第25話 星降る夜に
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
------------------------------------------------
初夏の風が、屋敷の白いカーテンをゆらしていた。
陽の光は柔らかく、空気には湿り気が混じり始めている。
「あなたは、もう誰かの飾りではありません」
自分に向けられた言葉。
あの夜の声。あの瞳。
思い出すたび、胸の奥がじんと熱くなる。
どうして、こんなにも思い出してしまうのだろう。自分でもわからない。
あれから何度も彼の名を口にしそうになった。
けれど、貴族の娘が異国の男を慕うなど――許されることではない。
それでも、心は理屈を越えて動いてしまう。
朝の光が、金の髪を照らす。
イザベルはふと、机に頬杖をつき、つぶやいた。
「……ターナカ」
その名を言葉にした瞬間、胸の奥で、何かが静かに震えた。
遠くで雷の音が聞こえた気がした。
午後、屋敷の庭に最初の雨粒が落ちた。
石畳の上で弾けたそれは、たちまち音を連ねて降り注ぐ。
白い薔薇の花弁が濡れ、風に揺れる。
イザベルは窓辺に立ち、息を吐いた。
「……雨宿り、ね」
誰にともなく言い訳のようにつぶやき、外套を羽織る。
屋敷の侍女が慌てて止めに来たが、「散歩よ」とだけ言い残し、玄関を出た。
服にあたる雨音。
坂を下るほどに、街の匂いが濃くなる。
湿った草の香り、濡れた石の匂い。
彼女は馬車を使わなかった。
あの人の歩いた道を、自分の足で歩いてみたかった。
やがて、雨の帳の向こうに白燕亭の看板が見えてくる。
木の扉の向こうからは、暖かな灯りと人の声が漏れている。
胸の鼓動が早まる。
――ただの雨宿り。
自分にそう言い聞かせ、扉に手をかけた。
その向こうは、ふわりと焼きたてのパンとスープの香りが広がっていた。
灯りに照らされた木の食堂。
その中央に――見慣れた背中。
ターナカがいた。
向かいには、淡い金髪の女。
二人は並んで食事をしていた。
パンを分け合い、何か小さな話で笑い合っている。
その光景が、胸の奥を焼いた。
「……まあ、楽しそうですこと」
イザベルの声に、二人が同時に顔を上げた。
ターナカは目を瞬かせ、ヘルミーナは穏やかに微笑む。
「いらっしゃい。雨宿り?」
「ええ。そんなところね。まさかこんな場所で、英雄様に会えるなんて思いませんでしたケド」
「英雄……?」
ヘルミーナが思わず笑いを漏らす。
「ふふ、そんな呼び方をされるのは、きっと慣れてないんですよ。この人」
その親しげな口ぶりに、イザベルの胸がざらりとした。
まるで、長い付き合いのような物言い。
どうして、あの人がこんな女と笑っていられるの?
「あなたは?」
イザベルが問うと、ヘルミーナは軽く会釈をした。
「ヘルミーナ。ミーネって呼ばれてるわ。街で香油を扱ってるの」
イザベルは一瞬、言葉を失った。
香油――。夜の女が使うものだ。
その響きだけで、彼女の中に偏見が湧く。
「……なるほど。下町の娼婦が、英雄様にお相手してもらうなんて、なかなか大胆ね」
その一言に、ヘルミーナの瞳がわずかに細くなる。
だが、口元は崩さない。
「ミーネはね、お腹が空いてる人にパンを分けてるだけよ。お貴族さまみたいに難しいことはできないけど」
「……皮肉のつもり?」
「さあ、どうかしら」
空気が凍る。
二人の間に、目に見えない刃が生まれたようだった。
田中は匙を止め、そっと息を吐いた。
何を言っても火に油だ。
ゆっくりと立ち上がり、手ぬぐいで口元を拭く。
「……あの、少し湯をもらいに行ってきます」
誰も返事をしない。
田中は軽く頭を下げ、静かに食堂を出た。
背後では、まだ低く火花のような言葉が交わされていた。
階を上がると、空気が軽くなる。
田中は苦笑し、肩をすくめた。
「女同士の戦場には、やっぱり勝てませんね……」
そのつぶやきは、雨音にかき消された。
食堂の空気が、しんと静まった。
外ではまだ雨が降り続いている。
木の壁を打つ雨音が、二人の呼吸の隙間を縫うように響いていた。
先に口を開いたのは、イザベルだった。
「あなた……どうして、あんな人の傍にいられるの?」
ヘルミーナは、手元のパン屑を指先で集めながら、穏やかに微笑んだ。
「どうしてって、そんな難しいことを聞かれても困るわ」
「アタシには、分からないの。あの人、何を考えているのか。誰にでも優しくして、まるで……世界の悲しみを一人で背負ってるみたいじゃない」
ヘルミーナはパン屑を払い、テーブルの上を軽く撫でた。
「……あの人のそばにいるとね、自分を嫌いにならなくて済むの」
イザベルの眉が動いた。
「自分を、嫌いに?」
「うん。ミーナはね、今まで、自分が誰かの役に立ってるなんて思ったこと、なかったの。けど、あの人のそばにいると、少しだけミーナでもいいんだって思える。それだけで、救われた気がするの」
