第1話 それは一本の木剣から始まった
冬の朝。吐く息が真っ白に浮かんでは、すぐに消えていく。
アシサノ=エリュシオンは、王立学園の訓練場で一人、木剣を握っていた。指先はもう感覚がなくなっていたけど、それでも彼女は構えを解かなかった。
足元の土は硬く、空気はキンと冷えていて、まるで世界全体が凍ってしまったようだ。
でも、彼女の心は燃えていた。
――剣聖になる。
それが、アシサノのずっと昔からの夢だった。
貴族の令嬢として生まれて、周囲はみんな、彼女にドレスを着ておしとやかに笑うことを望んでいた。舞踏や刺繍、礼儀作法ばかりを押しつけてきて、「女の子らしく」なんて言葉を何度も浴びせてきた。
けどアシサノは、それらを全部、剣の後ろに置いてきた。
ドレスより剣。舞踏会より訓練場。刺繍の針より木剣の感触のほうが、ずっと自分らしく思えた。
そんな彼女を陰で“野蛮女”って呼ぶ声もあったけど――気にしてなんかいなかった。
「もう一本お願いします!」
アシサノは木剣を構えながら、訓練士の男性に向かって声を張る。
相手の訓練士――リーヴ教官は、苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「三時間目だぞ、お嬢さん。そろそろ休んだらどうだ?」
「平気です!」
強く答えると、息を吸って一歩踏み込む。アシサノの剣はまっすぐだった。迷いも、ためらいもない。剣筋は凍った空気を切り裂き、乾いた音を響かせる。
そのたびに、見学していた下級生たちの目が見開かれ、ざわめきが生まれる。
「すご……あれがエリュシオン家の娘?」
「いや、“あれ”っていうより、あの剣筋……もうプロじゃん……」
だけど、そんな声もアシサノの耳には入ってこなかった。ただ、剣だけを見つめていた。
……そのときだった。
リーヴ教官の足元がわずかにもつれた。
「あっ、危なっ……!」
バランスを崩して、彼の体が倒れ込む。肩から土の上に落ちると、鈍く、嫌な音が響いた。
「教官!? だ、大丈夫ですか!?」
アシサノは慌てて駆け寄った。リーヴ教官の右腕が、変な角度に曲がっている。
「骨……折れてる……!」
血の気が引いた。どうしよう。どうすればいい? 誰か、助けを呼ばなきゃ。
でも、そのときだった。
(治さなきゃ――)
それだけが、頭に浮かんだ。
反射的に、彼の腕の上に手をかざしていた。
「っ……!」
次の瞬間。アシサノの手のひらから、淡い光があふれ出した。
まばゆい金色の光。あたたかくて、優しくて、でもどこか現実味のない、不思議な輝きがリーヴ教官の腕を包む。
見ている間に、傷口がふさがっていく。骨の音が、小さく、確かに鳴った。
周囲が凍りついたのは、そのときだった。
「……今の、治癒魔法か?」
「しかも、詠唱なし? ウソでしょ……」
見学していた生徒たちがざわつき出す。誰かが息をのんだ音が聞こえた。リーヴ教官も驚いたように腕を動かして、何度も見つめている。
「うそ……なんで……?」
アシサノ自身も混乱していた。
治癒魔法? 自分が? そんなはずない。今まで一度も、魔法なんて使えたことなかったのに。
だってアシサノは、治癒魔法なんて勉強したこともない。ただ、「治したい」と願っただけだった。
「ちょっと、そこの君!」
別の教官が慌てて駆け寄ってきて、彼女の腕を取る。
「今の魔法、どうやって使った? 詠唱は? 属性は? まさか精霊契約をしているのか?」
「……え? わ、わかりません……ただ、助けたいって思っただけで……」
その答えに、教官たちはさらに顔を青くした。
「まさか、自然発動型……!? しかも、無属性での治癒……だと……」
(なにそれ……全然わかんない……)
アシサノは唇を噛んだ。視線が一斉に自分に注がれている。さっきまで尊敬と興奮を帯びていた目が、今はどこか、異物を見るような色を帯びていた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(どうしよう……)
嫌な予感がした。
このままじゃいけない。何かが、すごくまずいことになる。そんな直感だけが、確かにあった。
でも――もう遅かった。
翌日。アシサノ=エリュシオンの教室は異様な空気に包まれていた。
「“聖女”だってさ」
「ウソでしょ、あの野蛮女が? あいつ、剣しか能がなかったくせに……」
「いや、やばいって。あれ、ほんとに“無詠唱”だったらしいよ。王都の教官もびびってた」
「王子様が興味持ってるって噂、聞いた?」
「えー、まじ? でもさ、それって逆に面倒なことにならない?」
“面倒なこと”――その予感は、的中することになる。
この日を境に、アシサノの人生は一気に転がり始めた。
剣を握っていたはずの彼女の手に、いつの間にか貼りついていた“聖女”というレッテル。
それが、彼女を新たな運命へと引きずり込んでいく。
アシサノ自身が、その「力の意味」に気づくよりも前に――。