表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第七章 2人の信仰

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/57

第29話 祈りの教室

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

------------------------------------------------

 修道院の講堂は、息をするのもためらうほど静かだった。

 高い天井の梁には、初夏の光が差し込み、その光がステンドグラスを通って床に色を落としていた。

 蝋燭の炎がゆらぎ、石の壁に映る影が揺れる。

 祈りよりも、緊張が満ちていた。


 列をなす子供たちの衣は白く、整然と並んでいる。

 奉献児童――神への奉仕を学ぶために修道院に暮らす子供たち。その瞳はまだ幼い。

 彼らの後方には、修道士たちが静かに立ち、視線を交わしている。

 この場は祝福のためのものではない。

 観察と評価のための場だった。


 壇上に立つ男が1人。

 田中。

 無骨な服に身を包み、手を前で組んでいる。

 その姿は、この清潔な講堂に似つかわしくない。

 だが、誰よりも真っ直ぐに光を受けていた。


 「神の導きによって魔狼を退けし者、ターナカ殿に、教えを賜ります」


 司会の修道士が声を張り上げ、拍手が控えめに広がる。

 その中に、半分は好奇心、半分は警戒があった。


 田中は深く一礼し、口を開いた。


 「――戦うことは、怖いことです」


 その言葉で、場の空気がわずかに動いた。

 修道士たちは互いに目をやり、子供たちは思っていた英雄と違う言葉に、戸惑いの顔を見せる。


 「勇敢と無謀を、はき違えてはいけません。あ、言葉が悪かったですね。混同してはいけません。……神の御名のもとに戦うことは、大切なことです。けれど、勝つことよりも、生き残ることの方が――。ずっと大切なんです」


 ざわ、と衣擦れの音が走った。

 修道士の一人が顔をしかめ、隣の者に小声でささやく。

 生き残ることが勝利――

 この街では誰も言わない言葉だ。

 神の栄光のために死ぬことこそ誉れ、と教わってきた。

 だが田中の声は、穏やかで、恐ろしく正直だった。


 「誰かを守るために剣を振るうのは、立派なことです。でも、死んでしまっては、誰も守れません。祈念は、生きている者のためにある。命があってこそ、次の誰かを助けられるんです」


 その言葉に、最前列の少女が目を細めた。

 金髪の房を整え、背筋を正す。

 マルガレータ。

 修道院でも指折りの模範生であり、祈りと礼儀を誰よりもよく身につけた少女。


 彼女は、神の話を聞く時の顔――。つまり「退屈していないふり」の顔――で田中を見つめていた。


 「また同じ話。神の導き、加護、感謝……。心なんて動かない。祈りの時間は、いつも退屈」


 だが、田中の声にはそれがなかった。

 語っているのは神の奇跡ではなく、現実の話だった。

 生き残る事の重さを知っている者の声。

 それが、マルガレータの心を、かすかに乱した。


 彼女は自分の胸の奥で何かが軋むのを感じていた。

 「心が動いた」という感覚を、彼女は久しく忘れていたのだ。


 講話が終わると、司会の修道士が進み出て「質問がある者は」と声を上げた。

 子供たちはおそるおそる手を上げる。

 そんな中、やがて生意気そうな少年が立ち上がり、声を上げた。


 「英雄さまは……字を読めるんですかー?」


 講堂の空気が少し揺れた。

 田中は一瞬黙り、苦笑を浮かべる。


 「……ああ、それは苦手でね。読むのに少し時間がかかるんです」


 子供たちがざわめいた。

 何人かが笑い、年長の子たちは口元を押さえた。字が読めないということは、聖書を読めないという事だ。

 「字も読めない英雄」「神の言葉を知らない戦士」とはやし立てる声。


 修道士が手を上げ、制止の合図をする。

 だが、もう遅い。

 子供たちは笑いをこらえきれず、小さな波のように広がっていった。


 マルガレータもその1人だった。

 唇をかすかに上げ、つぶやく。


 「字も読めないのに、人に教えるの?」


 その声は小さかったが、確かに壇上に届いた。


 田中は笑いも怒りもせず、ただその声の方を見た。

 そして、少し間を置いてから穏やかに言った。


 「字は、ゆっくり覚えればいい。でも、人の顔は、会えばすぐに覚えられます。話せば、その()()()()が分かります。誰が悲しんでて、誰が笑ってるか――。文字でのコミュニケーションは、その後でも良いと思いませんか?」


