第29話 祈りの教室
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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修道院の講堂は、息をするのもためらうほど静かだった。
高い天井の梁には、初夏の光が差し込み、その光がステンドグラスを通って床に色を落としていた。
蝋燭の炎がゆらぎ、石の壁に映る影が揺れる。
祈りよりも、緊張が満ちていた。
列をなす子供たちの衣は白く、整然と並んでいる。
奉献児童――神への奉仕を学ぶために修道院に暮らす子供たち。その瞳はまだ幼い。
彼らの後方には、修道士たちが静かに立ち、視線を交わしている。
この場は祝福のためのものではない。
観察と評価のための場だった。
壇上に立つ男が1人。
田中。
無骨な服に身を包み、手を前で組んでいる。
その姿は、この清潔な講堂に似つかわしくない。
だが、誰よりも真っ直ぐに光を受けていた。
「神の導きによって魔狼を退けし者、ターナカ殿に、教えを賜ります」
司会の修道士が声を張り上げ、拍手が控えめに広がる。
その中に、半分は好奇心、半分は警戒があった。
田中は深く一礼し、口を開いた。
「――戦うことは、怖いことです」
その言葉で、場の空気がわずかに動いた。
修道士たちは互いに目をやり、子供たちは思っていた英雄と違う言葉に、戸惑いの顔を見せる。
「勇敢と無謀を、はき違えてはいけません。あ、言葉が悪かったですね。混同してはいけません。……神の御名のもとに戦うことは、大切なことです。けれど、勝つことよりも、生き残ることの方が――。ずっと大切なんです」
ざわ、と衣擦れの音が走った。
修道士の一人が顔をしかめ、隣の者に小声でささやく。
生き残ることが勝利――
この街では誰も言わない言葉だ。
神の栄光のために死ぬことこそ誉れ、と教わってきた。
だが田中の声は、穏やかで、恐ろしく正直だった。
「誰かを守るために剣を振るうのは、立派なことです。でも、死んでしまっては、誰も守れません。祈念は、生きている者のためにある。命があってこそ、次の誰かを助けられるんです」
その言葉に、最前列の少女が目を細めた。
金髪の房を整え、背筋を正す。
マルガレータ。
修道院でも指折りの模範生であり、祈りと礼儀を誰よりもよく身につけた少女。
彼女は、神の話を聞く時の顔――。つまり「退屈していないふり」の顔――で田中を見つめていた。
「また同じ話。神の導き、加護、感謝……。心なんて動かない。祈りの時間は、いつも退屈」
だが、田中の声にはそれがなかった。
語っているのは神の奇跡ではなく、現実の話だった。
生き残る事の重さを知っている者の声。
それが、マルガレータの心を、かすかに乱した。
彼女は自分の胸の奥で何かが軋むのを感じていた。
「心が動いた」という感覚を、彼女は久しく忘れていたのだ。
講話が終わると、司会の修道士が進み出て「質問がある者は」と声を上げた。
子供たちはおそるおそる手を上げる。
そんな中、やがて生意気そうな少年が立ち上がり、声を上げた。
「英雄さまは……字を読めるんですかー?」
講堂の空気が少し揺れた。
田中は一瞬黙り、苦笑を浮かべる。
「……ああ、それは苦手でね。読むのに少し時間がかかるんです」
子供たちがざわめいた。
何人かが笑い、年長の子たちは口元を押さえた。字が読めないということは、聖書を読めないという事だ。
「字も読めない英雄」「神の言葉を知らない戦士」とはやし立てる声。
修道士が手を上げ、制止の合図をする。
だが、もう遅い。
子供たちは笑いをこらえきれず、小さな波のように広がっていった。
マルガレータもその1人だった。
唇をかすかに上げ、つぶやく。
「字も読めないのに、人に教えるの?」
その声は小さかったが、確かに壇上に届いた。
田中は笑いも怒りもせず、ただその声の方を見た。
そして、少し間を置いてから穏やかに言った。
「字は、ゆっくり覚えればいい。でも、人の顔は、会えばすぐに覚えられます。話せば、その人となりが分かります。誰が悲しんでて、誰が笑ってるか――。文字でのコミュニケーションは、その後でも良いと思いませんか?」
講堂の笑いが、すうっと消えた。
風が止まったように、静寂が降りた。
修道士たちも息を飲む。
マルガレータは思わず背筋を正し、そのまま、しばらく目を逸らせなかった。
田中は軽く頭を下げ、壇上から降りる。
蝋燭の火が揺れ、講堂に残ったのは、誰も言葉にできないざわめきだけだった。
講堂の扉が閉まり、蝋燭の光がひとつ、またひとつと消えていく。
静寂の残響の中で、マルガレータは席を立てなかった。
他の子供たちは次々に列をなし、廊下へと去っていく。
修道士の足音が石床を渡るたび、空気が少しずつ冷えていく。
