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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第三章 その香りを、忘れないで

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第16話 朝の市にて

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 白い光が、宿〈白燕亭〉の格子窓を通り抜けていた。

 夜の霧は、朝日を受けて淡く消えていく。

 軒先では燕が一羽、短く鳴いて飛び立った。

 川のせせらぎと鳥の声が混じり合い、街がゆっくりと目を覚ます音がした。


 田中がまぶたを開けると、部屋の隅でヘルミーナが髪を結っていた。

 夜と同じ白いシャツに、薄い灰色のスカート。

 けれど、夜の艶やかさとはまるで違う。

 光を浴びた彼女は、穏やかで、どこか家庭的な温かさをまとっていた。


 「おはよう」


 振り向いたヘルミーナが、柔らかく笑った。


 「ねぇ。今日はヒマ? 朝の市でも見に行きましょ」

 「(いち)?」

 「そう。あんた、まだこの街の朝を知らないでしょ。夜と違って、ちゃんと生きてる音がするのよ」


 その言葉に、田中は小さくうなずいた。

 外では、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってきていた。

 宿の主人が通りで声を張り上げ、「焼きたてだよ!」と笑っている。

 いつの間にか、それが心地よい音に聞こえた。


 昨夜は、どこか夢のようだった。

 温もりの残る空気の中で、彼は小さく息を吐いた。




 二人が宿を出たのは、朝の鐘が2度鳴った頃だった。

 川沿いの石畳には朝露が残り、足もとで光を跳ね返している。

 通りを行き交う人々の声が、新しい一日の始まりを告げていた。


 「この時間の街、好きなの」


 ヘルミーナは陽を見上げて言った。


 「夜の仕事が終わって、みんながそれぞれの場所に帰ってく。朝はね、誰も嘘をつかない時間なのよ」

 「嘘をつかない?」

 「ええ。夜は強がりが多いけど、朝は素直でしょ。人も、空も、光も。……あんたも」


 田中は苦笑した。


 「僕も、ですか」

 「ええ。昨日より、目つきが少しやわらかくなった」


 そのやりとりに、互いの心の距離がほんの少し近づく。


 街角を抜けると、通りの向こうに市場が広がっていた。

 グライフェナウの朝市は、修道院の外壁沿いに続いている。

 祈り札を売る修道士、焼きパンの屋台、果物を並べた農家の娘、香草を束ねる老人。

 神の名を唱える声と、値切り交渉の喧騒が入り混じり、信仰と生活がひとつの風景を作っていた。


 「ここの果物はね、祭りの日になると倍の値段になるのよ」


 ヘルミーナは屋台を見ながら笑った。


 「だから、今のうちに味見しておきなさい」


 彼女は果物の切れ端を商人からもらい、田中に渡す。

 甘い汁が口の中で広がった。


 「……うまい」

 「でしょ? 朝に食べると、もっとおいしいの」


 彼女はそう言って、指先を舐めた。

 その仕草が妙に自然で、昨夜の温もりを、ふと思い出させた。

 同時に、同じようにフルーツを奢ってくれたカタリナの顔を思い出す。初対面の人にご馳走するのが、この街の風習なのだろうか。

 なんか面白くなって、田中の目尻にしわが寄った。


 香油を売る露店の前に差しかかったとき、ヘルミーナが足を止めた。

 色とりどりの小瓶が並び、瓶越しに陽の光が屈折して地面に模様を描いている。


 「香りって、不思議ね」


 彼女はひとつの瓶を手に取り、蓋を少し開けた。


 「匂うだけで、その夜を思い出すの」


 瓶の中から、柑橘と白花の香りが漂った。

 ヘルミーナはうっとりと目を閉じる。


 「……ミーネ、この香り、好き」


 田中は隣で、その横顔を見ていた。

