一秒の外側で
僕には現在がない。
ただ、過去と未来の狭間に漂う、薄い影のように存在している。
秒針の刻む音はいつも聞こえていたはずなのに、
ある日を境に、その音は消えた。
僕は「今」を失った。
誰にも届かず、誰にも見えない。
けれど確かに、僕はここにいた。
これは、
“今”を喪失した少年の物語。
時間のあわいで、揺れる存在の記録。
そして、消えゆく声の軌跡。
もしも君が、ふとした瞬間に「ここ」にいない気がしたら、
それは僕がささやいているのかもしれない。
僕には現在がない。
過去と未来。それが僕を構成するものだ。
今日話したことは過去となり、夢見た出来事が未来となる。
僕は今、どこにいるのだろうか。
時計の針は動いている。
カチ、カチ、と確かに進んでいるはずなのに、
その「カチ」の瞬間だけ、僕の中から抜け落ちている。
教室で手を挙げた。
先生は一瞬こちらを見たはずなのに、視線が僕をすり抜ける。
隣の席の子が「誰に話しかけてるの?」と笑った。
僕は確かにいた。そこにいた。
でも、僕が“いた”というのは、もう“過去”なんだ。
彼らが“気づいた”のは、“僕がそこにいなくなった後”だった。
「今、僕はいるよ」
声に出してみても、音が耳に届かない。
自分の声が、自分に届かないんだ。
昨日の夢を覚えている。
明日の予定も考えている。
でも、“いま”だけが、ない。
日記を開くと、そこには毎日こう書いてある。
『君は、現在にいない』
『1秒の外にいる』
『君はまだ、1秒も生きていない』
これを書いたのは僕だろうか?
それとも、誰かが“いま”の僕に向けて残したものだろうか?
母さんは、僕が朝食をとった記憶がないと言った。
父さんは、昨日の話をまるで知らなかった。
僕だけが覚えていて、僕だけが“今”にいる気がしている。
でもそれはたぶん、錯覚だ。
僕の“今”なんて、本当はどこにも存在していない。
だって――
秒針の音が、聞こえなくなったんだから。
朝、目が覚めると、空気が変わっていた。
窓の外はいつも通りのはずなのに、光の角度が、昨日とは違って見えた。
いや、見えた、というのは正確じゃない。
目を向けたときには、もうその光景は“過去”になっていた。
僕は立ち上がって、制服に着替える。
床の感触がある。でも、それが「今感じているものか」はわからない。
足が床を踏みしめたという記憶があるだけ。
体が“いま”に追いついてこない。
リビングに行くと、母がテレビを見ていた。
僕は「おはよう」と言った。
母は返事をしなかった。
……いつもは、ちゃんと返してくれるのに。
テレビの画面を覗き込む。天気予報。今日の天気は、――そこが空白だった。
表示がバグっているわけじゃない。
キャスターの口が動いているのに、「今日」という単語の部分だけ、音が消えていた。
「今日って、晴れるの?」と僕が聞いても、母は反応しなかった。
顔を向ける。
その視線が、僕の“後ろ”を見ていた。
僕のほうを見ているはずなのに、焦点が合っていない。
僕が“そこにいない誰か”であるかのように。
「おはよう」
そう聞こえた時には、僕はもうそこにはいなかった。
朝食は用意されていなかった。
「学校行ってくる」と言っても、誰も応えない。
僕は靴を履き、玄関を開けて、街へ出た。
「行ってらっしゃい。」
そう聞こえた時には、僕はもうそこにはいなかった。
通学路には、いつものように人がいた。
犬を散歩させる老人。
スマホを見ながら歩く女子高生。
イヤホンをつけて走る男子。
でも、誰も僕にぶつからない。
僕が彼らを避けた記憶は、ない。
すれ違った、という記憶だけがある。
けれど、彼らの動きは、まるで僕を初めから避けるように流れていた。
「避けていた」のではなく――
僕がそこに**“いなかった”**のかもしれない。
彼らは、僕を視界に入れていなかった。
