中の声が、微笑とともに返ってくる。
その言葉が胸の奥で何度も反響し、マルガレータのまつ毛がわずかに揺れた。
日が傾くころ、二人は修道院を後にした。
薄い橙の光が石畳を照らし、足元に長い影を伸ばしている。
マルガレータはいつもより一歩後ろを歩いていた。
教室を出たときから、胸の奥に小さな熱が残っていた。
それが何か、まだ分からない。
ただ、彼の隣を歩くと、息の仕方を忘れそうになる。
「風が涼しくなってきたね」
田中がそう言って、袖を少し掴み直した。
その動作一つで、彼の背中が思ったよりも広いことを知る。
マルガレータは目を伏せた。
「……ええ。でも、今日は気持ちのいい疲れです」
「それはよかった」
それ以上、会話は続かなかった。
沈黙は気まずくもあり、心地よくもあった。
門を出て、通りを少し歩いたところで、炊き出し場の片隅に人影が見えた。
大鍋を洗っているのはリーナとカタリナだった。
夕陽に照らされた二人の横顔が、やわらかく揺れている。
「あ……ターナカさん!」
リーナが気づいて手を振った。
白い腕が光を受けて、まぶしく見える。
田中は軽く笑い、歩み寄る。
「手伝いましょうか?」
「だめです、また袖を濡らしますよ」
そう言いながらも、リーナの頬はほころんでいた。
隣のカタリナも、楽しそうに笑っている。
田中が持ち上げた桶の水が夕陽を受けて光り、ふたりの笑顔がその光を跳ね返すように輝いた。
その光景を少し離れた場所で見ていたマルガレータは、立ち止まったまま動けなくなった。
胸の奥で、知らない音が鳴った。
「……どうして、そんな顔で笑うの」
自分でも、なぜそんな言葉が浮かんだのか分からなかった。
彼女は田中の穏やかな声を聞きながら、その輪の中に自分がいないことを、はっきりと感じた。
彼の声は、いつもと同じ。
けれど、それが、自分に向けられたもので無いことが、どうしようもなく胸をざわつかせた。
――あの人の声が、自分だけのものではない。
それは当然のことだった。
田中は、誰にでも優しい。
子供たちにも、修道士にも、炊き出しの人々にも。
彼の声は、すべてを包む。
それなのに、今だけは――その優しさが痛かった。
炊き出し場を離れるころには、空は薄紫に染まっていた。
風が吹き抜け、パンの焼ける香りが遠くから届く。
二人はゆっくりと石畳を歩いていた。
「さっきの人たち、明るいですね」
「ああ。あの人たちは、よく働く。みんな支え合ってる」
「……あなたも、あの人たちの一部なんですね」
田中が振り向く。
「え?」
「いえ……なんでもありません」
マルガレータは微笑もうとしたが、唇の端がかすかに震えた。
その笑顔が、どうしても上手く作れなかった。
心の奥に、形を持たない痛みが残っていた。
教室での穏やかな時間が、遠く霞んでいく。
さっきまで胸を満たしていた安らぎは、今では逆に、自分の孤独を浮き彫りにしていた。
「……あなたは、誰の声に応えるんですか」
思わず口をついて出た言葉だった。
田中は少し考えてから、静かに答えた。
「さあ? せいぜい、目の前の誰かくらいですよ」
その答えは、まっすぐで、どこまでも優しかった。
けれどマルガレータには、それが遠いもののように思えた。
胸の奥で、何かがきしむ。
風が二人の間をすり抜け、裾を揺らした。
修道院の鐘が鳴った。
夕陽が完全に沈む。
その光が消えたあと、マルガレータはそっと目を閉じた。
(この痛みは、何なのかしら……。それとも――)
答えはまだ、彼女の中で見つからなかった。
毎日19:10頃更新しています。
ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!




