王宮の奧で二人の妃は今日も逢瀬を重ねている
アンディア=リルロール公爵令嬢は結婚に愛なんて求めていなかった。
金髪碧眼の整っていながらも生まれながらに他者に威圧感を与える物語の悪役令嬢のような外見、そしてリルロール公爵家という高すぎる身分から利益を求める以外で彼女に近づく人間はいなかった。
彼女自身、他者との関係を損得以外で考えていなかったのでそのことに対して何も感じていなかったが。
三大派閥の一角、その長であるリルロール公爵家の令嬢として相応しい生き方を。物心ついた時にはそんな風に考えていたために。
だから礼儀作法や知識など公爵家の令嬢としての評価に繋がるものは何だって極めた。そのために自由に過ごす時間は失われたがそれが当たり前だと思っていたから。
だから人間関係は損得だけを考えて構築した。公爵家にとって利がある人間以外と付き合う必要性があるとは考えもしなかったから。
だから二十歳という若さで王になった男の三番目の妃に選ばれたことも当然のものとして受け入れていた。貴族社会の勢力図を考えれば自分が選ばれたのは何も不思議なことではなかったから。
アンディアにとってろくな顔も合わせていない相手との結婚にも忌避感情はなく、もちろん喜ぶようなこともなかった。
義務を果たす。
それ以上も以下もない人生に疑問が浮かぶことさえなかった。
彼女にとって生きるとはそういうものだったから。それ以外に何か必要なものがあるだなんて考えたこともなかったから。
そう、少なくとも。
今この瞬間までは。
「アンディアさまっ。私はメリー! 一応二番目の妃ってヤツだよ。これから仲良くやっていこうねっ!!」
王城でアンディアはかつてメリー=ホワイトリリー侯爵令嬢であり、今は二番目の妃である女に出会った。
薄く赤みがかった髪に活発そうな笑顔、身動きが取りやすいドレス姿の彼女がいくら同じ妃でも、王の威信を高めるために三大派閥の一角たるグラフィオール公爵家派閥が献上したホワイトリリー侯爵令嬢であろうとも、今のような無遠慮な言葉遣いを向けられればアンディアは嫌悪感を出すべきだ。
アンディア自身がどう感じるというよりは、貴族の常識に則ってそう振る舞うのが当たり前だった。
これまでそう生きてきた。
これからもアンディアはそのことに何の疑問も抱くことなく型にハマった反応を出力する。
──はずだったのだが、なぜか唇は言葉の発し方を忘れたように小刻みに震えるだけだった。
(……ですか……)
アンディアの周囲に侍る三番目の妃つきとして王から与えられたメイドたちはあまりの怒りに言葉も出ないのだと解釈した。二番目の妃つきのメイドたちに至っては主のあまりの破天荒さに顔を青くしていた。
リルロール公爵家のご令嬢が怒りに震えている。
その怒りが二番目の妃・メリーだけではなく自分たちにまで飛び火して破滅するのではと。
だから。
しかし。
能天気に笑っているメリーを除いて誰もが恐れ慄いている中、アンディアの脳内を支配していた感情は怒りとかそんなものではなかった。
(何なのですか、この愛らしいお方は!?)
