第24話 神の使徒
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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朝、ルドルフ邸の高い窓から差し込む光が、白いカーテンを透かして床に模様を描いていた。
鳥の声が遠くに聞こえる。穏やかな朝だったが、イザベルの胸の内は穏やかではなかった。
夢を見た気がする。
けれど内容は覚えていない。
ただ、あの夜に聞いた男の声――低く、静かで、どこか遠くを見つめるような声だけが、耳の奥にこびりついていた。
寝台から起き上がると、部屋の中の空気が少し冷たく感じられた。
侍女が差し出した朝食のパンには手をつけず、彼女は鏡台の前に座る。
光沢のある髪を櫛で梳きながら、鏡の中の自分を見つめた。
――美しくあれ。
それは、幼いころから聞かされ続けてきた言葉だ。
けれど、今朝の顔はどこか違って見えた。
目の奥が、少し柔らかい……。いや、違う。
何かが揺れている。胸の奥に、言葉にならないざわめきが生まれていた。
笑おうとすると、心のどこかが痛む。
痛むのに、なぜかその痛みが、少しだけ心地よい。
「……なんなのよ、これ」
イザベルは思わず鏡から目を逸らした。
誰かに触れられたような感覚。
それが、まだ肌の奥に残っている気がする。
その誰かの声を思い出すたび、胸の奥で何かが熱を帯びていく。
「もう、呼ぶのはやめましょう。今度は、アタシが行く番ね」
そうつぶやいたとき、唇がかすかに震えた。
自分でも、理由が分からなかった。
坂の上の屋敷を出ると、朝の風が頬を撫でた。
いつもは馬車に乗って出かけるイザベルが、今日は自分の足で歩いていた。
石畳の感触が靴底を通して伝わる。
坂の途中で、祈り札が風に揺れているのが目に入った。
「祈るに安らぎを」
「働く者に恵みを」
――誰かの手書きの祈り。
イザベルは立ち止まり、札に指を伸ばした。
指先が触れた紙の感触は、思いのほかあたたかかった。
「父がこの街に神の代理として来たというのに……神さまのことを、一番知らないのはアタシかもしれない」
風が裾を揺らす。
彼女の金髪が光を弾き、通りの人々の視線を集めた。
だが、今日のイザベルはその視線を気にしない。
彼女の瞳は、まっすぐに坂の下の方を見つめていた。
昼を少し過ぎた頃、修道院の前は賑やかだった。
鍋の湯気とパンの香ばしい匂い。
子どもたちが笑い、寡婦たちが手際よく椀を配る。
その中に、場違いなほど華やかなドレスの少女が立っていた。
イザベルはためらいながらも、一人の女性に声をかけた。
年の頃は40歳ほど。穏やかで、疲れの滲む瞳をしている。
「ねぇ、あなた。ターナカという冒険者を知っている?」
女性は驚いたように瞬きをしたあと、やさしく微笑んだ。
「ええ、もちろん知っていますよ。とても良い方ですよ。祈りを捧げに来た人の話をよく聞いてくださって……」
「……話を、聞くの?」
「ええ。修道士様よりも優しく。温かく。疲れた心に沁みるというか――」
別の女性が加わる。
「うちの旦那も、あの人に助けられたのよ。夢にうなされて眠れなかったのが、いまはぐっすり眠ってる」
農夫が横から笑いながら言った。
「神の使徒はあの人じゃねぇか、って噂が出てるぐらいだ。本物の修道士様より、ずっと人の心を癒してくれる」
イザベルの胸が、ズキリと痛んだ。
まるで胸の奥に、氷の欠片が落ちたように。
――アタシだけが、特別じゃなかったの?
目の前の人々が笑っているのが、かすかに遠く見えた。
頬に触れる風が、ひどく冷たく感じられた。
修道院の裏庭。
炊き出しに使われた桶の中には、陽の光を映した水が揺れている。
イザベルは、そこに映る自分を見つめた。
水面の向こうの顔は、どこか別人のようだった。
「……どうしてなの」
声がこぼれる。
「あなたの言葉で、アタシは初めて心から笑えたのに。どうして、誰にでも優しいの?」
水面に涙が落ちる。
円を描く波紋が、イザベルの顔を歪めた。
泣くのは嫌いだった。
涙は弱さの象徴だと思っていた。
けれど今は――止められなかった。
「……バカみたい。アタシらしくもない」
そうつぶやいて、袖で目を拭った。
風が吹き、祈り札がまた揺れた。
「癒しは、神よりも人の手に――」
誰が書いたのか分からない札の文字が、胸に刺さる。
イザベルは、修道院の中庭のベンチに腰を下ろしていた。
日が傾きはじめ、石畳の上に長い影が伸びている。
行き交う人々の声が、遠く霞んで聞こえた。
――どうして、ここにいるのだろう。
自分でも分からなかった。
ただ、彼の声をもう一度聞きたいと思った。
けれど、その理由を言葉にしようとすると、胸の奥が締めつけられる。
「アタシは、ただ……確かめたいだけ。そうよ、感謝を伝えるだけ」
そう口にしてみる。
けれど、その声は風に溶けていく。
言い訳のように響いて、自分でも信じられなかった。
彼と出会ってから、胸の奥が少し騒がしい。
何をしていても、あの穏やかな声が頭のどこかで響いている。
言葉を交わしたのは、ほんの短い時間だったのに――。なぜこんなにも気になるのだろう。
誰かに心を動かされるなんて、初めてかもしれない。
けれど、それを認めるのは癪だった。
「……別に、何かが変わったわけじゃない」
そう口にしてみても、胸のざわめきは消えなかった。
ただ、昨日まで見えていた世界が、少しだけ違って見える気がした。
鐘の音が、遠くで響いた。
人々が帰り始め、修道院の中庭が静まり返る。
その静けさの中で、イザベルの心臓の音だけが響いていた。
「……行かなきゃ」
気づけば立ち上がっていた。
どこに行くのか、分かっている。
ただ、体が自然に動いた。
炊き出しの場は人が減り、片付けの人の姿だけが目立つ。
湯気の立つ鍋の向こうで、あの背中が見えた。
――ターナカ。
袖をまくり、鍋を洗っている。
その表情は穏やかで、どこか楽しそうだった。
彼の声が風に混じって届く。
それだけで胸が熱くなった。
足が勝手に動いていた。
「……あなた!」
その声に振り向いたターナカの顔に、驚きよりも先に微笑みが浮かぶ。
「イザベル様。こんなところで……?」
「あなたの声が、忘れられないの!」
周囲のざわめきが止んだ。
その場にいた修道士も、寡婦も、子どもたちも一瞬言葉を失う。
ターナカは一歩だけ近づき、静かに言った。
「声は、ただの空気の震えですよ」
「違うの。あなたの声は、アタシにとって奇跡の声なの!」
その言葉に、彼は小さく息を吸い、そして微笑んだ。
「それで、あなたが笑えるようになったのなら、それで十分ですよ」
イザベルは笑った。
けれど、頬にはまた、涙が伝っていた。
「……ずるいわ。そういう言い方」
彼は困ったように頭をかき、もう一度、洗い場へと戻っていった。
その背を見送りながら、イザベルは胸の奥に手を当てた。
鼓動が早い。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
ああ、この人は、アタシにとって奇跡の人なのね。
空には茜色の光。
鍋の水滴がその光を受けて、金色に揺らめく。
祈り札が風に鳴り、鐘の音が遠くで響いた。
その音は、神の声ではなく、彼の声に似ている気がした。
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