 彼女の表情には、夜とは違う穏やかさがあった。


 「不思議なものですね。香りだけで、過去が浮かぶなんて」

 「そういうの、ない?」

 「僕は……飯の匂い、ですかね」

 「飯?」

 「ええ。腹が減ってるときに、誰かがスープを作ってる匂い。それを嗅ぐと、生きててよかったなって思います」


 ヘルミーナは笑った。


 「やっぱり、あんた変わってる」


 その笑い声が、市場のざわめきに溶けていく。

 市場の喧騒の向こうでは、修道院の鐘楼が陽を受けて白く光っていた。

 その光が、陽の粒といっしょに人々の肩に降りかかっているようにも見えた。




 田中は、ふと隣の露店に目を向ける。

 年老いた細工師が、いくつもの飾りを並べている。

 陽に反射して、ひとつの飾りが小さく光った。


 「……これを、ひとつください」


 手に取ったのは、小さな木製の髪飾り。

 花の形をしているが、彫りは繊細で、手作りの温かさがある。


 「お嬢さんにかい?」と細工師が笑った。


 田中は少し考えてから首を振った。


 「戦で世話になった人がいて。お礼に渡したいんです」


 ヘルミーナが横から覗き込み、唇の端を上げた。


 「ふふ。女の子はね、何をもらうかより、誰が選んでくれたかで嬉しいの」

 「そういうものなんですか」

 「そうよ。だって、そのときの顔って、いちばん素直だから」


 田中は思わず笑ってしまった。


 「……なるほど」


 ヘルミーナは嬉しそうにうなずいた。


 「うん、そういう顔」


 市場の喧騒の中で、二人の声だけが穏やかに響いた。




 通りの先、修道院の尖塔が朝の光に輝いていた。

 風が吹き、香油の香りがわずかに揺れる。


 ヘルミーナはしばらく歩いたあと、ふと立ち止まった。


 「……昔ね、贈り物をもらったことがあるの」

 「贈り物?」

 「遠い村の子がくれたの。手作りのブローチ。不格好だったけど、あのときは嬉しかったな」


 そう言って微笑んだ彼女の顔は、どこか遠くを見ていた。

 言葉の奥に、淡い郷愁がにじむ。


 「今でも、たまに思い出すの」


 田中は何も言わなかった。

 彼女の横顔を見ていると、夜に見た彼女とは別の人のように思えた。

 強く生きてきた人の、それでも残る柔らかさ。


 風が二人のあいだを抜けた。

 香油の香りが、空にほどけていく。




 少し時間が経ち、昼の鐘が1度鳴り、街の喧騒が少しずつ祈りの静けさに変わっていった。

 修道院通りの分かれ道まで来たところで、ヘルミーナが足を止める。


 「ここでお別れね」


 田中がうなずく。

 ヘルミーナは手にしていた香油の瓶を差し出した。


 「部屋、少し乾いてるでしょ。これ、焚いてみて。……ミーネの匂い、忘れないでね」


 田中は微笑んだ。


 「あなたの笑い方も、忘れませんよ」


 ヘルミーナは少し頬を赤らめ「……あんた、そういうの反則」とつぶやいた。

 そして、いつものように笑う。


 「笑ってるとね、泣いてたことを忘れられるの」


 去り際に、彼女は昨晩と同じことを口にする。

 その声が、昼の光の中で小さく揺れた。

 陽射しが彼女の髪に反射し、淡い金色の光を散らす。


 田中は、彼女が通りの角を曲がるまで見送っていた。

 香油の残り香が風に流れ、通りに小さな余韻を残して消えていく。




 彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 手の中の小瓶が、陽の光を受けて静かに輝いた。

 瓶の中の液体がわずかに揺れ、香りがひとすじ、風に乗って広がった。


 「人は笑うことで、自分を救っている。癒やしって、そういうことなのかもしれない」


 つぶやいた声は、風に溶けて消えた。

 香油の香りだけが、いつまでも彼の手の中に残っていた。


毎日19:10頃更新しています。

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