生まれ落ちてから十六年で初めてのことだった。
自身に関することだろうが何だろうが感情を排して貴族の常識に則って淡々と処理してきた彼女の人生で初めて、損得とか貴族の義務とか求められた行動をただ出力するとかなんかもうそんなもの全部吹っ飛んでいた。
物語のヒロインのように可憐なメリーに見惚れていた。
初恋なのだと、当のアンディアは自分の気持ちさえ理解できていなかったが。
ーーー☆ーーー
メリーという少女はアンディアの常識なんてことごとく無視していた。
これが平民の少女とかそういう話であればまだ納得できた。貴族社会の常識を知らないから、それこそ別世界の住人とでも呼ぶべき相手であればやることなすことズレていても当然だっただろう。
もしもそうであれば、時間が経てばそのうち染まる。生物は周囲の環境に適合するものなのだから、放っておいても勝手に学んで勝手に変化して勝手に凡庸な『妃らしい女』になっていただろう。
だけどメリーは違う。
ホワイトリリー侯爵家の令嬢として育ってきたのであれば貴族社会の常識はわかっているはずだ。少なくとも礼儀作法が身についていないわけではないのはふとした所作からも見て取れる。
それでも、だ。
できるはずなのに、メリーは無遠慮に馴れ馴れしく声をかけてくる。令嬢としての最適解を無視して、メリーという一人の女らしくとでも言わんばかりに。
ある日、なぜそのような話し方をするのかとアンディアは問いかけた。……そう問いかけるだけでも唇が震えて心臓がドキドキしてまあとにかく見惚れてしまって一苦労だったが、何はともあれ問いかけることはできた。
「なぜ、ねえ。だって疲れるじゃん? そりゃあ対外的な場所でならばお行儀よくするけどさあ、私は妃に選ばれたのよ。その結果、もう王城内は私の家になったわけ。だったら家の中でも気を張って生きるとか絶対に嫌だよ。貴族は舐められたらそれまでだからいつでもお行儀よくないといけないってのはわかっているけど、たった一度の人生楽しく幸せにやっていきたいから堅苦しいのは最低限にしないとね」
アンディアには理解できない思想だった。
というか楽しくやっていくというのがそもそも考えたこともなかった。
アンディアにとって人生とは三大派閥の一角、リルロール公爵家派閥のために尽くすことだった。
そういう風に生きてきた。
リルロール公爵家の中ではそういう生き方しか教えられてこなかった。
「それにアンディアさまとは変に仮面を被らず仲良くやっていきたいんだよね」
ゆえに理解不能。
どこまでも未知の考えだった。
妃とはすなわち三大派閥それぞれから選ばれた象徴だ。王が一つの派閥を贔屓すれば残り二つの派閥が王を引き摺り下ろす。そういう暗黙の了解があるからこそバランスをとるために歴代の王の妃は必ず三人であり、そこに優劣はつけられていない。それはどの妃の子供が次代の王になろうとも三人の妃を介して三大派閥の意思が反映されるようパワーバランスが出来上がっているほどなのだから。
とはいえ、もちろん現状を三大派閥の長たちはよく思ってはいない。隙があればいつでも他の派閥を蹴落とすつもりでいるのは常識だ。
その意思を反映するべき妃同士もまた対立関係にあるべきだ。それが当たり前で、常識で、リルロール公爵家の令嬢としての義務でさえあるべきだ。
それが、仲良くなりたい?
そんな風に考えることが許されていいのか?
「あ、私の話し方が馴れ馴れしくて嫌だっていうならやめるけどねっ。嫌がることはしたくないし! でもでもっ、アンディアさまが何と言おうとも仲良くなることだけは諦めないよ。だって私アンディアさまが大好きだからね!!」
どこまでも笑顔だった。
そこに嘘はなかった。
社交界では嘘を見抜く力は必須だ。リルロール公爵令嬢であるアンディアにとっては作法として極めているほどに。
そんな彼女でも見抜けないほどに演技が上手いのか、それとも嘘も何もなく本当に本気で仲良くなりたいつもりなのか。
「……、勝手にすればよろしいですわよ」
「っ!? うん、勝手にさせてもらうね!!」
だけど、それ以前に。
『好き』という言葉が脳内で暴れ回って頭が茹で上がったアンディアは冷静に思考とかできていなかったが。
ーーー☆ーーー
妃は三人存在する。
