第19話 神の使徒
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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日が少しずつ長くなってきた。
昼下がりの光が街の屋根を照らし、修道院の鐘楼には白い鳩が集まっている。
その光景を、寡婦の会の広場で見上げながら、リーナは穏やかに笑っていた。
ほんの数日前まで、どこか影を落としていた彼女の顔には、今や柔らかな血色が戻っていた。
スープを配る手際も軽やかで、笑顔を見せる余裕すらある。
「リーナさん、最近ほんとに元気ねぇ」
「まるで別人みたい。修道士さまの祈りが効いたのかしら」
「……そうね。きっと、神さまが見てくださったのね」
そんな言葉をよそに、リーナはそっと目を伏せる。
――祈ったのは、神ではなく、田中だった。
けれど、それを誰かに言うつもりはなかった。
あの夜、彼の声と腕に包まれて眠ったこと。それが奇跡だったと、自分だけが知っていればいい。
炊き出しの香りが、風に乗って通りに流れていく。
今日も人々が、修道院の前に長い列を作っていた。
討伐で傷を負った者、家を失った者、職を無くした者。
礼拝堂から出て来る人の中に、目に止まる1人の男がいた。
年の頃は40歳前後。痩せすぎだが、肩幅のある農夫だった。
手の甲には、深く残る爪の跡。
魔狼が最初に畑を襲った夜、真っ先に被害に遭った男だった。
列の中で、婦人たちがささやく。
「……また来てるわね、あの人」
「毎日、祈りの帰りに寄ってるんだって」
「修道士さまに相談してるらしいけど、どうにもならないらしいわ」
田中は、湯気の向こうでその会話を聞いていた。
その男の指先が、微かに震えているのが見えた。
両手の甲には爪の痕が刻まれ、まるで何かに縋るように、自分の手を握り締めていた。
配膳の順が回り、木椀にスープが注がれる。
男は礼を言いかけたが、声が出なかった。
唇だけが震えていた。
田中は列の脇から静かに声をかけた。
「……少し、話をしませんか」
男は目を上げる。
その瞳の奥には、光も焦点もなかった。
田中は、その後ろを静かについていった。
柔らかい土と乾いた風、遠くで鳥の声が聞こえる。
しかし、その畑の一角だけが、不自然に荒れていた。耕しかけの土が乾き、農具が地面に刺さったままになっている。
すぐ近くに小さな石の家があった。
男はそこに住んでいた。
炊き出しで余ったパンを抱え、震える手で扉を押し開ける。
家の方へ目を向けると、戸口に女性が立っていた。
「……帰ったのね」
薄い布の頭巾を被り、手には鍬を握っている。
さっきまで畑に出ていたのだろう、袖口には土の粉がついていた。
田中は会釈をして家に入ると、彼女もそれに続いた。
家の中は質素だったが、清潔に整えられていた。
「夫が……。何か……?」
「あ、いえ。申し遅れました。寡婦の会で炊き出しを手伝っている、田中といいます。旦那さんが心配でついてきてしまいました。何か、お役に立てれば……と」
「いつもありがとうございます。今、ウチは旦那が畑に出られないので……。施しが無ければ飢えていた所です」
田中が机に目をやる。そこには、血の滲んだ細い布。
「昨日、また畑へ行こうとして……。手が震えて、鍬を落としたんです」
鍬を持っていた女性が先に声を出した。彼女は、自分を妻と名乗った。
「眠れていないんですね?」
「ええ。夜になると、魔狼の夢を見るみたいで……。目を閉じるのが怖いって。でも、働かないと畑が荒れてしまうんです」
奥の部屋で、椅子に腰を下ろした男が俯いていた。
焦燥しきっており、周囲に気を配る余裕もなさそうだった。
「はい。少し、お話を聞かせてもらえますか」
男は小さくうなずき、かすれた声でつぶやいた。
「畑に行くと、思い出すんだ。あいつらの目……。足。爪。叫び。だもんで、鍬を握ると、心臓が早くなって、息が詰まる」
「祈っても、変わらないですか?」
「神さまは、俺のことまで見てくれない」
田中はゆっくりと腰を下ろした。
「祈るのは、後でいいんです。今は、呼吸を整えましょう」
男が顔を上げる。
田中は穏やかに続けた。
「怖いのは当然です。でも、その恐怖は、あなたが生き延びた証でもある。恐れがあるということは、あなたがまだ生きようとしているということです」
男の肩が小さく震えた。
「生きようとしてる……?」
「ええ。では、目を閉じてください。風の音を聞いて。草木が揺れる音も思い出して――」
肩に手を触れ、ゆっくりとしたリズムで左右に揺らす。
最初は田中の力で動いていた物が、次第に彼自身の力で揺れるようになる。
「いいですね。ゆっくりとした動きは、あなたの心と体にリラックスを生みます」
「……りらっくす」
「はい。心が落ち着いて、体が楽になって。ほっとするような感じです」
「ああ……」
「そのまま。私の声を聞いて。意味を深く考える必要はありません。心地良く聞いてもらえれば大丈夫です」
呼吸を深く。
体のリズムは一定に。
考えるのを止めて。
頭の中は真っ白に。
今は、何も、考えない。
目の前に広がるのは、秋に実る大麦の穂。
風に揺れる。
あなたの体も揺れる。
なんだか、一緒に聞いている奥さんも、ウトウトしているようだった。
それでいい。
家族が同じリスムに乗るのは、とても大切なこと。
刈り取った後の藁の上。
四肢を投げ出して、休憩。
秋の高い空。
穀物への感謝。
あなたは、満ちている。
同じ大麦も、同じようには育たない。
雨の年もあれば、晴れ続きの年もある。
それでも育つ。
田中の声が、静かに男の中へ流れ込む。
荒い息が徐々に落ち着き、握った拳がほどけていく。
「もう、明けない夜は終わりました。あの時の恐怖は、今はもう遠い記憶です。畑は、あなたのものです。その土を耕す手は、畑を生かす手です」
男の目尻から、涙が一筋こぼれた。
それは恐怖の涙ではなく、張り詰めた糸が切れた時に流れる涙だった。
「……ありがとう」
田中は微笑み、軽く頭を下げた。
「朝になったら、外へ出てください。光を見て。土の匂いを嗅いで。それだけでいいんです」
「わかった」
「もし少しでも、畑に出るのが怖ければ、また声を掛けて下さい。何度でも協力しますから」
翌朝。
陽を浴びながら、男は黙々と土を耕していた。
奥さんが遠くから見つめ、手で顔を覆って泣いている。
男は一度だけ手を止め、空を見上げた。
そして、静かに笑った。
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