第20話 揺らぐ信仰
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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陽が傾く頃、街の空に淡い金色の霞が流れていた。
修道院の庭では、寡婦の会の炊き出しが終わり、人々が鍋や桶を片づけている。
その中に、リーナとカタリナの姿があった。
「お疲れさま。今日もよく働いたね」
「ええ、少し暑くて……。でも、気持ちは軽いんです」
リーナの頬は柔らかな血色を帯び、微笑には穏やかさがあった。
カタリナはそれを見て、少し首をかしげる。
「リーナ、あんた……前よりずっと、いい顔してる」
「そうかしら?」
「まるで別人よ。……何かあったの?」
リーナは少し迷い、目線を落とした。
「……ターナカさんのおかげ、かもしれません」
「ターナカ?」
「はい。話を聞いてくださって、それだけなのに、不思議と心が安らいで……」
カタリナは眉を寄せた。
あの異国の男。戦いでは静かに的確に動き、誰より冷静だった。
その男が、人を癒やす――?
信じがたい話だ。だが、リーナの表情を見れば否定もできなかった。
夜。
〈白燕亭〉の灯が、川沿いにぼんやり滲んでいた。
田中は机に向かって座り、ただ両手を組んで静かに目を閉じていた。
(人は無理をしすぎ、無理は神を求める。か)
心の中に浮かぶのは、最近出会った人々の顔だった。
笑顔、涙、願い、疑い。
田中は、それをただ受け止めていた。
無理に目立つつもりはない。偉くなるつもりもない。ただ。困った人を、自分の力で少しでも軽くできるのであれば、それは行わなければならない。という気はする。
自分の技術が、少しでも役に立つのであれば。
――扉が、2度叩かれた。
「ターナカ、いる?」
聞き慣れた、少し張りのある声。
田中が立ち上がり、扉を開けると、そこにカタリナがいた。
旅装のまま、鎧を脱ぎ、肩の布をたらしている。
その額には汗が光っていた。
「夜分にごめんな。ちょっと、話がしたくて」
「どうぞ」
田中は椅子をすすめた。
カタリナは腰を下ろし、深く息を吐く。
今日の出来事。最近の冒険者ギルドの話。わざわざ夜に来てまでするような話ではない。
「それで……?」
田中が怪訝な顔をすると、カタリナは向き直る。
「リーナがね、あなたに助けられたって言ってた」
「彼女は、もともと強い人ですよ」
「でも、あんなに変わるもんじゃない。……正直、あたし、あんたのこと見直してる」
田中は小さく笑った。
「ありがとうございます。でも、僕は何もしてません」
「それが一番怪しいのよ。あんた、いったい何をしたのよ?」
少し考え、静かに答えた。
「話を聞くだけです。あとは、その人が、自分の中で整理するのを待つだけ」
カタリナは机の上のランプを見つめた。
炎のゆらめきが、彼女の横顔を照らしている。
その瞳には、迷いの色があった。
「リーナも、あんたに話を聞いてもらったって言ってた」
「ええ」
「……あたしも、いろいろ自分の中に整理できないことがある」
「聞きましょうか」
「……いいのか?」
「ええ。ここは夜が静かですから」
しばらく沈黙があった。
カタリナは指先で鎧の縁をいじりながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あたし、ちょっといい家で育ったの。兄が家を継いでる。はず」
彼女は1つ呼吸をいれる。
「あたしは女だし。望んでも騎士になんてなれない。修道院に入るか。素直に結婚するか。ほとんど2択だった」
「なるほど」
「どこの誰かも知らないヤツと結婚する話になって、逃げてきたってワケ」
田中は黙って聞いていた。
「父の言葉は、全部呪いみたいだった。純潔と家名への忠誠。こればっかり。その清らかさが家の価値だって。意味分かんない。笑えるでしょ?」
カタリナは自嘲気味に笑ったが、その目の奥は震えていた。
「父の呪いより、あたしの誓いの方が強いって、証明したかった。だから家を出て、剣を取ったの。でも、どれだけ戦っても、あの声が頭にこびりついて離れない。汚すな、触れるなって。まるで、心まで縛られてるみたい」
ゆっくりと手を伸ばした。
「その鎖を、少し緩めてみましょうか」
「……できるの?」
「眠ってもいいんですよ。ほんの少し、休むだけです」
カタリナは、息を整えた。
「じゃあ……お願い」
静かに言葉を紡ぎ始める。
「まずは深呼吸をしましょう。鼻から吸う。口から吐く。そう、ゆっくりと」