つまりアンディアとメリー以外にも王城には一番目の妃が暮らしているのだ。
「うふふ。同じ妃として仲良くしていきたいでございますわね」
それは三人の妃が集まってのお茶会であった。
そこで一番目の妃、生クリームやケーキのようにふわふわとした純白のドレスにゆるふわな白い髪、全身から甘さが滲み出ているようににこやかなフレイヤ=バルシフォン公爵令嬢だった女はそう告げた。
……本音ではない。大抵の人間はその笑顔で騙せただろうが、アンディアはその奥のドロドロとした敵意を読み取っていた。
いいや、ここまでくれば敵意というよりは殺意というべきか。
三大派閥の一角、バルシフォン公爵家派閥の象徴。砂糖菓子を極限まで煮詰めたような肺腑を抉る甘い匂いを振り撒く国内外で有名な絶世の美女。
誰よりも早く妃に選ばれたことに目立った異論が出なかったほどの傑物であるが、その本質はどれだけ白く甘く塗り固めたところで隠しきれていない。
アンディアと同じく必要なら『何でもできる』悪女である。
(バルシフォン公爵家の中でもこの女は関わりを持つことで幸せになるとまで噂されているとか。周囲の人間が不自然なまでに好印象『しか』抱かないようになっているのでしょう。もちろんそこには『何か』悪質な手が加えられているからこそ。ええ、貴族社会においてただただ都合よく幸福だけをもたらす存在などあり得ないのですから)
嘘をついて、演技をして、相手から利益を毟り取ろうと立ち回るのが貴族だ。誰かに利をもたらす動きがあったとしても、それは巡り巡って何かしらの利となって施した側にもたらされるように計算されている。
孤児院の拡充など最小の投資で今の統治者は恵まれない者の味方なのだと思わせる。そうして民の人気を稼いで反抗されないよう懐柔しておくことで多少理不尽な命令でも今の統治者の決定ならと通しやすくする土壌を整えておく、などだ。
それが常識で、当たり前で、貴族として生まれた者の義務なのだ。
だからフレイヤを非難するつもりはない。
その裏にどんな悪意が隠れていようが、敵意どころか殺意まで向けられていても、それで破滅したならば弱いアンディアが悪かっただけだ。もちろん逆に返り討ちにしてしまっても恨まれる筋合いはないにしても。
だから笑顔で交流することに迷いはなかった。
隙を見せれば潰す。それがこれまでアンディアが生きてきた世界の常識であり、いっそのこと馴染んでいるくらいだ。
ただ一つ問題があるとすれば、
「うん、もちろん! 仲良くやっていこうねっ!!」
なんかもうサラッとフレイヤの笑顔と甘い言葉にメリーが騙されていた。
いくら何でもちょろいにも程があります!! とアンディアは思わず叫んでしまいそうだった。
ーーー☆ーーー
(約一名能天気だったが)笑顔で腹の底を探り合う令嬢の嗜みに満ちたお茶会が終わってすぐのことだ。
フレイヤと別れてからメリーはアンディアにこんなことを問いかけていた。
「あれ? なんか機嫌悪い感じ???」
「……、ふん」
アンディアといえば自分の感情が制御できずにそっぽを向いていた。
そう、自分の感情を制御もできずに。
妃に選ばれてメリーに出会う前までの理想的な令嬢だった頃のアンディアであればありえないことだった。求められた行動を出力するだけのあの時代の彼女であれば例え心臓を槍で貫かれても最後まで最適解の行動を続けていただろう。
感情に振り回される。
あの裏がありまくりなフレイヤと仲良くなれたとニコニコしているメリーを見て嫉妬に不貞腐れるだなんて、本当にここに来る前ではありえないことだった。
「アンディアさま、私なにかしちゃった?」
「メリーは何も悪くありませんわ。ただ、その、随分とあの女を気に入ったようで何よりですわ!!」
「……あー、うん」
「何ですか、その反応は!?」
「いやあ、私って結構好かれていたんだなあーって嬉しくてね」
「は、はぁっ!?」
「アンディアさまはあんまり自分の気持ちを口にしてくれないからさ。よかったよかった。嫉妬してくれるくらいには好かれているようで何よりだよ!!」
「な、なんっ、うっく……っっっ!!!」
その満面の笑みに。
どこぞの甘ったるい嘘の塊の令嬢と違って演技も何もない、純粋な笑みを前にしたら照れ隠しなんて口にできなかった。
好かれている?