ただ、滑らかに僕の位置を無視して進んでいただけ。
学校に着く。
門をくぐり、廊下を抜け、教室の前に立つ。
教室の扉を開けた瞬間――
クラスのざわめきが、まるで電源を落としたみたいに、ぴたりと止まった。
静寂。
だがすぐに、何事もなかったように再び騒がしくなる。
でも、僕を見ていた目は、一つもなかった。
僕が入ってきた“今”を、誰も認識していない。
自分の席を見た。
……なかった。
椅子も机も、あるはずの場所に、存在していなかった。
黒板の横の出席番号表。
僕の名前だけが、なかった。
そこだけ、番号が飛ばされていた。
先生が出席をとる。
「1番、はい」「2番、はい」――「6番……はい」
僕は5番だ。
でも、“5番”は呼ばれなかった。
“抜けている”のではない。
最初から存在しなかったように、無視されている。
僕は自分の足元を見下ろした。
教室の床の模様が、うっすら歪んで見える。
自分が立っている場所だけが、過去か未来か、どこか違う時の上にあるように感じた。
ふと、気づいた。
いつの間にか――
僕の席は、そこにあった。
机と椅子が、何の前触れもなく、視界に“戻って”きていた。
記憶の上では、そこにはずっと存在していたような錯覚がある。
でも、ほんのさっきまでなかったはずだ。
この“曖昧な現実”のほうが、怖かった。
僕の存在もまた、誰かの目の前に、こんなふうに唐突に出たり消えたりしているのだろうか?
僕は立ち上がって、「先生、ここにいます」と言った。
先生は顔をしかめ、誰かのほうを見た。
クラスメイトが笑った。「誰かいた? いま、なんか言った?」
僕は自分の両手を見た。
ある。ちゃんとある。
机の上に手を置くと、木の冷たさが少しだけ伝わってきた。
でもその感触が、"今"なのか、わからない。
昼休み、教室を出る。
誰とも話していない。
僕のスマホには通話履歴もLINEもない。
昨日のメッセージは残っていた。
「明日、パン買ってきて」
でも“今日”その子は、僕のことを一度も見ていなかった。
僕は日記を開いた。
昨日、僕は確かに何かを書いた。
でもページは白紙だった。
手のあとだけが、紙に薄く残っていた。
何かを握りしめたような筆圧の跡。
その跡の一番下に、鉛筆で擦れたような文字が読めた。
「君は、現在にいない」
手が震えた。
ページを閉じようとして、ふと気づく。
この日記帳、いつから持っていたっけ?
買った記憶がない。名前も書いてない。表紙は黒。
だけど、いつも僕の鞄の中にある。
開けば、何かが書かれている。書いたはずのないものが。
今朝も、朝食の記憶があった。
でも、母はそれを覚えていなかった。
僕は声を出した。歩いた。座った。
けど、そのどれもが、“今”の誰にも届いていなかった。
僕は、今に属していない。
“今”は、誰かに奪われた。
それがいつからなのかも、もう覚えていない。
でもひとつだけ、確信している。
僕がこのまま“今”にいなければ、誰も僕を“思い出すことすらできなくなる”。
それは、「いなくなる」ということじゃない。
「いたことが、なかったことになる」ということだ。
昼休みが終わる頃、僕は屋上にいた。
誰にも気づかれずに上がれた。もちろん鍵は閉まっていたはずだけど、なぜか開いていた。
それが「未来」だったのか「過去」だったのかは、わからない。
風が吹いている。冷たい。
でも、肌に触れるその感覚が「今のものか」はやっぱりわからなかった。
僕はポケットの中で、あの黒い日記を握りしめる。
まるで、それが僕の“今”を繋ぎ止める唯一の鎖であるかのように。
ページをめくる。白紙。白紙。
――そして、あるページにだけ、文字があった。
鉛筆のような、けれど異様に細い線で書かれている。
「今日の一秒は、黒く塗りつぶされた」
「それは祈りか、それとも呪いか」