田中の言葉に従い、彼女は胸を上下させる。
息を吸い込み、吐き出すたびに肩の力が抜けていく。
「これで、いいの?」
「何も気にせず、私の声だけを聞いていて下さい。今必要なのは、細かいことを気にしないこと。考えないこと」
「……。う、うん」
「今、口にしたような自分にとって嫌なことが吐く息に乗って出て行くのを意識すること」
「……はい」
不思議と、このタイミングでカタリナの口調が変わってくる。
暗示を唱える者と、聞く者。
命令をする人と、受け入れる人。
ほんの少しの違いが、意識改変の大きな力になる。
「もっと強く、吸って。吐く。これを可能な限り早く繰り返す」
ハァハァと、カタリナの荒い呼吸音だけが部屋に響く。
「そう、もっと早く。もっと強く。そして、息に乗って嫌なモノが出て行くと、体の力が入らなくなってくる。指先がしびれたように感じられて、動かなくなってくる。頭もぼーっとしてきて、考えるのが面倒になってくる」
「……え?」
「信じられないけど、あなたはもう自分一人では立てない、だって、足にも力が入らないのだから。手にも力が入らないから。1度目を開けて、実際に立ってみてください。立てないので」
カタリナは、椅子の背当てに手を掛けようとするが、うまく掴めない。
足を動かそうとするが、立ち上がれるほどしっかりと力が入らないようだった。
「なん、で?」
これは、強い深呼吸を繰り返した事による過換気の症状。手足がしびれ、めまいを誘発する。意図的にパニックを起こしている状態だ。
カタリナにとって、言葉通りにしただけで体が不自由になるなんて考えられない。
思考にくさびを打ち込む。
――ターナカが言ったことは、本当になる。
この思い込みの力は大きい。
自分の意志では解除できないほど。
「では、座り直して。改めて目を閉じて。今度は浅い深呼吸を。しっかり外の風の音を聞いてください。剣を持つ手を、ゆっくり開いて。あなたは、もう誰のためでもなく、自分のためだけ息をしていいんです」
彼女の姿勢が崩れる。
脱力が進み、自身の体を支えきれないほど意識レベルが低下していく。
「……父の声がする」
「聞き流して。私の声を聞いてください。すると、あなたの中で聞こえる父の声は徐々に小さくなり、聞こえなくなります。声が聞こえなくなるということは、父の影響も小さくなるということです。だから。だから、もう、気にならなくなるんです」
「怖い」
「怖くていいんです。怖いと思えるのは、心がまだ生きてる証拠だから」
頬を伝う涙が、ランプの光に淡く光った。
「助けて。助けてターナカ」
「はい、私は、あなたを助けますよ。カタリナ」
「助けて……。結婚しろって父が! 何度も! 何度も! 痛い! 怖い!」
ややもすれば彼よりも大きな体躯の彼女。涙をボロボロと流す。
田中は、そんなカタリナの肩を抱くと、ゆっくりと頬と頬を重ねる。
温かさが伝わる。
「助けて……」
夜も更けた頃。
毛布の端から、目だけを出したカタリナが話し始める。
「……あたし、ずっと……誰にも頼れなかった」
「もう、大丈夫ですよ」
「そうだね。ありがとう。凄く心が軽くなったよ」
「明日からは、もっと頼ってください」
「あはは。……ありがとう」
静かな時間が流れた。
カタリナの胸の奥に、温かい光が広がっていく。
まるで氷の底に小さな春が芽吹くように。
「――これが、癒やしなのね」
彼女の声は震えていたが、確かな実感があった。
カタリナは笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。
そのまま、静かな寝息を立て始める。
修道院の塔の上。
エルンスト師は、夜の街を見下ろしていた。
灯りの点々とする屋根の群れは、まるで信仰の火のように揺れている。
隣には、若い修道士が静かに立っていた。
「神の使徒、ですか……」
「人々がそう呼び始めた。だが――もし本当に神が遣わしたのなら、我らは跪くべきだろう」
エルンスト師は、わずかに目を細める。
風が、僧衣の裾をゆるやかに撫でた。
「もし違うなら……」
「――異端、ですね」
鐘の音が、遠くで鳴った。
その響きは、静かな夜を裂くように、長く尾を引いた。
エルンスト師は胸の前で指を組み、天を仰ぐように、あるいは考えるように、しばらく動かなかった。
その瞳の奥には、祈念とも、思惑ともつかぬ光が揺れていた。
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