イザベルは、言葉を失った。
自分を飾るために、笑い、強がり、誰にも負けないようにしてきた。
それが、彼女にとっての生き方だった。
けれど、目の前の女は――そんなものを必要としないと言う。
「あなたは、ターナカの事が好きなの?」
「好き? ううん、たぶん違う。好きとか恋ってね、誰かを所有することじゃないの。誰かの痛みを、代わりに少し背負ってあげたいって思う気持ち。それが、一番近いと思うわ」
その言葉に、イザベルの胸の奥がざわついた。
心のどこかに、ずっと小さな棘のように刺さっていた感情。
その正体に、少しずつ輪郭が与えられていく。
「アタシ……。そんなの、知らない」
ヘルミーナは立ち上がり、優しく微笑んだ。
「知ってるよ。いま、その顔をしてる。あんたも、恋してるのよ」
イザベルは口を開きかけ、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が熱く、苦しかった。
イザベルは、2階へと走り出した。
外の雨は小降りになっていたが、屋根の庇からは冷たい雫が滴り落ちている。
ヘルミーナが、優しい笑顔で送り出したことを――イザベルは知らない。
階段を駆け上がる。
靴音が廊下に響くたび、心臓の鼓動も強くなる。
息が乱れ、胸が痛い。
それでも足は止まらなかった。
――どうして、こんなにも顔を見たいの?
自分でも分からない。
ただ、あの人と会い、声を聞きたかった。
それだけだった。
薄暗い廊下の奥、ひとつの扉が見えた。
扉の向こうに、灯りの漏れる隙間。
イザベルは立ち止まり、胸に手を当てた。
鼓動がうるさいほど鳴っている。
震える指先で、そっと扉を叩いた。
「……ターナカさん。お願い、少しだけ顔を見せて」
間を置いて、扉が静かに開いた。
田中が立っていた。
穏やかな眼差し。
「イザベル様……どうされました?」
その優しい声に、抑えていたものがあふれ出す。
「どうして、そんな顔でいられるの? アタシ、あなたが……羨ましいの!」
田中は少し首を傾げた。
「羨ましい、ですか?」
イザベルは唇を噛んだ。
「ええ。誰にでも優しくできて、自分を偽らずに生きてる。アタシは、ずっと役を演じてきたのよ。貴族の娘として、父の人形として――」
涙が頬を伝う。
止めようとしても、止まらない。
「でも、あなたの前では……もう何も飾れないの」
彼女は嗚咽をこらえながら笑った。
田中は黙って聞いている。
彼の沈黙が、責めるでも慰めるでもなく、ただ受け入れていることを、彼女は感じた。
彼は、イザベルを招き入れる。
少しして落ち着いた彼女は、田中をまっすぐ見つめている。
「もう、誰かの娘でもなくていい? アタシとして、生きていい?」
その声は震えていた。
田中は驚いたように目を瞬かせ、そして、静かにうなずいた。
「あなたはもう、そうしているじゃないですか」
その言葉に、イザベルの中の何かがほどけた。
気づけば、彼の胸に飛び込んでいた。
胸に顔を埋め、声を殺して泣く。
田中は何も言わず、そっと手を伸ばし、彼女の背に触れた。
その掌が温かかった。
外では、まだ雨の名残が石畳を叩いていた。
部屋の中には、二人の呼吸と、静かな時間だけがあった。
どれほどそうしていたのだろう。
やがて、雨音が遠のき、窓の外が白み始めた。
イザベルはゆっくりと体を離した。白い素肌が、月明かりに浮かぶ。
頬に残る涙を拭い、笑う。
「……最近、泣いてばっかり」
田中は微笑んだ。
「泣くのは、弱さじゃありません。涙は、心が動いている証拠です」
イザベルは小さくうなずき、窓の外を見た。
朝の光が差し、濡れた街が淡く輝いている。
「この街の人たちが、あなたを神の使徒って呼ぶの、少し分かる気がする」
「僕は、ただ話を聞いただけですよ」
「違うわ。あなたは、沈黙に耳を傾ける人よ」
田中は言葉を返さず、静かに微笑んだ。
小鳥の声が聞こえる。
イザベルは立ち上がり、深呼吸をした。
「……ありがとう。今日のアタシは、少し自由になれた気がします」
「それが一番の奇跡です」
イザベルはドアの前で振り返った。
「ターナカさん。――また、会いに来てもいいかしら」
「ええ。雨の日でも、晴れの日でも」
彼女は微笑み、扉を開けた。
階段を下りる彼女の髪が、朝の光を受けてきらめく。
田中はその背を見送りながら、静かにつぶやいた。
「人は、祈るよりも、自分を許すときに救われるんだろうな……」
その声は、もう彼女には届かない。
雨上がりの街が、ゆっくりと息を吹き返していった。
ヘルミーナ好き。
毎日19:10頃更新しています。
ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!