「0時0分。秒針が止まったとき、世界は“今”を失う」
「誰も知らない。その一秒が、何度目の“今日”かを」
読み終えた瞬間、頭の中に“音”が走った。
「ゴト、ゴト」と重たい秒針が動くような音。
どこか遠くで、何かがずれたような――そんな音。
気づくと、ノートの文字は消えていた。
黒く塗られていたようなインクの染みだけが、じわりと広がっている。
それは、まるで誰かが「一秒」という時間に墨を垂らしたようだった。
思い出す。
時計塔のことだ。
この街には、もう誰も使っていない古い時計塔がある。
街の中央公園の奥、今は誰も近づかない廃墟。
子どもの頃、「13回鳴ると死ぬ」と噂された鐘の音。
なぜか、今――その場所が頭から離れなかった。
もしかしたら、僕の“今”が欠けたのは、あの場所から始まったのかもしれない。
僕は屋上を降りた。
教室に戻っても、誰も僕を見なかった。
椅子も机もなかった。
僕は存在していない。
この日、この時間の、この場所に、僕はいない。
でも、日記は残っている。
その中に書かれた、意味のわからない言葉も。
廊下を歩いていると、ふと、誰かとすれ違った。
髪の長い、制服の女の子。
彼女は一瞬、こちらに視線を向けた。
目が合った。
……合った、ような気がした。
彼女は立ち止まり、僕を振り返った。
「いま、そこにいたよね」と、小さく呟いた。
驚いて声をかけようとした瞬間――
チャイムが鳴った。耳を塞ぎたくなるような、甲高い音だった。
気づくと、彼女の姿はなかった。
そこには誰もいなかった。
でも、彼女の足跡だけが、床に薄く残っていた。
僕は確かに見た。
彼女は僕の“今”を認識した。
なぜ――彼女だけが?
なぜ、彼女は“今”にいた僕を、見ることができたんだ?
僕は、少女を探していた。
あのとき、一瞬だけ目が合った。
僕の“今”を、彼女は見てくれた。
僕の声が誰にも届かなくても、姿が誰にも映らなくても。
あのとき、彼女だけは確かに、僕の“現在”に目を向けてくれた。
それが幻覚でも、錯覚でもいい。
僕にとって、それは唯一の確かさだった。
僕は彼女を探した。校内のどこを見てもいなかった。
生徒名簿にも、出席簿にも、彼女の名前はなかった。
教室にも、廊下にも、屋上にも、彼女はいない。
“今”のどこにも、彼女はいなかった。
もしかして、彼女は“未来”にいるのだろうか。
それとも、“過去”にいるのだろうか。
そして――僕は、今どこにいるのだろう。
僕の足元には、いまという地面があるだろうか。
僕は存在しているのか、それとも、まだ“存在する予定”なのか。
僕は放課後、もう一度、屋上へ向かった。
あのとき彼女とすれ違った、あの場所。
夕焼けが街を照らしていた。
でも、その夕日が“今”なのかはわからない。
僕の目に映った光は、たぶん、数秒前の記憶だ。
そこに、何かが落ちていた。
黒いリボン。制服の胸元につけるタイプの、細くて古びたリボン。
誰かのものだ。
拾い上げると、そこに紙切れが挟まっていた。
薄いメモ用紙。線も罫もない白紙に、たった一行。
「時計の中に、いまが落ちている。」
夕日の光は、いつまでも僕の手の中に残るリボンを照らした。
その一瞬だけが、確かに“いま”だった。
そして、言葉の意味を探すために、僕は時計塔へ向かうことを決めた。
「時計の中に、いまが落ちている」――
それは、失われた時間の欠片が眠る場所への招待状だった。
僕はその言葉に導かれるように、足を動かしていた。
街の中央、古びた時計塔。
今は誰も近づかない、朽ちた石造りの建物。
昔、誰かが言っていた。
「13回鳴ったら死ぬ」って。
でも誰も、13回目の鐘を聞いた人のことは知らない。
僕は知っている。
僕の中で、秒針の音が消えたのは――あの日、13回目の鐘を聞いた朝だった。
時計塔の扉は、鍵がかかっていなかった。
