第22話 硝子の鳥籠
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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朝の光が、薄くカーテンを透かして差し込んでいた。
イザベルは鏡台の前に座り、金糸のような髪を櫛で梳いていた。動かすたび、陽の粒がその髪に散り、部屋の空気までも柔らかく染めていく。
「……アタシには、みんな従うの」
口にした瞬間、言葉が宙にほどけて消えた。鏡の中の自分が、どこか他人のように見える。
アタシは小さいころから、そう教えられてきた。
美しくあれ、優雅であれ、誇りを失うな。
それが、貴族の娘としての全てだった。
でも、気づけばそれは檻になっていた。
笑えば皆が褒めてくれる。
けれど、笑っていないと、誰もアタシを見てくれない。
父――ルドルフが本家を兄に譲り、教皇代理としてこの街に赴任したとき、アタシはその輝かしい称号の意味を理解できなかった。
「信仰の地で人々を導く」と言って誇らしげだったけれど、アタシにはそれが都を追われたようにしか見えなかった。
父は、足が悪い。都では杖を手放せなかった。
だからこそ、信仰の地での務めは、名誉の裏に静かな余生を望んでいたのかもしれない。
「イザベル、一緒に来てくれるか」
……そう言われて、目の前が真っ白になったのを覚えている。
この街の空は広く、風は清い。
でも、退屈だった。
訪ねてくるのは信者と商人ばかりで、夜会も無ければ噂話もない。
贅沢な屋敷の中で、アタシは誰よりも孤独だった。
ある夜、父と向かい合って食卓についた。
銀の燭台が食卓を照らし、スープの湯気が淡く揺れている。
「お父様、都では新しい劇が流行っているそうよ。信仰を風刺する喜劇ですって」
「……くだらん話だな。神聖なものを笑いものにして、何が残る」
ルドルフは、穏やかに笑うこともなくパンをちぎった。
アタシは匙を弄びながら、ゆっくりと訊いた。
「ねぇ、お父様。神様って、どんな方なの?」
「ん……そうだな。お前ももう少し勉強すれば分かる」
「じゃあ、アタシが間違ったら、神様は怒るの?」
「まぁまぁ、そう難しく考えるな。お前は考えすぎだ」
いつも、そればかり。
「まぁまぁ」「そのうち分かる」「お前は考えすぎ」
父の声はやさしいけれど、いつも途中で扉を閉ざす。
話したいことは山ほどあるのに、お父様の返事はいつもそのうち分かるだけ。
――きっと、アタシの話は難しすぎるのだと思うようにしていた。
知りたいのは神じゃない。
お父様が何を信じてるかなのに。
沈黙が流れる。燭台の炎が、ワインの表面に小さく揺れていた。
視線を落としながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じていた。
次の日も、同じ朝が来た。
召使いたちが廊下を歩く音。侍女がカーテンを開ける音。
屋敷はいつも通り整っているのに、どこか冷たい。
アタシは、退屈を誤魔化すように人を試した。
商人に無理な納期を命じ、侍女に完璧な礼を要求した。
でも誰も逆らわない。
怒らせたら大変だと、皆分かっているから。
それが心地よくなるはずだったのに、最近は、少しだけ虚しい。
午後、侍女がカップを落とした。
床に転がった白磁の破片を、アタシは見下ろして言った。
「……もういいわ、下がりなさい」
慌てて拾い集め、指先を切った。
赤い血が一滴、白い破片に落ちる。
彼女は痛みに顔を歪めた後、なぜか微笑んだ。
なぜ笑ったのか分からない。でも、その顔が、忘れられなかった。
命令でも、虚勢でもない。
本当に、生きてる表情だった。
それはただ、怒られなかったことで「ほっ」としただけなのかもしれない。
アタシは鏡の前に戻り、唇を動かした。
「アタシには、みんな従うのよ……」
でも、その声には力がなかった。
数日前、父の屋敷にひとりの男が来た。
粗末な服を着て、妙に落ち着いた目をしていた。
ターナカ。
アタシが呼び出した、あの変な人。
思い出すだけで腹が立つ。
アタシがどれだけ言葉を投げても、彼は笑って受け流すだけだった。
「まさか、言葉で狼を倒したんですの?」
「ええ。吠え声では勝てませんから」
あの一言が、今も頭に残っている。
皮肉と嫌味でしかない。でも、静かで、真っすぐな声。
アタシの中の高い場所が、一瞬ぐらりと揺れた気がした。
――あんなの、ムカつくに決まってる。
だから、侍女を呼んだ。
「ねぇ、あのターナカって人。どうだったの?」
「?」
「どんな人だったかと、聞いているの」
「とても丁寧な方でした。私たちにも、礼儀正しく接してくださって……」
「誰にでも、丁寧なんて。くだらないわ」
そう言って、アタシは紅茶を口に運んだ。
少しだけ苦かった。
寝室に戻ると、窓の外で風が鳴っていた。
蝋燭の火を見つめながら、アタシはぽつりとつぶやいた。
「神の前ではみんな平等、って……ほんと?」
この街で父が何度も口にした言葉。
でも、その神様は、アタシの心までは見てくれない。
「だったら……お父様も、アタシも、同じはずじゃない」
つぶやきながら、胸がきゅっと締めつけられる。
見てほしかった。
ただ、それだけだった。
けれど、父の目はいつも遠くを見ている。
信仰とか、務めとか、そんな言葉の向こう側ばかり。
気づけば、頬に涙が伝っていた。
自分でも驚くほど静かな涙だった。
まるで、硝子の内側にひびが入るように――。
翌朝。
早く目を覚ました。
鏡台の前に座り、自分の顔を見つめる。
昨日までのアタシと、どこか違って見えた。
笑っても、目の奥の光が変わらない。
「……もう一度、会ってやる」
口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
「今度こそ、アタシの前で頭を下げさせてやる!」
そう言って立ち上がる。
カーテンを開けると、光が一気に差し込み、硝子の鳥籠が、かすかに軋む音を立てた。
それは、囚われの姫が初めて他人に興味を持った、朝の音だった。
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