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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第五章 はじめて泣いた日

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第25話 星降る夜に

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 初夏の風が、屋敷の白いカーテンをゆらしていた。

 陽の光は柔らかく、空気には湿り気が混じり始めている。


 「あなたは、もう誰かの飾りではありません」


 自分に向けられた言葉。

 あの夜の声。あの瞳。

 思い出すたび、胸の奥がじんと熱くなる。

 どうして、こんなにも思い出してしまうのだろう。自分でもわからない。


 あれから何度も彼の名を口にしそうになった。

 けれど、貴族の娘が異国の男を慕うなど――許されることではない。


 それでも、心は理屈を越えて動いてしまう。

 朝の光が、金の髪を照らす。

 イザベルはふと、机に頬杖をつき、つぶやいた。


 「……ターナカ」


 その名を言葉にした瞬間、胸の奥で、何かが静かに震えた。

 遠くで雷の音が聞こえた気がした。




 午後、屋敷の庭に最初の雨粒が落ちた。

 石畳の上で弾けたそれは、たちまち音を連ねて降り注ぐ。

 白い薔薇の花弁が濡れ、風に揺れる。


 イザベルは窓辺に立ち、息を吐いた。


 「……雨宿り、ね」


 誰にともなく言い訳のようにつぶやき、外套を羽織る。

 屋敷の侍女が慌てて止めに来たが、「散歩よ」とだけ言い残し、玄関を出た。


 服にあたる雨音。

 坂を下るほどに、街の匂いが濃くなる。

 湿った草の香り、濡れた石の匂い。


 彼女は馬車を使わなかった。

 あの人の歩いた道を、自分の足で歩いてみたかった。


 やがて、雨の帳の向こうに白燕亭の看板が見えてくる。

 木の扉の向こうからは、暖かな灯りと人の声が漏れている。

 胸の鼓動が早まる。


 ――ただの雨宿り。

 自分にそう言い聞かせ、扉に手をかけた。


 その向こうは、ふわりと焼きたてのパンとスープの香りが広がっていた。

 灯りに照らされた木の食堂。

 その中央に――見慣れた背中。


 ターナカがいた。

 向かいには、淡い金髪の女。

 二人は並んで食事をしていた。

 パンを分け合い、何か小さな話で笑い合っている。

 その光景が、胸の奥を焼いた。


 「……まあ、楽しそうですこと」


 イザベルの声に、二人が同時に顔を上げた。

 ターナカは目を瞬かせ、ヘルミーナは穏やかに微笑む。


 「いらっしゃい。雨宿り?」

 「ええ。そんなところね。まさかこんな場所で、英雄様に会えるなんて思いませんでしたケド」

 「英雄……?」


 ヘルミーナが思わず笑いを漏らす。


 「ふふ、そんな呼び方をされるのは、きっと慣れてないんですよ。この人」


 その親しげな口ぶりに、イザベルの胸がざらりとした。

 まるで、長い付き合いのような物言い。

 どうして、あの人がこんな女と笑っていられるの?


 「あなたは?」


 イザベルが問うと、ヘルミーナは軽く会釈をした。


 「ヘルミーナ。ミーネって呼ばれてるわ。街で香油を扱ってるの」


 イザベルは一瞬、言葉を失った。

 香油――。夜の女が使うものだ。

 その響きだけで、彼女の中に偏見が湧く。


 「……なるほど。下町の娼婦が、英雄様にお相手してもらうなんて、なかなか大胆ね」


 その一言に、ヘルミーナの瞳がわずかに細くなる。

 だが、口元は崩さない。


 「ミーネはね、お腹が空いてる人にパンを分けてるだけよ。お貴族さまみたいに難しいことはできないけど」

 「……皮肉のつもり?」

 「さあ、どうかしら」


 空気が凍る。

 二人の間に、目に見えない刃が生まれたようだった。


 田中は匙を止め、そっと息を吐いた。

 何を言っても火に油だ。

 ゆっくりと立ち上がり、手ぬぐいで口元を拭く。


 「……あの、少し湯をもらいに行ってきます」


 誰も返事をしない。

 田中は軽く頭を下げ、静かに食堂を出た。

 背後では、まだ低く火花のような言葉が交わされていた。

 階を上がると、空気が軽くなる。


 田中は苦笑し、肩をすくめた。


 「女同士の戦場には、やっぱり勝てませんね……」


 そのつぶやきは、雨音にかき消された。




 食堂の空気が、しんと静まった。

 外ではまだ雨が降り続いている。

 木の壁を打つ雨音が、二人の呼吸の隙間を縫うように響いていた。

 先に口を開いたのは、イザベルだった。


 「あなた……どうして、あんな人の傍にいられるの?」


 ヘルミーナは、手元のパン屑を指先で集めながら、穏やかに微笑んだ。


 「どうしてって、そんな難しいことを聞かれても困るわ」

 「アタシには、分からないの。あの人、何を考えているのか。誰にでも優しくして、まるで……世界の悲しみを一人で背負ってるみたいじゃない」


 ヘルミーナはパン屑を払い、テーブルの上を軽く撫でた。


 「……あの人のそばにいるとね、自分を嫌いにならなくて済むの」


 イザベルの眉が動いた。


 「自分を、嫌いに?」


 「うん。ミーナはね、今まで、自分が誰かの役に立ってるなんて思ったこと、なかったの。けど、あの人のそばにいると、少しだけミーナでもいいんだって思える。それだけで、救われた気がするの」