中はほこりと静けさに満ちていた。
壁に、びっしりと何かが刻まれていた。
傷のような線。
回転するような図形。
歪んだ円形の中に、小さな点がひとつ――秒針の先のように。
その円の中心に、誰かが書いた文字があった。
「いまを喰った者は、時の穴にいる」
その瞬間、視界が崩れた。
音が消えた。
風の音も、自分の鼓動も。
世界のすべてが一瞬、「いまを失った」。
僕は、立っていたはずの床を見た。
足元が、ずれている。
いや、“時間そのものが”ずれている。
僕は、時計の中心へ引きずり込まれていた。
秒針の音が、聞こえない。
でも、重たい“何か”が、今も回っているのがわかる。
そこには、もう一つの“今”があった。
歯車の裏側に落ちた、誰にも知られていない一秒。
少女が立っていたのは、きっとそこだ。
僕は叫んだ。
「君は“今”にいるの? それとも――もうどこにもいないの?」
返事はなかった。
けれど、暗闇の奥から、誰かの足音がした。
ゆっくりと、ゆっくりと、秒針のようなリズムで。
「久しぶりだね。いや、初めまして?どっちでもいいか。
私たちはいずれ出会うのだから。」
少女は、僕に近づいてきた。
いや、正確には違う。
僕の行くはずだった“場所”へと近づいてきているのだ。
薄暗い時計塔の影の中で、彼女の瞳が揺れている。
まるで、時間の流れが乱れた水面のように。
僕は言葉を返そうとした。
けれど、そのとき、彼女が問いかけた。
「あなたにとって、今はいつ?過去?未来?それとも――?」
その声は、全部聞こえた。
けれど、ひとつだけ――その最後の言葉だけが、まるで消えたかのように、僕の耳に届かなかった。
何度聞き返しても、そこだけが消える。
僕は怖くなった。
声が欠落するなんて、そんなことがあるだろうか?
少女はじっと僕を見つめていた。
そして、微笑んだ。
「時は連続しているようで、不連続なの。
私たちの“いま”は、いつもどこか欠けている。
でも、欠けているからこそ、私たちはここにいる。」
彼女の言葉は、まるで遠い過去から囁かれているようで、けれどすぐに消えてしまいそうだった。
僕は目を見開いて言った。
「君は、いったい何者なんだ?」
少女は少しだけ顔をしかめて、答えた。
「私は“あの子”じゃない。
私は、時の狭間で彷徨う者。
“いま”を失くした者たちの声なき声。
でもね、あなたはまだ、そこにいる。
ほんの少しだけ、“今”を持っている。」
僕は戸惑いながらも、聞いた。
「どうして、僕だけが……?」
少女はゆっくりと笑った。
「それは、これからわかるわ。
あなたの“いま”は、消えかけている。
でも、まだ壊れてはいない。
壊れたら、もう誰もあなたを見つけられなくなる。」
そのとき、時計塔の奥から、不気味な金属音が響いた。
秒針の刻むリズムとは違う、不規則な音。
僕たちは振り返った。
そこには、壊れた時計の歯車が一つ、ゆっくりと回っていた。
「それが……“あのもの”の足音。」
少女はそう囁いた。
「……あのもの?」
少女は薄く微笑んだ。
「私が話しているのは未来のあなた? それとも過去かしら。もうどうでもいいわ。」
僕は言葉を選びながら訊ねた。
「僕は、どうすればいいんだ?」
少女の瞳は遠くを見つめるように揺れた。
「それはね、あれは、この世ならざるもの。時を喰らい、過去と未来に生きている。
そして、“今”はそこには無いわ。」
僕は息を呑んだ。
「君には、もう“今”がないのか?」
少女は頷いた。
「そう。あなたはもう囚われてしまった。あのものの牢獄に。
逃れる術は、ないわ。」
言葉が胸に刺さった。
「逃げられないって、どういうことだ?」
彼女の声がわずかに震えた。
「“今”を失うことは、“ここ”から存在を奪われること。
あなたはもう、世界のどこにもいないのよ。」
会話がかみ合わない。いや、彼女は未来を語り、僕は過去を見ているのだ。
