第30話 教室の光
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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朝の鐘が2回鳴る頃。
光が修道院の窓から差し込み、木の机の上に長い影を落としていた。
講堂ほどの広さもないが、そこには静かな熱があった。
子供たちの小さな声、ペンが紙を擦る音。
神の名を唱えるよりも、人の気配が濃く漂う場所だった。
田中は、その教室の、いちばん後ろの席に腰を下ろしていた。
粗末な椅子は少しきしんだが、それもまた落ち着く音に思えた。
机の向こうには、貴族や商人の子らが並び、聖典の一節を筆記しながら、修道士の声を真似ていた。
「――神は、心清き者を祝福し、傲慢なる者を罰す」
そう唱える声の中に、幼いあくびが混ざる。
田中は思わず口元をゆるめた。
10歳にも満たない子供たちにとって、この教えは少しばかり重い。
それでも彼らは、毎朝欠かさず祈りと学びを繰り返していた。
当初、彼がここに加わると聞いたとき、修道士たちは顔をしかめた。
「英雄が教室に?」
「聖句よりも、剣を振るう方が得意なのでは?」
そんな声が上がったと聞く。
だが、マルガレータの願いと修道院長の許可によって、彼は正式に生徒として迎え入れられることになった。
しばらく通うと、子供達とも仲良くなる。
田中の隣では、年の離れた少年がこっそりと紙を覗き込み「英雄さま、字を書くの、うまくなったね!」と笑った。
彼は小さくうなずく。
「師がいいからな。お前たちのまねをしているだけだ」
周囲からくすくすと笑い声が上がった。
子供たちは、すっかり彼に慣れてしまったらしい。
最初は遠巻きにしていたのが、今では休み時間に群がるほどだった。
年少の子は「おんぶして」とせがみ、年長の子は「剣の持ち方を教えて」と憧れを隠さなかった。
そんな中、修道士が朗々と聖典を読み上げた。
「神の御心は、戦いを止め、争いを鎮めるものなり」
その言葉に、一人の少年が首を傾げる。
「じゃあ、どうして争いはなくならないの?」
修道士がぴたりと口を止めた。
教室にざわめきが走る。
――その問いは、信仰の場ではあまりにまっすぐ過ぎた。
子供たちが修道士の返事を待つ。だが、答えは出てこない。
田中は静かに手を挙げた。
「いい質問だ」
修道士がほっとしたように彼を見る。
田中は立ち上がり、黒板の前に出た。
「神さまは、戦争を止めるんじゃなくて、止めようとする人を見てるんだと思うよ」
子供たちがいっせいに顔を上げる。
年長の少年が手を挙げた。
「じゃあターナカさんは止めたの?」
「いや、怖かったから逃げたよ。死にたくなかったからね」
教室に笑いが起きた。
修道士が咳払いをしながら「静粛に」と言うが、どこかに笑いを含んでいた。
その空気の柔らかさに、マルガレータはペンを止めた。
彼女のノートには、文字が並ぶ。
〈神は見ている〉
その一文を見つめてから、静かに線を引いた。
代わりに書き加えたのは――
〈人を見ている〉
意味は違う。
けれど、なぜか胸の奥でその言葉がしっくりと馴染んだ。
授業の終わりの鐘が鳴る。
子供たちは机を叩き、声を弾ませながら立ち上がった。
外の中庭へと駆け出していく。
木漏れ日の下で笑い声が弾けた。
田中はゆっくりと腰を上げ、残ったノートを閉じるマルガレータに軽く会釈した。
「……あなたの言葉の方が、心に残りました」
彼女の声は小さく、けれど確かな響きを帯びていた。
田中は答えず、ただ穏やかに笑った。
――それだけで、十分だった。
昼下がりの中庭は、光がやわらかく地面を照らしていた。
古い噴水の縁に腰を掛けた子供たちが、木の枝を手に「魔狼討伐ごっこ」をしている。
剣を構えるまねをしながら、笑い声を上げ、砂埃を舞い上げた。
修道士たちは遠くからそれを見守り、田中は片付けを手伝いながら静かに眺めていた。
「やれやれ、こいつらの方がずっと勇敢だな」
そのとき、小さな悲鳴が響いた。
ひとりの少年が転んでいた。
石畳に膝を擦り、血がにじんでいる。
隣にいた子が慌てて「修道士様! 血が出てる!」と叫ぶ。
修道士が駆け寄ろうとしたが、田中の方が早かった。
しゃがみ込み、膝を覗き込む。
痛みで涙をこらえる少年に、田中は穏やかな声で言った。
「痛いの痛いの、飛んでけ――」
子供が一瞬、きょとんとする。
そして、しゃくり上げた呼吸が静まった。
涙が乾いていく。
「……ほんとだ、痛くない!」
周りの子供たちがどよめいた。
「すごい!」
「英雄さまの呪文だ!」
修道士が困惑したように眉を寄せる。
田中は苦笑して肩をすくめた。
「魔法なんて持ってないよ。ただの気休めさ」
そして少年の頭をそっと撫でる。
「次は石畳の上じゃなく、草の上で遊べよ」
少年が笑い、他の子供たちもつられて笑った。
その場の空気が、いつのまにか明るくなる。
血はまだにじんでいたが、泣き声はどこにもなかった。
その様子を少し離れたベンチで見ていたマルガレータは、両手の本を胸に抱き、ただ立ち尽くしていた。
「……あの人は、祈っていないのに。言葉だけで、人の痛みを止めた……」
胸の奥が熱くなる。
祈りとは、聖句でも儀式でもない。
ただ誰かの痛みに寄り添う、その姿こそ――。
マルガレータは知らぬ間に、本の角を握りしめていた。
石造りの廊下の陰で、修道女ゲルトルーデが立っていた。
彼女はこの修道院でも若い方で、信心深く、冷静な女だった。
だがその眼差しは、田中を見るときだけわずかに揺れた。
「あれが……本当に危険な存在に見えますか?」
隣の修道女がささやく。
銀髪で、冷めた目をした少女――ゲルトルーデは首を横に振らなかった。
ただ、答えなかった。
彼女の中で、命じられた監視という言葉が曖昧になっていく。
笑っている男。
子供に向けた、穏やかな眼差し。
祈りの言葉よりも、まっすぐな手。
「……笑っている人ほど、何かを隠しているものです」
そうつぶやきながらも、なぜか視線を外せなかった。
教室からはまだ、子供たちの笑い声が聞こえていた。
その中に、田中の声が混じっている。
まるで鐘の音のように、心に残った。
夕暮れ。
光が傾き、教室の窓を金色に染めていた。
田中は一日の授業を終え、机を拭いていた。
子供たちの落書きが消えない。だが、それも悪くない。
そうつぶやいて、窓の外を見やる。
中庭では、マルガレータがノートを開いていた。
そのページには祈りの文字が消され、代わりに生きると震える筆跡で書かれている。
風が紙を揺らし、修道院の鐘が遠くで鳴り始めた。
彼女は顔を上げ、特に広がる葡萄畑の空を仰いだ。
マルガレータは金髪、ゲルトルーデは銀髪です。
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