それでも、彼女は椅子に腰を下ろしたまま、床に落ちた光の帯を見つめていた。
ステンドグラスの破片のような光が、彼女の指先を照らしている。
心の奥が、ざわざわと波打っていた。
「あの人は、神様の話をしていなかった。なのに、誰よりも救いを知っている気がした」
マルガレータは両手を膝の上で重ね、指をぎゅっと握った。
神の言葉はすでにすべて覚えた。祈祷も唱えられる。
けれど、どんなに声を出しても、胸の奥は空っぽのままだった。
勇敢と無謀をはき違えるな――。ターナカの声が蘇る。
それは教会では語られない種類の言葉だった。
誰もが「神の名の下に死ぬこと」を誉れとしてきた。
だが彼は違った。
「生き残ることが、勝利だ」と言った。
――まるで、生きること自体が罪ではないのだと、許された気がした。
胸の奥に、微かな火が灯る。
マルガレータは息を吸い込み、そっと吐いた。
まるでその光を壊さないように。
その夜、自宅の中庭は静まり返っていた。
月光が噴水を照らし、水面に銀の線を描く。
マルガレータは、薄い外衣を羽織りながら歩いていた。
耳の奥で、あの声が繰り返される。
「祈りは、生きている者のためにある」
思わず、つぶやいた。
「……なら、私は誰のために手を合わせていたの?」
その答えを、彼女は知らなかった。
ただ、今までの祈りがどれも空虚なものだったことが、はっきりとわかった。
翌朝。
マルガレータは修道院長の部屋を訪れた。
石壁の部屋には書物が並び、香の煙がゆらゆらと揺れている。
院長は、眼鏡の奥で静かに微笑んでいた。
「――ターナカ殿と、一緒に勉強をしたいのです」
突然の願いに、院長は少しだけ眉を上げた。
傍らの修道士たちがざわめく。
奉献児童が外の者と関わるなど、聞いたことがない。
マルガレータは胸の前で手を組んだ。
「あの方は字が苦手とおっしゃっていました。けれど、あの人の言葉は、どんな祈りよりも心に残りました。……あの方から、もう一度言葉を学びたいのです」
その純粋な口調に、院長はしばらく沈黙した。
やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「あなたの家は寄進が多い。修道院としても、功労者に学びの場を与えるのは良いことです」
その声の奥には、別の意味が隠れていた。
――彼を近くに置くのは悪くない。
監視にもなる。
教会にとって、都合のよい英雄ほど扱いやすい存在はない。
マルガレータはそんな意図に気づかぬまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、院長さま」
部屋を出た彼女の頬には、これまでになかった熱が宿っていた。
学ぶという言葉が、初めて自分の意志で口にされたのだ。
その日、マルガレータは寝台の上で小さな羊皮紙を開いた。
ペンを取り、初めて祈りではない言葉を書こうとしていた。
手が震える。
それでも、ペン先を動かす。
「救いの言葉は覚えた。でも、あの人の言葉は、まだ覚えられない。――だから、学びたい」
書き終えると、窓の外から風が吹き込んだ。
影が揺れ、蝋燭の炎が柔らかく彼女の顔を照らした。
マルガレータは目を閉じ、静かにつぶやく。
「神さま、どうか明日からは、退屈じゃありませんように」
鐘の音が遠くで鳴った。
それは、救いの合図ではなく――。何かが始まる音のように聞こえた。
冒険者ギルドの外では、グレータが馬車の荷を降ろしながら御者と話していた。
田中はその隣で手を貸している。
風が吹き抜け、木々がざわめいた。
修道士が一人近づき、院長の使いとして伝言を告げた。
「ターナカ殿。奉献児童のマルガレータ様が、一緒に学びたいと申し出られました。修道院としても、正式に許可を出します」
田中は驚いたように目を瞬かせた。
「一緒に……?」
「はい。明日から、勉学の時を共に過ごしていただきます」
修道士が去ると、グレータがすぐに口を開いた。
「ほう、えらい気に入られたもんやな。修道院は鼻がええ。今度は子供に見張らせる気やで」
「……監視、ですか。そうかもしれませんね」
「けどまあ、悪い話やない。学ぶ相手ができるのはええことや。特に、かわいい子やったらな」
グレータは笑いながらも、声の奥に警戒の色を残していた。
田中は苦笑し、肩の埃を払う。
「気をつけますよ。風上には立たないように」
「そうや。けどな――」
グレータは帽子をかぶり直し、
「風は気まぐれや。うっかり当たることもある」
そう言って背を向けた。
生きることを選ぶ者がいる。
その姿を見て、心が動く者がいる。――それだけで、世界は少し変わる気がした。
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