僕は言葉を詰まらせた。
「じゃあ、僕はもう…」
「いいえ。」
少女は顔を近づけて囁いた。
「あなたはまだ“今”のかけらを持っている。
だから、わずかに息をしている。
でも、その息が消えたら、あなたは忘れられる。」
重く、不気味な沈黙が二人を包む。
時計塔の奥から、不規則な金属音が響いた。
秒針の刻む音とは異なる、ずれたリズム。
「それが、あのものの声よ。」少女は囁いた。
「時を喰らうものの声。」
僕は身震いした。
「僕は、どうすればいいんだ?」
少女は視線を落としたまま、静かに言った。
「それは、あなたが選ぶこと。
でも忘れないで。『今』は、いつも儚くて、消えやすい。」
僕は呟いた。
「僕の…今。」
少女はふっと微笑み、続けた。
「あなたは“あわい”にいる。
過去と未来の間で、けれど“今”ではない、そのあわいに。」
「あなたは私と違う。まだ選ぶことができる。」
少女は静かに告げた。
「君は、僕とは違うのか?」
僕はすでに答えを聞いている。
「私はもう戻れない。すでに、‘今’は存在していないの。」
彼女の声は少し震えていた。
「君は、戻れないのか?」
僕が重ねる。
彼女の言葉が、僕の言葉にかぶさってくるようだった。
僕は息を吸い込んだ。
この“あわい”は、過去でも未来でもない。
確かに“いま”のはずなのに、どこか欠けている。
視界は歪み、色彩は溶けるように滲んでいた。
空気は冷たく重いけれど、肌に触れる感覚は霞のように薄い。
足元の地面は揺れ動き、確かなはずの感触が次の瞬間には消えている。
僕の声は、空間に吸い込まれていく。
返事も、届かない。
僕はここにいるのか、いないのか。
少女は僕の隣で微笑んでいた。
「この世界は、存在の境界線。
触れられるものと、触れられないものが混ざり合う場所。
だから、君の“いま”も、まだ薄く残っているのよ。」
遠くで金属音が鳴った。
まるで時間の歯車が狂い始めたような、不安定な響き。
「“あのもの”はこの狭間に生き、欠けた‘いま’を狩る。
逃げ場はないけれど、抗うことはできる。」
僕は立ち上がった。
儚く揺れる世界の中で、僕は今を掴もうと手を伸ばした。
僕の指先が、空を切った。
“今”を掴もうとしたはずなのに、そこには何もなかった。
けれど、それでも――たしかに何かが触れた気がした。
少女の声が、空間をすり抜けるように届いた。
「それが“選ぶ”ってこと。
触れられないと思っても、手を伸ばしたあなたは、まだここにいる。」
視界の端に、歪んだ“時計”の影が見えた。
それは塔の奥ではなく、空間そのものの裂け目のように、浮かび上がっていた。
針が動くたび、世界が軋む。
秒針は進んでは戻り、止まりかけてはまた歪んだ音を鳴らす。
僕は訊ねた。
「僕は、何をすれば“今”を守れる?」
少女は首を横に振った。
「“守る”ものじゃない。“今”は、掴むもの。
自分で、自分の足場を選ぶの。」
そして、少女は僕の目をまっすぐ見た。
その瞳の奥に、いくつもの“消えた今”が揺れていた。
「選んで。次の一秒が、君をどこへ連れていくのかを。」
跳んだ、と思った瞬間、世界は静まり返っていた。
音がない。空気の振動も、影の揺れもない。
すべてが凍りついたような、時間が呼吸を止めた場所。
僕は、学校にいた。
けれど、それは“もう存在しない学校”だった。
教室の机も椅子も、割れたガラスのように床に散っている。
黒板には何も書かれていない。ただ、**「0:00」**という文字だけが刻まれていた。
外に出ると、街は静かだった。
誰もいない。
歩道にも、家の中にも、人の気配はなかった。
でもそれ以上に恐ろしかったのは――
何も思い出せなかったことだ。
人の名前が出てこない。
母の顔が浮かばない。
昨日話した誰かの声も、色も、記憶の中から抜け落ちていた。