そんなの出会った頃から骨抜きであり、それはメリーとの何気ない日々を重ねるごとに上限をぶち抜く勢いで跳ね上がっているのだから当たり前だ。
もちろんそんな本音は照れ臭いから口には出さないが。
ーーー☆ーーー
そんな彼女たちをフレイヤは見ていた。
だからこそ口の端をにこやかに歪めてこう呟いていた。
「そのまま一定以上まで成熟して他所に目を向ける心配がなくなればよろしいのでございますけれど。妾が幸せにしてあげる必要がないことを祈っていますよ」
ーーー☆ーーー
「アンディアさま、大好きだよっ!!」
「んっふう。い、いきなり何を言っているのですか」
そんな風に出会い頭に好きだと言われて胸の内が荒れ狂うのを外に出さないのに苦労した。
「綺麗な星空だねー。だけど、ふっふん。アンディアさまのほうが綺麗だぜってね。ちょっと格好つけすぎたかな、あっはっはっ!!」
「……、俗な恋愛小説の読みすぎですわよ」
「かねー。だけど別に嘘は言ってないよ。大好きなアンディアさまよりも綺麗なものなんてこの世にないわけだし」
「っ!?」
二人並んで夜空を眺めていたらいきなりそんなことを言われた。夜の闇に覆い隠されていなければ真っ赤になった顔に気づかれるところだった。
「アンディアさまっ。妃としての仕事も終わって時間もあるし、今日は何をしようかっ!」
「今日は国王陛下との約束がありますので」
「あー。政略結婚だからと妃とは義務的な付き合いだけで普通に愛人囲っていたっぽい歴代の王様と違って今のあのお方はその辺きっちりしてるもんね。政略結婚だろうが仲良くやっていこうって順序を大事にして未だに妃の誰も抱いてないくらいだし。……別に放っておいてくれていいのに」
「メリー? 最後のほうがよく聞こえなかったのですけれど」
「べっつにー! 楽しくやってくればいいじゃんってだけですよー!!」
なぜか珍しく拗ねている(?)メリーさえも愛らしく感じるのだから、本当にアンディアは自分で自分がわからなくなっていた。
そんな日々があったから。
何気ない、だけど確かに輝く大切な日々がアンディアの心に積み上がっていった。
おそらくはこれが幸せというものなのだろう。
その幸せに優しく頭を焼かれてしまっていたのだろう。
こんな日々が続けばいいと、現実から目を逸らすくらいには。
ーーー☆ーーー
アンディアやメリー、そしてフレイヤは妃だ。
であればそこには当然のように義務が生じる。
つまりは王の跡継ぎを残す。
それが妃に求められる最大の義務である。
妃として国のために派閥のために家のために最適解の行動をする。それだけの存在だった頃のアンディアであれば何も気にしなかっただろう。
だけど今の彼女はそのことを考えるだけで嫌だと思ってしまっていた。
王がどうという話ではない。仮に王がこの世の理想を凝縮したような男だったとしても今のアンディアは到底簡単には受け入れることはできなかっただろう。
だって『それ』は本来愛し合う者同士がするべきことだ。そんな風に普通の女の子のようなことを考えてしまっている自分に気づいてアンディアは愕然とした。
いつからこうなっていたのだろうか。
貴族としての義務を果たすだけだった自分が嫌だとか感情で最適解を遠ざけようとしている。
そんな風に変えられてしまった。
気がつけば義務を果たすだけの存在ではいられなくなっていた。
「メリー……」
たった一人の女が全てを狂わせた。
幸せを教えられた。
こんなものを知ってしまったらもう義務を果たすだけの空虚な人生は選べない。
だから。
だから。
だから。
「メリーっ!!」
今日は二番目の妃であるメリーが王との跡継ぎを残すための行為をする初めての日だった。そこまできてようやくアンディアは自らの感情に従って部屋を飛び出していた。
