第15話 夜を歩く女
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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夜の鐘が3度鳴った。
その音は、川沿いの家々の屋根を震わせながら、ゆっくりと空に溶けていく。
魔狼討伐の騒ぎが収まってから、まだ2日。
グライフェナウの街は、もう何事もなかったかのように静かだった。
祈りの街は、悲しみも戦も、祈りの中に包み込んでしまう。
田中はそんな街を歩きながら、胸の奥で息を整えた。
報奨金を受け取り、初めて人並みの宿を取った。
街外れ、小川沿いに建つ宿〈白燕亭〉。
旅人のあいだでは「春に燕が戻る宿」と呼ばれ、長旅の終わりに立ち寄る場所として知られているという。
粗末な外観のわりに、中はよく磨かれていた。
梁に吊るされたランプの灯りが、木の壁を柔らかく照らし、乾いた藁の香りが、微かに鼻をくすぐる。
温かい家の香りに田中は、久しぶりに「眠れる場所」に来たのだと実感した。
宿の主人が差し出した温かい豆のスープを受け取り、窓際の席に腰を下ろす。
窓の外では、川の流れが銀色に光り、風が柔らかく草を揺らしていた。
静けさが、耳に染み込んでいく。
匙を動かしながら、彼はぼんやりと考えていた。
――ようやく、まともな飯にありつけた。
この街に来てからというもの、ろくなものを口にしていない。
無一文で、食べ物にありつけただけでもありがたい。硬い干しパンと薄いスープ。夜は薄くて味のしない葡萄酒を飲んで、そのまま眠ることも珍しくなかった。
今、こうして椅子に座り、テーブルに置かれた湯気の立つ皿を前にしていると、体の底から何かが緩む気がした。
「……うまいな」
思わず小さくつぶやく。
味はどうということもない。ただ、塩気がちゃんとあって、腹に染みた。
生きている実感というのは、案外こういうところにある。
修道院の炊き出しは、基本薄味だ。
川には港もあり貿易も盛んだが、なんとなく奥まった土地で、塩が貴重なのだと思う。それに文句は言えないが、その分今日の食事が特別美味しく感じられたのだった。
スープをすすりながら、彼は天井を見上げた。
「さて、これからどうしたものか」
魔狼討伐の報奨金は大きかった。宿代だけなら、しばらく働かずとも暮らしていける。
これから先、何をするべきか。現代へ帰る方法を模索するのか。それとも、魔狼を従えていたと思われる影を追うべきなのか。
生活を安定させる必要もある。金が無限にある訳ではない。
自分の手のひらを見る。
自分にできること。
「……人の心を軽くする、か」
ぽつりと漏れた言葉が、湯気に紛れて消えた。
癒やしの力――そう呼ばれるものが、どこまで通用するのか。
過去に催眠術で痛い目を見たこともある。それをもう一度繰り返すのはこりごりだ。もちろん、困っている人がいれば助けてあげたいが、安易に使う物ではないと思っている。
匙を置き、手を組む。
「まぁ、贅沢は言わない。せめて、普通に飯を食える日々が続けばいい」
そう思った。
まずは生きること。
その上で、明日も仕事を探し、それを探していこうと思う。
その時だった。
「ねぇ、あんた、ひとり?」
軽やかな声だった。
振り返ると、柱に背を預けた女が、微笑を浮かべて立っていた。
「ええ、まあ」
田中が答えると、女は少し唇を上げて言った。
「思ってたより静かな人なのね。魔狼を退けた人って聞いてたから、もっと怖い顔してるかと思ったわ」
「……そんな大層なことはしてません」
「ふうん。そういう人の方が、案外本物だったりするのよ」
女は笑いながら、彼の向かいに腰を下ろした。
年の頃は20歳すぎ。
明るい栗色の髪を肩で束ね、首には薄い布を巻いている。
派手ではないが、身のこなしに自然な艶がある。
「ミーネって呼ばれてる。……ほんとはヘルミーナ。この辺で働いてるの。宿の人じゃないわ」
「旅の方ですか?」
「そうね。宿を渡り歩く商売だから」
彼女はそう言って、杯を軽く揺らした。
田中は、その言葉の意味を理解する。
葡萄酒の赤が、灯の下で揺れる。
「……あんた、どうやって魔狼をやっつけたの?」
「人づてに聞いたんですか?」
「ええ。市場の連中が言ってたの。ただの旅人が魔獣を倒したって。本当なら大したものよ」
「大げさですよ。僕はただ、運が良かっただけです」
「ふうん」
ヘルミーナは顎に手を当て、興味深げに田中を見た。
「……思ってたのと違うわね」
「違う?」
「もっと鼻にかけた人かと思ってた。賞金を手にして、酒でもあおってるような」
「酒は嫌いじゃないけど、飲む理由がないだけです」
「理由がない?」
「ええ。生き延びただけで、もう十分ですから」
その言葉に、彼女の眉が少しだけ動いた。
笑っているのに、どこか胸の奥を刺されたような表情だった。
「……変わってるね、あんた」
「そうですか?」