 イザベルは、言葉を失った。

 自分を飾るために、笑い、強がり、誰にも負けないようにしてきた。

 それが、彼女にとっての生き方だった。

 けれど、目の前の女は――そんなものを必要としないと言う。


 「あなたは、ターナカの事が好きなの?」

 「好き? ううん、たぶん違う。好きとか恋ってね、誰かを所有することじゃないの。誰かの痛みを、代わりに少し背負ってあげたいって思う気持ち。それが、一番近いと思うわ」


 その言葉に、イザベルの胸の奥がざわついた。

 心のどこかに、ずっと小さな棘のように刺さっていた感情。

 その正体に、少しずつ輪郭が与えられていく。


 「アタシ……。そんなの、知らない」


 ヘルミーナは立ち上がり、優しく微笑んだ。


 「知ってるよ。いま、その顔をしてる。あんたも、恋してるのよ」


 イザベルは口を開きかけ、何も言えなかった。

 ただ、胸の奥が熱く、苦しかった。




 イザベルは、2階へと走り出した。

 外の雨は小降りになっていたが、屋根の(ひさし)からは冷たい雫が滴り落ちている。

 ヘルミーナが、優しい笑顔で送り出したことを――イザベルは知らない。


 階段を駆け上がる。

 靴音が廊下に響くたび、心臓の鼓動も強くなる。

 息が乱れ、胸が痛い。

 それでも足は止まらなかった。


 ――どうして、こんなにも顔を見たいの?


 自分でも分からない。

 ただ、あの人と会い、声を聞きたかった。

 それだけだった。


 薄暗い廊下の奥、ひとつの扉が見えた。

 扉の向こうに、灯りの漏れる隙間。


 イザベルは立ち止まり、胸に手を当てた。

 鼓動がうるさいほど鳴っている。

 震える指先で、そっと扉を叩いた。


 「……ターナカさん。お願い、少しだけ顔を見せて」


 間を置いて、扉が静かに開いた。

 田中が立っていた。

 穏やかな眼差し。


 「イザベル様……どうされました?」


 その優しい声に、抑えていたものがあふれ出す。


 「どうして、そんな顔でいられるの? アタシ、あなたが……羨ましいの!」


 田中は少し首を傾げた。


 「羨ましい、ですか?」


 イザベルは唇を噛んだ。


 「ええ。誰にでも優しくできて、自分を偽らずに生きてる。アタシは、ずっと役を演じてきたのよ。貴族の娘として、父の人形として――」


 涙が頬を伝う。

 止めようとしても、止まらない。


 「でも、あなたの前では……もう何も飾れないの」


 彼女は嗚咽をこらえながら笑った。

 田中は黙って聞いている。

 彼の沈黙が、責めるでも慰めるでもなく、ただ受け入れていることを、彼女は感じた。


 彼は、イザベルを招き入れる。

 少しして落ち着いた彼女は、田中をまっすぐ見つめている。


 「もう、誰かの娘でもなくていい? アタシとして、生きていい?」


 その声は震えていた。

 田中は驚いたように目を瞬かせ、そして、静かにうなずいた。


 「あなたはもう、そうしているじゃないですか」


 その言葉に、イザベルの中の何かがほどけた。

 気づけば、彼の胸に飛び込んでいた。


 胸に顔を埋め、声を殺して泣く。

 田中は何も言わず、そっと手を伸ばし、彼女の背に触れた。

 その掌が温かかった。


 外では、まだ雨の名残が石畳を叩いていた。

 部屋の中には、二人の呼吸と、静かな時間だけがあった。






 どれほどそうしていたのだろう。

 やがて、雨音が遠のき、窓の外が白み始めた。


 イザベルはゆっくりと体を離した。白い素肌が、月明かりに浮かぶ。

 頬に残る涙を拭い、笑う。


 「……最近、泣いてばっかり」


 田中は微笑んだ。


 「泣くのは、弱さじゃありません。涙は、心が動いている証拠です」


 イザベルは小さくうなずき、窓の外を見た。

 朝の光が差し、濡れた街が淡く輝いている。


 「この街の人たちが、あなたを()()使()()って呼ぶの、少し分かる気がする」

 「僕は、ただ話を聞いただけですよ」

 「違うわ。あなたは、沈黙に耳を傾ける人よ」


 田中は言葉を返さず、静かに微笑んだ。


 小鳥の声が聞こえる。

 イザベルは立ち上がり、深呼吸をした。


 「……ありがとう。今日のアタシは、少し自由になれた気がします」

 「それが一番の奇跡です」


 イザベルはドアの前で振り返った。


 「ターナカさん。――また、会いに来てもいいかしら」

 「ええ。雨の日でも、晴れの日でも」


 彼女は微笑み、扉を開けた。

 階段を下りる彼女の髪が、朝の光を受けてきらめく。


 田中はその背を見送りながら、静かにつぶやいた。


 「人は、祈るよりも、自分を許すときに救われるんだろうな……」


 その声は、もう彼女には届かない。

 雨上がりの街が、ゆっくりと息を吹き返していった。


ヘルミーナ好き。


毎日19:10頃更新しています。

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