嫌だから。
メリーには自分以外誰も触れてほしくないから。
それは決して綺麗事だけじゃなくて、醜い嫉妬のほうが強くて、だけど偽ることなきアンディアの本音だった。
生まれて初めてアンディアは自らの感情に従って行動していた。
義務なんて知らない、貴族として生まれたからどうした、妃として跡継ぎを残すのが当たり前だろうが関係ない。
嫌なものは嫌なのだ。
それで問題があるのであれば、後からどうにでも帳尻を合わせる。噴き出す問題の数々を何か何でも解決する。そうして損失よりも利益が勝れば文句はないはずだ。
「邪魔です。通してください!!」
「アンディア様!? ここから先はいくらアンディア様であっても──」
「いいから!! 通して、通してよお!!」
それでも護衛の騎士に阻まれて『その先』には行けなかった。いくらアンディアが三番目の妃であっても二番目の妃と王とが今まさに跡継ぎを残すための行為をしている部屋に入れるわけがない。
複数の騎士に阻まれてはいかにアンディアでも突破は不可能だ。力づくはもちろん、騎士に立ち去るよう命令しても王の命令のほうが上なのだから聞き入れるわけがない。
こうなることは簡単に予想できた。
普段のアンディアであればやる前から無理だと諦めていた。
それなのに、こうしてアンディアは無理矢理突破しようとして身体を掴まれて阻まれている。感情が理性を溶かし崩して単純な解が出せなくなっている。
生まれて初めての我儘だった。
通してと、それだけが叶うのならば他の全てを犠牲にしてもいいと、そう願っても現実はどうにもならない。
涙が浮かんで視界が歪む。
まだ好きだと言えてもいないのに関係性が決定づけられてしまうことがどうしても認められなかった。
せめてもう少し早く自分の気持ちに素直になっていれば何かが違っていたのだろうか。そんなことを考えてももう遅い。
今更令嬢としての仮面を脱ぎ捨てたところで世界は何も変わらない。
「メリー!!」
「わっ、なになに何かあったの!?」
「…………、え?」
返事が返ってくるわけがない。なぜなら彼女は王と一緒なのだから。
そのはずなのに答えてくれた。
歪む視界のその先。涙を拭ったらそこにはこんな時でもアンディアの心を掴んで離さないほど愛らしい少女──メリーが慌てて駆け寄ってきていた。
「め、リー……?」
「はいはいメリーさんですよっと。よくわからないけど、とりあえず騎士の人たちはアンディアさまから離れて! つーかあんまりべたべた触らないでよね!!」
どこか拗ねたように口にするメリー。
戸惑いながらもアンディアのことを阻んでいた騎士たちは脇に避けていった。
「それで、アンディアさま。大丈夫? 私のこと呼んでいたみたいだけど、何かあった? ハッ!? まさかそこの騎士の人たちに嫌なことされていたとか!? もしもそうなら私がこてんぱんにしてやるけど! ふふん、これでも殴り合いの喧嘩なら負けなしなんだからっ。まあ殴り合いとかしたことないから負けなしってオチだけどね!!」
てへっとおどけるように笑うメリー。
騎士に嫌なことをされた云々からして別に本気で言ってはいなかったのだろう。彼女だって困ったようにしている騎士たちを見たらそれくらいはわかるはずだ。
だからあくまでジョークであり、少しでもアンディアに和ませてリラックスしてもらおうというメリーの気遣いだというのは察することができる。
……ただし騎士たちに『離れて!』と言ったその声音には隠しようもない敵意さえあった。それこそアンディアがフレイヤに嫉妬していた時のように。
つまり。
だから。
気分を悪くして『くれた』?
あのメリーが騎士がアンディアに触れていることを嫌がった?
