第18話 誕生日の祈り
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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街を包む風が、やわらかく変わり始めていた。
祈りの街グライフェナウに吹く風は湿り気を抜け、どこか乾いた土と若草の匂いを含んでいる。
広場に干された布が揺れ、軒先の葡萄の若葉が、陽を透かして金色にきらめいていた。
寡婦の会が管理する畑では、豆の蔓が伸び始め、朝露が残る葉を手でそっと払う従事者の指先にも、うっすらと春の疲れが滲んでいた。
人々の足取りが軽くなる季節――けれど、リーナの胸の内は、日ごとに重く沈んでいった。
夫の誕生日が近づいていた。
出兵の知らせから、もう三年になる。
帰らぬまま、知らせもない。
死んだとも、生きているとも言われない。
命日がないかわりに、誕生日だけが、彼女にとって大切な日になっていた。
その日が近づくたび、心は静かに波立つ。
見えない糸が胸の奥を引くように――。
朝の市場。
石畳に陽が差し、香草と果実の香りが漂っている。
炊き出し用の材料を仕入れに来ていたリーナは、露店の片隅に咲く青い花に気づいた。
夫が好んで家の庭に植えていた、初夏の花だった。
その淡い青を見た瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
指先が自然に花へ伸びた。だが、途中で止まった。
花屋の老婆が優しく笑う。
「いい花だよ。旦那さんにでも?」
リーナは首を横に振った。
「……いえ、まだ、帰ってきてませんから」
そのまま手を引っ込める。
まだ死んでいない人に、花を供えるのはよくない――。そう教えられて育った。
縁起でもない行為に、心がどうしても踏み切れなかった。
花の香りを胸に残したまま、リーナは市場を離れた。
背を向けた瞬間、風が吹いて、花びらが一枚、足元に落ちた。
それがまるで、別れの印のように見えてしまい、彼女は思わず歩みを早めた。
午後、修道院の炊き出し場。
鍋の湯気が立ちのぼり、豆の匂いが漂う。
リーナは木杓子を握り、スープを混ぜていたが、視線はどこか遠くを見ていた。
火加減を誤り、鍋底から焦げた匂いが漂う。
「あっ……」
慌てて掻き混ぜたが、遅かった。
薄茶色の泡が黒くなり、ぱちぱちと弾ける音を立てる。
近くで作業していた年配の女性が顔をしかめた。
「リーナ、大丈夫? 焦げてるよ」
「すみません、少し……考えごとしていて」
笑ってごまかすものの、自分の笑みが引きつっているのがわかった。
鍋の湯気が目に染みる。
目頭が熱くなり、涙が出そうになる。
手を止めると、周囲のざわめきが一気に遠のく気がした。
どれくらいそうしていたのか、肩に触れる手の感触で、はっと我に返る。
「大丈夫ですか」
声の主は田中だった。
いつの間にか近くに来ていて、焦げた鍋を覗き込みながら心配そうに見つめている。
「す、すみません。気が抜けてたみたいです」
「少し休みましょう」
「でも……」
「みんな、手は足りてます。今のうちに座って」
田中の手に導かれて、リーナは腰を下ろした。
ほんのわずかに、陽の光が肌にやさしく触れた。
「……ありがとうございます」
リーナの声は細く震えていた。
「もうすぐ、夫の誕生日なんです」
田中は静かにうなずく。
「そう……、なんですね」
「でも、もう三年、戻ってきていません。死んだという知らせも、まだなくて」
彼女の瞳が揺れる。
「命日がないから、誕生日だけが……想える日なんです」
その言葉のあとの沈黙が、妙に長かった。
鍋の煮立つ音が、どこか遠くから聞こえるように思えた。
風が吹き、焚き火の灰が宙を舞った。
リーナの家は、街の北側、丘を少し上がったところにあった。
白い漆喰の壁に蔦が絡まり、小窓から灯りが漏れている。
扉を開けると、温かいスープの匂いが迎えてくれた。
「狭い家ですけど……どうぞ」
夕刻、炊き出し場の隅で、リーナが田中を呼び止めた。
「今夜、少しだけ……」と、霞むような声。彼女の心の中にある悲痛な叫び。そして助けてという小さな声が、田中の心を動かした。
自分の技術が、少しでも彼女の救いになるのであれば。
そう思い、彼女の家を訪れたのだった。
テーブルには素朴な料理が並んでいる。
根菜の煮込みと黒パン、薄く切った干し肉。
派手さはないが、丁寧に用意されたことが伝わる。
壁には、1組の黒ずんだ革手袋が吊るされていた。
指先が擦り切れ、手の形を残したまま固まっている。
田中がそれを見つめると、リーナはそっと言った。
「旦那が、最後まで使っていたものです。この手袋を使っていたんです。出兵のときに、新しいものを下ろしていって……。この古い方だけ、置いていったんです」
彼女は言葉を選ぶように、手を胸の前で組む。
「きっと、帰ってくるって信じてました。でも……もう、どうしていいかわからなくて」