いや――
そもそも、「話した記憶」が存在していなかった。
この世界では、僕という人間の“過去”も、“つながり”も、どこにもなかった。
僕は、「誰にも存在していなかったことになった」未来にいた。
そのとき、耳の奥で声がした。
「思い出せないなら、君はもう“いたこと”がない。」
僕は叫ぼうとした。
でも声が出なかった。
喉が塞がっていたわけじゃない。
“声を出した記憶”が、最初からなかったのだ。
そして気づいた。
ここは、「選ばなかった未来」だ。
“今”を掴もうとしなかった者が、辿り着く先。
このままじゃ、僕も――。
視界が反転する。
まるで目を閉じる前の光景が、瞼の裏で逆流するように。
気づくと、僕は学校の昇降口に立っていた。
雨が降っていた。小雨。
靴箱の前で誰かとすれ違った記憶――あった、はずだ。
あのとき、僕はまだ“誰かに話しかけられていた”。
靴を履いて、傘を開いて、坂道を下っていく。
制服の肩に、雨粒の冷たさがしみ込む。
この痛覚――これは、“今”だ。
ちゃんと、“今”を感じている。
それは奇妙な感覚だった。
五感すべてが“存在”を訴えてくる。
靴の音、傘の内側の湿気、車の水しぶき。
どれも、鮮やかだった。
でもその中に、わずかに“ノイズ”がある。
通りすがる人の視線が、少しだけぼやけていた。
誰かが僕を見ているはずなのに、すぐに逸らされる。
――これは、すでに“今”が剥がれ始めていた頃だ。
電柱の影、信号の向こう、
誰かが、僕をじっと見ていた。
……あの少女だ。
彼女は傘も差さず、濡れながらこちらを見ていた。
けれど僕の記憶の中には、そんな場面はなかったはずだ。
彼女の口が動く。
「ここから、始まったの。」
僕が振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、歩道に落ちたリボンが濡れていた。
“あのとき失った一秒”。
もしかしたら、それはこの日、この夕方だったのかもしれない。
落下する。
光も音も、思考さえも剥がれ落ちるように。
“跳躍”ではない。これは――墜ちている。
地面はない。
時間もない。
ただ、すべての“今”を失った空間。
そしてそこに、“それ”はいた。
巨大な歯車がゆっくりと回っている。
けれど、中心にあるべき秒針は、存在しない。
代わりに、そこに生えていた。
人の形をした、歪んだ影。
それは明らかに“人間ではなかった”。
骨のような金属、時間の埃をまとった皮膚。
呼吸もせず、けれど確かに「そこに在る」。
“あのもの”。
時を喰らい、今を奪うもの。
目が合った――ような錯覚。
「……」
声はない。
けれど“それ”の中に、無数の囁きが渦巻いていた。
「いま」「いま」「いま」「……いたのに」「消えた」「思い出せない」「時計が」「なぜ……」
僕は動けなかった。
この場所では、「自分の意志」さえ時間に飲まれていた。
少女の声がどこかから届く。
「逃げて。そこは、還れない場所。選ばなかった者たちが、ただ“時間の餌”になる場所。」
“それ”が手を伸ばす。
形の定まらない指先が、僕の“輪郭”をなぞる。
その瞬間、心臓が止まりかけた。
“いま”が――また、ひとつ、抜け落ちる感覚。
「やめろ……!」
かすれた声が出た。
この世界で、初めて“僕自身の意志”が音になった。
すると、“それ”は止まった。
動きが、止まった。
一瞬だけ、時が止まった。
僕は、走った。
歪んだ世界の中で、どこが上かもわからないまま。
“あのもの”の気配が、背中に張り付いている。
音はない。
だが、それが一歩近づくたびに、
僕の「今」がひとつずつ剥がれ落ちていく。
一歩、
記憶が一つ、消える。
もう一歩、
足の感覚が薄れる。
「やだ、やだ、やだ……!」
声にならない叫びが、口からこぼれる。
けれど誰もいない。