「うん。普通は助けたとか倒したとか言いたくなるもん。あんたは、ただ生き延びたって言う」
「それが事実ですから」
ヘルミーナは肩をすくめ、笑った。
「そういうの、嫌いじゃないわ」
言葉の調子は軽かったが、その瞳の奥には、人を見抜くような真剣さがあった。
「……なんか、不思議ね。あんたと話してると、落ち着くの。全然、強そうに見えない」
田中は少しだけ笑った。
「それは、きっと見た目通りですよ」
「ふふ、謙遜してー」
ランプの灯が揺れ、二人の影が壁に映る。
そこに生まれた沈黙は、気まずくもなく、むしろ心地の良い間だった。
ヘルミーナは、ほんの少し笑った。
「ねぇ、今夜、少し話さない? 静かにね。……ミーナから誘ったんだから、お代はいらないわ」
「お代?」
「いいの。話したいだけだから」
からかうように笑い、彼女は受付の方へ歩いていく。
帳場の女中に何かを告げ、木桶と布を受け取って戻ってきた。
「ほら、お湯をもらってきた。ちゃんと温かいうちに済ませないとね」
「そんなに準備が早いんですか?」
「仕事だから。……でも、今日は少し違うかも」
その言葉に、田中は一瞬だけ息を呑んだ。
ヘルミーナの顔には、微笑みの中に、どこか心の底を見せようとする柔らかさが混じっていた。
「行こ、どうせ部屋。あんた一人でしょ?」
田中はうなずき、彼女の後ろ姿を見る。
ランプの灯が、廊下の壁に長い影を作っている。
上階へと続く木の階段が、足の下で軽く鳴った。
〈白燕亭〉の夜は静かだった。
扉の向こうで遠く誰かの笑い声がして、それもすぐに消える。
彼女は湯桶を片手に、田中の部屋の前で振り返った。
「ねぇ、あんた。今夜は、ミーネの話、少しだけ聞いてくれる?」
肌を拭いた布が乾き始め、お湯がすっかり冷めた頃。
田中の腕の中で、ヘルミーナがポツリポツリと話し始める。
「この街はね、夜がきれいなの。でも、誰かと歩く夜は……あんまりない」
「夜の街って、寂しいものですか?」
「仕事が終わる頃には、みんな眠ってるもの。残ってるのは、ほんの少しの灯りと……嘘くらい」
「嘘?」
「うん。明日も会えるとか、すぐ戻るとか。でもね、そういうの嘘だって分かってても、嬉しいのよ」
その笑みは、どこか自嘲にも似ていた。
田中は黙って聞いた。
振り向くヘルミーナの横顔が見える。
「あなたはどうなの? 誰か待ってる人、いる?」
「いません」
「……そっか」
彼女は少しだけうなずき、寂しそうに笑った。
「そういう顔の人、好きよ。泣きそうな目してるのに、泣かない人」
「泣いたって、何も変わらないですから」
「変わるわよ」
「え?」
「泣いた顔を見て、誰かが優しくなることもあるの。それが、あたしたちの仕事よ」
微笑み、笑うその声に、確かな誇りがあった。
「ヘルミーナは、強いですね」
「強い? 違うわよ」
彼女は首を振る。
「笑ってるとね、泣いてたことを忘れられるの。それだけ」
小さなランプの灯が、壁に淡い影を作る。
彼女の話は、時々止まり、時々続く。
でもそれは、田中にとって心地の良いリズムだった。
旅先で見た風景の話、会った人たちの話、笑って去っていった客の話。
そのどれもが、夜の香りをまとっていた。
「ミーナもさ、だいぶ癒やしてきたと思うのよ。正直」
「癒やす?」
「男性を」
「……ああ」
「ねぇ、ターナカ。人を癒やすって、怖くない?」
「少しだけ」
「どうして、そう思うの?」
「相手の痛みを、自分の中に残してしまうから」
「……あんた、ほんとに変わってるわね」
彼女はくすりと笑い、ワインを一口飲んだ。
灯りの反射で、赤い液体がゆらめく。
「変わってる人、好きよ」
その言葉に、空気がわずかに震えた。
ふたりの間にあった距離が、静かに消えていく。
何かを求めるでも、誤魔化すでもなく、ただ互いの呼吸の音を感じ合うような静寂。
ヘルミーナは、窓の外に目を向けた。
霧が川面に降り、遠くの灯が滲んでいる。
「もし、もう少し早く会ってたらね」
「え?」
「この街に来る前。まだ人を信じられた頃のミーナだったら――。きっと、あなたを選んでたと思う」
その言葉は、祈りのように静かだった。
田中は何も言わず、ただうなずいた。
彼女は微笑んで目を閉じる。
「……眠くなってきた」
「いい夢を」
「うん。あんたの声、子守歌みたい」
やがて、呼吸が落ち着き、穏やかな寝息に変わる。
その顔からは、夜の疲れも、仕事の影も消えていた。
ただ、安らぎの中にいる人の表情だった。
窓の外で、最初の朝の鐘が鳴る。
ヘルミーナは、寝返りを打ちながら、小さくつぶやいた。
「……ミーネ、泣いてないよ」
田中はその背を見つめた。
朝の光が、少しずつ部屋を満たしていく。
毛布を彼女にかけ直すと、白く光る空を見上げた。
夜の霧は、もう跡形もなく消えてゆくところだった。
個人的に、ヘルミーナは好きなキャラクターです。
木桶を持って上がって、ナニをしたんでしょうね?
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