第16話 朝の市にて
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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白い光が、宿〈白燕亭〉の格子窓を通り抜けていた。
夜の霧は、朝日を受けて淡く消えていく。
軒先では燕が一羽、短く鳴いて飛び立った。
川のせせらぎと鳥の声が混じり合い、街がゆっくりと目を覚ます音がした。
田中がまぶたを開けると、部屋の隅でヘルミーナが髪を結っていた。
夜と同じ白いシャツに、薄い灰色のスカート。
けれど、夜の艶やかさとはまるで違う。
光を浴びた彼女は、穏やかで、どこか家庭的な温かさをまとっていた。
「おはよう」
振り向いたヘルミーナが、柔らかく笑った。
「ねぇ。今日はヒマ? 朝の市でも見に行きましょ」
「市?」
「そう。あんた、まだこの街の朝を知らないでしょ。夜と違って、ちゃんと生きてる音がするのよ」
その言葉に、田中は小さくうなずいた。
外では、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってきていた。
宿の主人が通りで声を張り上げ、「焼きたてだよ!」と笑っている。
いつの間にか、それが心地よい音に聞こえた。
昨夜は、どこか夢のようだった。
温もりの残る空気の中で、彼は小さく息を吐いた。
二人が宿を出たのは、朝の鐘が2度鳴った頃だった。
川沿いの石畳には朝露が残り、足もとで光を跳ね返している。
通りを行き交う人々の声が、新しい一日の始まりを告げていた。
「この時間の街、好きなの」
ヘルミーナは陽を見上げて言った。
「夜の仕事が終わって、みんながそれぞれの場所に帰ってく。朝はね、誰も嘘をつかない時間なのよ」
「嘘をつかない?」
「ええ。夜は強がりが多いけど、朝は素直でしょ。人も、空も、光も。……あんたも」
田中は苦笑した。
「僕も、ですか」
「ええ。昨日より、目つきが少しやわらかくなった」
そのやりとりに、互いの心の距離がほんの少し近づく。
街角を抜けると、通りの向こうに市場が広がっていた。
グライフェナウの朝市は、修道院の外壁沿いに続いている。
祈り札を売る修道士、焼きパンの屋台、果物を並べた農家の娘、香草を束ねる老人。
神の名を唱える声と、値切り交渉の喧騒が入り混じり、信仰と生活がひとつの風景を作っていた。
「ここの果物はね、祭りの日になると倍の値段になるのよ」
ヘルミーナは屋台を見ながら笑った。
「だから、今のうちに味見しておきなさい」
彼女は果物の切れ端を商人からもらい、田中に渡す。
甘い汁が口の中で広がった。
「……うまい」
「でしょ? 朝に食べると、もっとおいしいの」
彼女はそう言って、指先を舐めた。
その仕草が妙に自然で、昨夜の温もりを、ふと思い出させた。
同時に、同じようにフルーツを奢ってくれたカタリナの顔を思い出す。初対面の人にご馳走するのが、この街の風習なのだろうか。
なんか面白くなって、田中の目尻にしわが寄った。
香油を売る露店の前に差しかかったとき、ヘルミーナが足を止めた。
色とりどりの小瓶が並び、瓶越しに陽の光が屈折して地面に模様を描いている。
「香りって、不思議ね」
彼女はひとつの瓶を手に取り、蓋を少し開けた。
「匂うだけで、その夜を思い出すの」
瓶の中から、柑橘と白花の香りが漂った。
ヘルミーナはうっとりと目を閉じる。
「……ミーネ、この香り、好き」
田中は隣で、その横顔を見ていた。
彼女の表情には、夜とは違う穏やかさがあった。
「不思議なものですね。香りだけで、過去が浮かぶなんて」
「そういうの、ない?」
「僕は……飯の匂い、ですかね」
「飯?」
「ええ。腹が減ってるときに、誰かがスープを作ってる匂い。それを嗅ぐと、生きててよかったなって思います」
ヘルミーナは笑った。
「やっぱり、あんた変わってる」
その笑い声が、市場のざわめきに溶けていく。
市場の喧騒の向こうでは、修道院の鐘楼が陽を受けて白く光っていた。
その光が、陽の粒といっしょに人々の肩に降りかかっているようにも見えた。
田中は、ふと隣の露店に目を向ける。
年老いた細工師が、いくつもの飾りを並べている。
陽に反射して、ひとつの飾りが小さく光った。
「……これを、ひとつください」
手に取ったのは、小さな木製の髪飾り。
花の形をしているが、彫りは繊細で、手作りの温かさがある。
「お嬢さんにかい?」と細工師が笑った。
田中は少し考えてから首を振った。
「戦で世話になった人がいて。お礼に渡したいんです」
ヘルミーナが横から覗き込み、唇の端を上げた。
「ふふ。女の子はね、何をもらうかより、誰が選んでくれたかで嬉しいの」
「そういうものなんですか」
「そうよ。だって、そのときの顔って、いちばん素直だから」
田中は思わず笑ってしまった。
「……なるほど」
ヘルミーナは嬉しそうにうなずいた。
「うん、そういう顔」
市場の喧騒の中で、二人の声だけが穏やかに響いた。
通りの先、修道院の尖塔が朝の光に輝いていた。
風が吹き、香油の香りがわずかに揺れる。
ヘルミーナはしばらく歩いたあと、ふと立ち止まった。
「……昔ね、贈り物をもらったことがあるの」
「贈り物?」
「遠い村の子がくれたの。手作りのブローチ。不格好だったけど、あのときは嬉しかったな」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、どこか遠くを見ていた。
言葉の奥に、淡い郷愁がにじむ。
「今でも、たまに思い出すの」
田中は何も言わなかった。
彼女の横顔を見ていると、夜に見た彼女とは別の人のように思えた。
強く生きてきた人の、それでも残る柔らかさ。
風が二人のあいだを抜けた。
香油の香りが、空にほどけていく。
少し時間が経ち、昼の鐘が1度鳴り、街の喧騒が少しずつ祈りの静けさに変わっていった。
修道院通りの分かれ道まで来たところで、ヘルミーナが足を止める。
「ここでお別れね」
田中がうなずく。
ヘルミーナは手にしていた香油の瓶を差し出した。
「部屋、少し乾いてるでしょ。これ、焚いてみて。……ミーネの匂い、忘れないでね」
田中は微笑んだ。
「あなたの笑い方も、忘れませんよ」
ヘルミーナは少し頬を赤らめ「……あんた、そういうの反則」とつぶやいた。
そして、いつものように笑う。
「笑ってるとね、泣いてたことを忘れられるの」
去り際に、彼女は昨晩と同じことを口にする。
その声が、昼の光の中で小さく揺れた。
陽射しが彼女の髪に反射し、淡い金色の光を散らす。
田中は、彼女が通りの角を曲がるまで見送っていた。
香油の残り香が風に流れ、通りに小さな余韻を残して消えていく。
彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中の小瓶が、陽の光を受けて静かに輝いた。
瓶の中の液体がわずかに揺れ、香りがひとすじ、風に乗って広がった。
「人は笑うことで、自分を救っている。癒やしって、そういうことなのかもしれない」
つぶやいた声は、風に溶けて消えた。
香油の香りだけが、いつまでも彼の手の中に残っていた。
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