「むっ。アンディアさま本当どうしたの? なんか嬉しそうなんだけど」
「え? そう、ですか?」
「うん。見たことないくらいニヤニヤしてるよ」
言われて、自分の頬に手をやるアンディア。
そんなことしても自分が笑っているかどうか分かるはずもなかったが、メリーがそう言うならニヤニヤしているのだろう。
自分で自分の感情が制御できずに表に出てきてしまうほどに──
「わたくしはこんなにもメリーが好きなのですね」
「……へ……?」
「あれ、今、わたくしなにを、え、いや、その、あれ!?」
やはり感情が制御できない。
自分で自分の行動さえも暴走してしまう。
好きだと、ようやくメリーに対する感情を言語化できたからといってそのまま口から飛び出す有様にアンディアはこれまでの彼女らしくもなく狼狽えていた。
好き。
そんな感情が自分の中にあるのだとアンディアは考えたこともなかったから。
「うええっ!? アンディアさまが私を、うっそお!?」
「嘘ではありません……。好きでなければ、こんなにも心乱されていなければ! わたくしは理想的な自分のままでいられたのですから!!」
止まらない。
もうここまできたら止められるわけがなかった。
「メリーのせいです! メリーがそんなにも可愛いから、わたくしなんかと仲良くなりたいと近づいてくるから、ですからわたくしはこんなにもっ、これまでの人生で形成してきた全てを投げ捨ててでもメリーのことが欲しいのです!! わたくしのそばにいて、王になんかに身体を許さないで、他の誰でもなくわたくしだけを愛してくださいよお!!」
いっそのこと恐ろしくさえあった。
こんなにも強烈で、醜悪で、ドロドロとした感情が自分の中に眠っていたことが、だ。
好き。
どうしようもなく好きで好きで、メリーがそばにいてくれるなら他に何もいらないとそう思える。そんな自分に気づいた。気づいてしまった。
だから。
だけど。
「アンディア」
その一言に。
『さま』が抜け落ちた、そのたった一言に。
アンディアはやってしまったと今更ながらに背筋に絶望的な悪寒が走るのを自覚していた。
引かれた。軽蔑された。メリーにとっては仲良くなりたいとか好きとかそんなものはあくまで令嬢としての常識の範囲内の話であり、王の妃としての義務を投げ捨てるようなものではなかったというのに何を勘違いしているのだと切り捨てられた。
嫌われた。
それは、それだけは──
「私もアンディアのこと愛しているよ!!」
「…………え、あ?」
「うおう、言っちゃった。でもいいよね、もう我慢しなくていいんだよねっ。えへへ。そばにいられるだけでも幸せだったのに両想いとか最高だよっ! あ、了承得ずに呼び捨てにしちゃったけど、両想いなんだしアンディアって呼んでもいいよね!?」
「それは、よろしいですけれど……ほん、とうに? メリーもわたくしのこと愛してくれるのですか?」
「何を言い出すのやら」
いっそ呆れたようにさえ頬を緩めて。
そしてメリーはこう告げたのだ。
「私、好きだって何度も伝えてきたじゃん」
そこが我慢の限界だった。
嬉しすぎて、幸せすぎて、アンディアは思わずメリーのことを抱きしめていた。
涙が止まらない。
こんなにもあたたかい涙があることをアンディアは生まれて初めて知った。
ーーー☆ーーー
翌日。
いつか必要になるかもしれないと収集しておいた資料を持ってアンディアは一番目の妃であるフレイヤの元を訪ねていた。
……本当は一時でもメリーのそばを離れたくなかったが、後の安寧のためにも必要なことだからこそ。
「うふふ。まさか貴女様のほうから訪ねてくださるとは喜ばしいでございますわね。ですけど、あら? 貴女様が大好きなメリーと一緒では──」
「くだらない腹の探り合いは結構です」
メリーとの関係がばれていることは予想の範囲内だった。あれだけ派手にやったのだからいくらあの場の騎士を口止めしていようがフレイヤの耳に入っていないわけがない。こうしてわざとらしく指摘されるのも予想の範囲内である。
だからそのことは無視してアンディアは動く。
にこやかに、甘ったるい匂いを振り撒くフレイヤの目の前に集めた資料を投げ出す。
広がったそれらにはフレイヤについて……ではなく、彼女の周囲で幸せになった人達に関する調査結果が記されていた。
