第23話 観念の遊戯
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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朝の光が、薄絹のカーテンを透かして床に落ちていた。
イザベルはその光を見つめながら、胸の奥に残ったざらつきをどうにも拭えずにいた。
――なぜ、あんなふうに泣いたのだろう。
あの夜の涙の理由が、いくら考えても分からなかった。
胸の奥に、何か柔らかいものが生まれた気がして、それがむしろ気持ち悪かった。
泣くなんて、子供の頃以来だ。
「……執事。あの冒険者を、もう一度呼びなさい」
口に出すと、胸の奥が少しだけすっきりした。
理由などどうでもよかった。
彼女はただ、あの男の落ち着いた瞳が頭から離れなかったのだ。
昼下がり、ルドルフ邸の大広間。
陽光を受けた大理石の床が、白く輝いている。
イザベルはティーカップを弄びながら、気怠げにため息をついた。
「退屈。……この街は、どうしてこうも面白くないのかしら」
返事をする者はいない。
侍女たちは、彼女の機嫌を損ねぬよう、遠巻きに立っている。
そんな中、執事がやってきて恭しく頭を下げた。
「ターナカ様を、お連れいたしました」
扉が開き、柔らかな足音が響く。
飾り気のない服装。
いつも通りの落ち着いた佇まい。
「2度目のお招き、恐縮です」
田中は穏やかに一礼した。
言葉に嫌味を感じるが、その所作に媚びはなく、かといって傲慢さもない。
「あなた、退屈しのぎに、何か面白いことをしてみせなさい」
挑発するような声。
ターナカは一瞬だけ目を細め、それから微笑んだ。
「面白いこと、ですか」
「そう。人を楽しませる術ぐらい、あるでしょう?」
「そうですね……。では、あなたの体を使ったマジックでも」
「……マジック?」
イザベルの眉が、ぴくりと動く。
ターナカは軽く首をかしげた。
「言葉の遊びですよ。危ないことはしません」
彼の声は、不思議なほどに静かだった。
命令でも挑発でもない、ただの落ち着きという名の力があった。
まるで、風が水面を撫でるような穏やかさだった。
「じゃあ、見せてみなさいよ」
イザベルは顎を上げ、ソファに深く腰を沈めた。
ターナカは小さく会釈し、手を差し出す。
「こちらの指先を見てください」
その指は長く、しなやかで、動きに妙な品があった。
彼女は一瞬、目をそらすのが恥ずかしくなった。
田中は、それを高く上げる。
イザベルは、目で追ってしまう。
「いいですね。その姿勢で深呼吸をしましょう。ゆっくり、深く」
「それに何の意味があるの?」
「イザベル様が、面白い事をしろと仰ったので」
「……ふん」
イザベルは肩で息を整えながら、大きく息をした。
「これでいい?」
「ええ。とてもいい感じです。では次に――手をこう、握ってみてください。指先をたてて」
ターナカが示したのは、両手を合わせる姿勢だった。
彼女は言われるままに、手を組み、指先を立てる。
「少し失礼しますね」
田中は片膝をつき、イザベルの人差し指にそっと触れた。
指先と指先が離れたまま、静止する。
「ちょっと、誰が触れて良いなんて言ったの?」
「面白い事のためですよ」
「……調子に乗らないで」
彼は、穏やかな声のまま続ける。
「指と指の間をしっかり見て。指が付かないようにしてみてください。でも僕が指が付きますといった瞬間から指が動いてしまいますよ」
「そ、そんなこと……。ある訳ないじゃない」
「では、くっつきます。3、2、1」
彼女は最初、笑いそうになった。
だが、数秒後には笑えなくなっていた。
「……指が、勝手に……動く……?」
目の前で、自分の手がゆっくりと閉じていく。
意識していないのに、抵抗しても止まらない。
まるで見えない糸で引かれているようだった。
「あなた、魔法が使えるの!?」
その言葉に、ターナカは少し笑った。
「心と身体はつながっています。少し、心を休めてみませんか」
「アタシは、休みたいなんて――」
彼女の言葉は、そこで止まった。
「無理せず。心が軽くなるイメージを。ふわふわと、空の雲になるように」