彼女は、溜め込んでいたものを吐き出すように、言葉を続ける。
田中は何も言わず、ただ聞いていた。
壁の灯りが、二人の影を重ねる。
蝋燭の火が揺れ、炎の縁が橙ににじむ。
そんな彼の遺品の横に、古びた木札が立てかけられていた。
墨で文字が書かれ、角には修道院の印が押されている。
「これは?」
田中が問うと、リーナは木札を手に取った。
「修道士さまに書いていただいた、祈り札です。寄進をすれば、災いを避けられるって」
「……お守り、みたいなものですね」
「ええ。けれど、この銀貨……。夫の最後の貯金でした」
リーナの声が静かに震えた。
「夫に安らかな願いを届けたいなら買いなさいって、修道士さまに言われて。私は、それが本当に祈りになると思って……」
唇を噛みしめる彼女を見て、田中は胸が痛んだ。
信仰が支えになることもある。けれど、時にそれが、人を縛ることもある。
部屋の中を、静けさが満たした。
外では虫の声がかすかに響く。
「リーナさん」
田中はそっと言葉をかけた。
「もう少し、呼吸を整えてみましょう」
リーナは、救いを見つけた子供のような目で田中を見た。彼女の求めるものが、今目の前にあるのだから。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「目を閉じてください」
田中の声は穏やかで、どこか温かかった。
「大丈夫です。今は、ここにいます。外の音も、時間も、全部置いておきましょう」
「呼吸を整えましょう。鼻から吸って、口から吐く。そう。なるべくゆっくり。深く」
彼女は言われる通り、深呼吸を繰り返す。
そして、田中は、優しい言葉で彼女の体の中に暗示文を入れていく。
緊張をほぐし、体を温める。指先まで脱力をうながす。
重力がリーナの体を呼んでいる。背もたれにまっすぐ寄りかかれなくなり、体勢を維持できないほど深い催眠状態へと落ちていく。
彼女の背を支えて寝台へ導く。
安心して身を任せられるよう、四肢を伸ばした状態で優しく寝かせた。
「体が伸びると、もっとリラックスできますね。周囲のことなど気にせず、もっと体を休めてください。体が休まると、心も休まります。両方、安心して休ませてください」
そんな言葉を伝えると、リーナの表情が落ち着いていく。少し険しかった眉間も、丸くなっていく。
「リーナさん。あなたは今まで1人で頑張ってきました。それは誰しも認める所です。でも、1人で頑張りすぎないでください」
「旦那さんを想う強い気持ち。大切なことです。でも、その強さが自らを傷つけては意味がありません。思う気持ちを大事にしつつ、もう少し、自分の事も考えてあげてください」
「悲しい記憶は、消そうとしなくていいんです。あなたが笑うたびに、その痛みは小さくなっていく。夜が明ければ、光はまた同じようにあなたを照らします」
田中は、リーナの生き方。行動を優しく肯定する。今まで間違っていない、と。
そして、その思いをそのままに、前を向いて歩いて行けるよう、導きの言葉を投げかける。
1時間も、2時間もかけて。
丁寧に。丁寧に。
田中の声が、ゆっくりと部屋に満ちていく。
リーナは深い催眠状態にあり、呼吸は静穏に。肩や腰、あらゆる筋肉が弛緩している状態だった。
「では、目覚めましょう。心も、体も軽く。心地良く。頭はスッキリして、話す言葉はよどむことがありません。7、8、9、10。はい、おはようございます」
ゆっくりと目を開け、3度ほど強くまばたきをする。
周囲に視線を回し、状況が掴めるようになると、しっかりと田中の目を見据えた。
「……もう、泣いていいですか」
かすれた声が、こぼれた。
「ええ。今は、泣いても大丈夫です」
涙が一筋、頬を伝う。
それは悲しみというより、ようやく許された人の涙に近かった。
火の明かりが、彼女の横顔を照らす。
しばらく泣いていた。とめどなく涙が溢れる。
今まで溜まっていたものが、全部外に出て行っているのだろう。
リーナは体を起こし、田中の首に手を回す。
「ありがとうございます。ありがとうございます。あなたがいてくれて、本当に……良かったです。今まで、押しつぶされそうだった」
言葉を止める。
瞳と、瞳の距離が近くなる。
「今、初めて。――救われた気がします」
田中も優しく微笑んだ。
差しだした手と手が触れ、指と指が絡まる。
「あなたは、わたくしにとって、救いの神そのものです」
しばらくの時間が過ぎる。
疲れ果てたリーナの体がわずかに揺れ、やがて、深い眠りへと沈んでいった。
田中はしばらくその姿を見つめ、蝋燭の火を静かに吹き消した。
暗闇の中には、彼女の穏やかな寝息と、祈り札から漂う微かな香だけが残っていた。
未亡人は、遺品の前でナニをしたんでしょうね?(またこれ)
毎日19:10頃更新しています。
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