敵対者の欲をフレイヤの都合のいい形で満たす。そうすれば利権という欲を奪い合う勝負の舞台にのぼることなく敵対者は勝手に消えてくれる。よって利権はフレイヤの総取りになった……というのもあるが、全ての事例がそれだけで終わってはいない。
「清廉潔白な貴女と違って周囲の人間は随分とやらかしているようですね。手に入れた幸せを守るために行動する。ですけど、当事者の能力を鑑みれば自発的に行動したにしては不思議な点が見受けられます」
「あら」
「他人を幸せにしてあげる。それもその人たちの常識の範囲外で。そうやって予想以上に幸せになってしまった人たちは後になってその幸せを手放せなくなる。ですからその幸せを守るために前までならやろうと考えすらしなかったこともできるようになる。その行動を本人も自覚のないまま貴女の都合のいい形に誘導され、使い勝手のいい兵隊に仕立て上げられる。そうして貴女は利益だけを貪ることができている、と。……随分と残酷な仕組みですわね」
「あらあら」
フレイヤの笑顔は崩れない。
この程度では甘ったるくにこやかな悪女は動じない。
「妾は善意でもって恵まれぬ者を幸せにしてあげただけでございます。ノブレスオブリージュ、富む者としての義務でございますね。ですが、まあ、『そういうこと』にしてあげましょう。で? 妾が無様に他言しないでくださいと泣きつくとでも?」
「まさか。この程度で脅迫が成立すると考えてはいませんよ」
アンディアもまた平然とそう返す。
三大派閥の一角の長、その令嬢だった女がただの良い子ちゃんであるわけがない。例え好きで頭が茹で上がっていても、だからこそ何よりも大切なもののためならこれまで積み上げてきた凶悪なまでの『力』を振りかざすことに躊躇はない。
「あくまで交渉材料の一つとして提示しただけです。清廉潔白な貴女の評判に疑惑という傷がつくにしても明確な物的証拠までは揃えられていないので貴女であれば挽回は十分に可能でしょう。それでもいかに痛手にはならないとはいえ不利益がゼロではないはず。そう考えてもらうことでこれからする提案において貴女に天秤にかけてもらうものを増やしたかった、それだけです」
「…………、」
「本題に入りましょうか。今のこの国では同性での結婚は認められていません。いいやそれ以前にわたくしとメリーが結ばれることを三大派閥の長たちは認めないでしょう」
「それが?」
「ですけど、隠れ蓑として妃を続けていれば少なくとも離れ離れになることはありません。子を成さないことに派閥から口は出されるでしょうけれど、その程度であればわたくしが封殺してみせます。対立関係にあるはずの妃同士で愛し合っている、この事実さえ外に漏れなければどうとでも取り繕えるのです。……わたくしたちが堂々と生きられるようこの国を変えるにしても、それには時間がかかりますからそれまでは、ですね」
「そんな甘ったるい夢を叶えるために余計なことはするなと忠告に来たのでございますか。こんなものまで用意してご苦労なことでございます」
広げられた資料をフレイヤは指で摘み、揺らす。
ボッ! と悪女の掴んだ資料が魔法の炎で燃やされる。今までの甘ったるい色が抜け落ちた、爬虫類が獲物を見定めるような冷たい瞳が炎に照らされる。
「もちろん貴女にとっても利益があるよう配慮します。ええ、貴女が口を噤んでくれていれば用意した資料は公表しませんし、最大限貴女の利益になるよう協力を惜しまないと約束しましょう」
「そうやって弱味を差し出してもらうのも魅力的だけど、妃としての役目を放棄した女どもの実態を公表するのもアリでございますよね? 対立関係にあるはずの派閥の象徴たる妃どもが義務を放棄して愛し合っている。うふふ、この事実だけでやりようによっては邪魔な二つの派閥を殺す火種になるのでございますよ。これは、あらあら、わざわざ秘密裏に手を結ばずとも二つの派閥が焼き尽くされたその後に総取り──」
「今すぐ全面戦争がお望みですか?」
今この時に限り、この場にはメイドも護衛も誰もいない。二人きりの密談なのだから当然なのだが、合図さえあれば踏み込んでくる位置には潜んでいる。
今のアンディアであればなりふり構わず『引き金を引く』のではないか。それだけの怖さがあった。