「……雲?」
「ええ、そうです。目を閉じて、呼吸を落ち着かせて」
「……」
イザベルの肩が、かすかに上下した。
さっきまで挑むように光っていた瞳が、ゆるやかにほどけていく。
田中は、イザベルの肩に触れると、左右に優しいリズムを刻む。
「体が揺れる度に、体も軽くなります。体が軽くなれば、より、心も軽くなります。そう。ゆっくりと。静かに」
彼女も、また抱えるものが多いのだろう。
田中は、丁寧に心と体をほぐす暗示を入れて行く。
10分、20分と、休む事無く言葉をかけ続ける。
「あなたを縛るものはありません。この瞬間、自由です。大空を舞う鳥のように、あなたの心は解き放たれました。思うことは自由です。口にするのも自由です。さぁ、軽くなった心で目を覚ましましょう。……7、8、9、10。おはようございます」
いつの間にか彼女の険しい表情は抜けていた。
それどころか、彼女の両目から、止めどないほどに雫があふれ出ていた。
涙と一緒に、胸の奥に溜め込んでいたものが、急に溢れ出した。
父のこと。実家のこと。兄のこと。街のこと。
色々な言葉が溢れてくる。彼女は、自由に見えて、誰よりも我慢を強いられて生きてきたのだ。庶民には分からないものを。
そして、不意に自分の話をし始める。
「……アタシの価値って、何なの?」
声が震えた。
自分でも驚くほど弱々しい声。
「……父は、アタシを飾りのように扱うの。貴族の娘らしくって、そればかり。笑って、背筋を伸ばして、何を言われても笑顔でいなさいって……」
ターナカは、黙って聞いていた。
視線の奥に、同情も慰めもない。
ただ、受け止めるような静けさがあった。
「でもね、笑っているとき、アタシはどこにもいないの。誰も、アタシを見ていない。貴族の娘としか、見てないのよ」
自分が今まで、いかに空虚に生きてきたか。虚無を抱いてきたか。虚像として演じてきたか。その思いが虚を突いて溢れ出る。
――涙が、また零れ始める。
ひと粒、またひと粒と頬を伝い、膝に落ちていく。
彼女は慌てて手を当てたが、次から次へと止まらなかった。
「あなたは、もう誰かの飾りではありません」
ターナカの声が、静かに響く。
「あなたは、あなたとして生きていいんです」
その瞬間、彼女の呼吸が乱れ、嗚咽が漏れた。
心の奥に溜まっていた長い年月の埃が、ようやく風に飛ばされた気がした。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
ただ、陽光が傾き、部屋の色が金に変わっていた。
イザベルの頬は涙で濡れ、まつ毛の先に光が宿っていた。
「……こんな涙、いつ以来かしら」
震える声でつぶやくと、ターナカは穏やかに言った。
「それは、生きている証ですよ」
彼の瞳に、彼女は映っていた。
美しい娘としてではなく、一人の人間として。
沈黙のあと、イザベルは小さく微笑んだ。
「ねえ……あなた、何者なの?」
ターナカは肩をすくめ、軽く笑った。
「神ではありませんが、かわいいレディには奇跡を起こせるんですよ」
その冗談に、イザベルの胸がきゅっと締めつけられる。
笑いたいのに、笑えない。
けれど、不思議と心が温かかった。
「奇跡を、起こせる人……」
彼の言葉が、静かに胸の奥に刻まれた。
その夜、彼女は鏡台の前に立っていた。
蝋燭の灯が、頬を淡く照らす。
涙の跡が、まだうっすらと残っていた。
「……あの人の声、優しかったな」
自分の唇から漏れた言葉に、驚く。
頬を撫でると、まだ温もりがあった。
鏡の中のイザベルは、いつもより少し柔らかい顔をしていた。
貴族の娘ではなく、ただの女の子の顔。
「……魔法、なのかしら」
そうつぶやいた瞬間、胸の奥がほんのり熱を帯びた。
その熱は、恋とも希望ともつかないもの。
けれど確かに、彼女の中で息づいていた。
硝子の鳥籠の中に、初めて灯った小さな火。
それは、まだ誰にも見えない。
だがイザベルは、その光が心地よかった。
「レディには奇跡を起こせる」ルパンみたいな事を言わせたかったお話でした。
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