 講堂の笑いが、すうっと消えた。

 風が止まったように、静寂が降りた。

 修道士たちも息を飲む。

 マルガレータは思わず背筋を正し、そのまま、しばらく目を逸らせなかった。


 田中は軽く頭を下げ、壇上から降りる。

 蝋燭の火が揺れ、講堂に残ったのは、誰も言葉にできないざわめきだけだった。






 講堂の扉が閉まり、蝋燭の光がひとつ、またひとつと消えていく。

 静寂の残響の中で、マルガレータは席を立てなかった。

 他の子供たちは次々に列をなし、廊下へと去っていく。

 修道士の足音が石床を渡るたび、空気が少しずつ冷えていく。

 それでも、彼女は椅子に腰を下ろしたまま、床に落ちた光の帯を見つめていた。


 ステンドグラスの破片のような光が、彼女の指先を照らしている。

 心の奥が、ざわざわと波打っていた。


 「あの人は、神様の話をしていなかった。なのに、誰よりも()()を知っている気がした」


 マルガレータは両手を膝の上で重ね、指をぎゅっと握った。

 神の言葉はすでにすべて覚えた。祈祷も唱えられる。

 けれど、どんなに声を出しても、胸の奥は空っぽのままだった。


 勇敢と無謀をはき違えるな――。ターナカの声が蘇る。

 それは教会では語られない種類の言葉だった。

 誰もが「神の名の下に死ぬこと」を誉れとしてきた。

 だが彼は違った。

 「生き残ることが、勝利だ」と言った。

 ――まるで、生きること自体が罪ではないのだと、許された気がした。


 胸の奥に、微かな火が灯る。

 マルガレータは息を吸い込み、そっと吐いた。

 まるでその光を壊さないように。




 その夜、自宅の中庭は静まり返っていた。

 月光が噴水を照らし、水面に銀の線を描く。

 マルガレータは、薄い外衣を羽織りながら歩いていた。

 耳の奥で、あの声が繰り返される。


 「祈りは、生きている者のためにある」


 思わず、つぶやいた。


 「……なら、私は誰のために手を合わせていたの?」


 その答えを、彼女は知らなかった。

 ただ、今までの祈りがどれも空虚なものだったことが、はっきりとわかった。




 翌朝。

 マルガレータは修道院長の部屋を訪れた。

 石壁の部屋には書物が並び、香の煙がゆらゆらと揺れている。

 院長は、眼鏡の奥で静かに微笑んでいた。


「――ターナカ殿と、一緒に勉強をしたいのです」


 突然の願いに、院長は少しだけ眉を上げた。

 傍らの修道士たちがざわめく。

 奉献児童が外の者と関わるなど、聞いたことがない。


 マルガレータは胸の前で手を組んだ。


 「あの方は字が苦手とおっしゃっていました。けれど、あの人の言葉は、どんな祈りよりも心に残りました。……あの方から、もう一度()()を学びたいのです」


 その純粋な口調に、院長はしばらく沈黙した。

 やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。


 「あなたの家は寄進が多い。修道院としても、功労者に学びの場を与えるのは良いことです」


 その声の奥には、別の意味が隠れていた。


 ――彼を近くに置くのは悪くない。

 監視にもなる。

 教会にとって、都合のよい英雄ほど扱いやすい存在はない。


 マルガレータはそんな意図に気づかぬまま、深く頭を下げた。


 「ありがとうございます、院長さま」


 部屋を出た彼女の頬には、これまでになかった熱が宿っていた。

 学ぶという言葉が、初めて自分の意志で口にされたのだ。




 その日、マルガレータは寝台の上で小さな羊皮紙を開いた。

 ペンを取り、初めて祈りではない言葉を書こうとしていた。

 手が震える。

 それでも、ペン先を動かす。


 「救いの言葉は覚えた。でも、あの人の言葉は、まだ覚えられない。――だから、学びたい」


 書き終えると、窓の外から風が吹き込んだ。

 影が揺れ、蝋燭の炎が柔らかく彼女の顔を照らした。


 マルガレータは目を閉じ、静かにつぶやく。


 「神さま、どうか明日からは、退屈じゃありませんように」


 鐘の音が遠くで鳴った。

 それは、救いの合図ではなく――。何かが始まる音のように聞こえた。






 冒険者ギルドの外では、グレータが馬車の荷を降ろしながら御者と話していた。

 田中はその隣で手を貸している。

 風が吹き抜け、木々がざわめいた。


 修道士が一人近づき、院長の使いとして伝言を告げた。


「ターナカ殿。奉献児童のマルガレータ様が、一緒に学びたいと申し出られました。修道院としても、正式に許可を出します」


 田中は驚いたように目を瞬かせた。


 「一緒に……?」

 「はい。明日から、勉学の時を共に過ごしていただきます」


 修道士が去ると、グレータがすぐに口を開いた。


 「ほう、えらい気に入られたもんやな。修道院は鼻がええ。今度は子供に見張らせる気やで」

 「……監視、ですか。そうかもしれませんね」

 「けどまあ、悪い話やない。学ぶ相手ができるのはええことや。特に、かわいい子やったらな」


 グレータは笑いながらも、声の奥に警戒の色を残していた。

 田中は苦笑し、肩の埃を払う。


 「気をつけますよ。風上には立たないように」

 「そうや。けどな――」


 グレータは帽子をかぶり直し、


 「風は気まぐれや。うっかり当たることもある」


 そう言って背を向けた。




 生きることを選ぶ者がいる。

 その姿を見て、心が動く者がいる。――それだけで、世界は少し変わる気がした。


毎日19:10頃更新しています。

ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