この空間には、僕と、“それ”しかいない。
少女の声も届かない。
手も、もう見えない。
僕は、自分の形を保てなくなっていた。
「ああ、僕は、“いま”を失っていく――」
走っているはずなのに、地面は動かない。
逃げているはずなのに、距離が縮んでいく。
“それ”が僕の首筋に指をかけた瞬間、
僕は確かに感じた。
「今」を喰われる感触。
それは痛みではなかった。
それは悲しみでもなかった。
ただ、“存在が消える”というだけだった。
そのとき――
白い光が、落ちた。
まるで、割れた秒針の欠片のような鋭い輝きが、闇を裂いた。
その中から、
少女の声が聞こえた。
「――あなたは、まだ終わっていない。」
僕の体が、引き戻される。
光に飲まれる。
“いま”の破片が、再び集まり始める――
少女の声は、光の中で砕けた。
届く寸前だったはずの手が、霧のように溶けていく。
僕は、“今”を失った。
完全に。
誰かと話した記憶は、ある。
けれど、話していた“今”はどこにもない。
足音も、体温も、視線も、風も、
五感すべてが、“過去”の亡霊となって記録されているだけ。
僕の言葉は、もう誰にも届かない。
僕の存在は、今という一点に属していない。
時間の河の、“外側”に取り残された存在。
それが、僕。
気づくと、僕は空のどこにもいなかった。
地にもいなかった。
「位置」という概念すら、僕にはなくなっていた。
でも、記録はある。
“僕だった何か”は、時間を横から見ていた。
誰かの過去、誰かの未来――
すべてが、等しく“外側”から眺められた。
でも、「いま」に触れることは、できない。
“今”は、僕の中にはない。
それは他人のもの。僕には、もう関係のないもの。
ときどき――
誰かが、時計塔の影を歩く。
誰かが、一秒のずれに気づく。
そのとき、僕は微かに“見える”。
それは錯覚。幻覚。あるいは既視感。
でも確かにそこに、“僕の残像”が残っている。
それを見つけた者が、もしも“今”を失えば――
次はその者が、僕の隣に立つだろう。
僕には、“今”がない。
でも、僕はそれでも、“誰かの今”の影として、そこにいる。
そして、今日もまた、どこかで秒針が、狂う。
僕には、もう“今”がない。
だけど、僕は確かにここにいた。
過去に、未来に、
誰かの記憶の底に、
時間の歯車の隙間に。
僕の声は届かない。
僕の姿は映らない。
けれど、秒針が一瞬だけ跳ねたとき、誰かの胸に微かな違和が走る。
それはきっと、“僕”という存在が残した、名もなき波紋。
「君は、現在にいない」
「1秒の外にいる」
「君はまだ、1秒も生きていない」
そう、あの日の日記に書かれていた言葉が、
今では僕そのものになった。
世界は、今日も時間を刻む。
誰も気づかないまま、“今”を失っていく。
けれど誰かが、
ほんの一瞬でも“今”の輪郭を失ったとき、
その隙間から、僕が見ている。
名もなく、声もなく、
それでも確かに、どこかで見ている。
そして――
秒針が止まったその瞬間、
新たな“あわい”が生まれる。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、
「今」という一瞬の繊細さと、
そこからこぼれ落ちる“存在のかけら”についての考察から生まれました。
僕たちは、過去と未来の間で揺れながら、
常に「今」を生きていると信じています。
でも、その「今」は実は儚くて、不確かで。
もしもその一瞬を失ったら、
僕たちはどこにいるのでしょうか。
主人公は、まさにその問いの中に立ち続けました。
見えない時間の隙間に囚われ、けれど完全には消えきれずに。
彼の旅は終わりましたが、
もしかしたら誰かの“今”の裏側で、まだ静かに揺れているかもしれません。
この物語が、あなたの「今」という瞬間を、
ほんの少しだけ大切に思うきっかけになれば幸いです。