これまで社交界の奥の奥で暗躍してきたフレイヤであっても思わず息を呑むほどに。
それも一瞬、すぐにいつもの甘ったるい笑みを浮かべていたが。
「しばらく見ないうちに随分と変わったようで。愛の力でございますか?」
「ええ。今のわたくしは無敵です」
「うふ、うふふっ、あははは!! ああ怖い怖い。理性が焼き切れた貴女様がどこまでやれるか正確に計算できない以上、これは敵対することなく甘い蜜を啜りながら末永く仲良くやっていくのが最適解でございますか」
笑って笑って笑って。
そして甘ったるい悪女はこう続けた。
「長い付き合いになりそうですし、今の貴女様にはここで白状しておくのが後の利益に繋がるのでございましょう。貴女様たちの関係を継続するにはいつ横槍を入れてくるかわからない妾が邪魔。そう考えて随分と警戒して対策を考えたようですが、実は今回に限っては無駄なことだったのでございます。何せ陛下に横恋慕しないほどに別の誰かに夢中になって勝手に幸せになった時点で妾が貴女様たちに手出しする理由はなくなっていたのでございますから。うふふ、あまりにも貴女様が真剣で揶揄いすぎてしまいました」
「…………、」
「信じられませんか? ですがこれが真実でございますからね。派閥同士の利権争い? 妾は陛下の妃なれば、三大派閥『なんか』よりも陛下のために尽くすのでそんなものに興味はないのでございます。お優しい陛下は争いなど望んでおられない。そうでなければ妾が属する派閥も含めて陛下を軽んじる全てを一掃していたかもしれませんが」
どれだけ注意深く観察しても、紛うことなき本音だった。アンディアの目から見ても嘘は一つもなかった。
つまり、だから、初めてのお茶会での殺意は権力争いとかそんなものではなく恋した乙女の嫉妬心からだったということか?
「とはいえ、うふふ。陛下の寵愛を受けられる立場にありながら妾の演技すら見抜けないちっぽけな女に夢中になるとは理解に苦しむ思考回路でございます。もちろん妾にとっては好都合なので勝手に愛し合えばよろしいのでございますけれど」
「三大派閥にいいように転がされている傀儡一族でしかないあの男のどこに魅力があるのか理解不能ですけれど、悪趣味もまた嗜好の一つですもの。わたくしは他者の趣味にとやかく口を挟むことはありませんわ。それに、その調子であればわたくしやメリーの代わりにあの性根が甘い男との跡継ぎを残す役目も喜んで引き受けてくださるでしょうし、どうぞ末永く愛し合ってくださいませ」
この場にはメイドも護衛もいなかった。
何より愛する人がいなかった。
彼女たちが妃であろうが他者の目を気にする必要はなかったのだ。
「「……………………、」」
だからこそ次の瞬間には笑顔で取り繕うことも忘れて掴み合いの大喧嘩になったのも仕方なかっただろう。
ーーー☆ーーー
そういえばあの日のメリーは跡継ぎを残すために呼び出されていたのではなかったか?
『ああ、それなら断ったよ』
『本当、ですか……ッ!?』
『まあね。アンディアの顔が浮かんでさ、これは無理だって飛び出しちゃった。いやあ、これは叱責ものかなあ』
そんなわけで後日メリーとアンディアは王の下を訪ねたのだが、王は二人揃ってやってきたことを確認して一つ息を吐き、そしてこう告げた。
「報告は受けていたが、そうか。わかった。貴族だからと人生の全てを捧げる必要はない。民の不利益に繋がらない範囲であれば幸せになるために行動してもいいだろう。それに、フレイヤもこういう形であれば滅多なことはやらかさないだろうしな」
最後の台詞だけは困ったような、それでいて照れくさそうな、不思議な声音だった。
意外にもフレイヤからの一方的な恋慕ではないのでは……と、そこまで考えてアンディアは思考を打ち切る。余計な詮索は必要ない。彼女たちの関係に余計な口出しはされない、それ以外はどうでもいいのだから。
ーーー☆ーーー
問題が全て片付いた……わけではないだろう。
これからもアンディアとメリーには困難がつきまとう。二人はそういう道を選んだのだから。
それでも、好きだから。
妃としての義務を果たすだけの人生を送るにはその胸に燃えた想いが強すぎたからこそ。
「アンディア! 大好きだよ!!」
「わ、わわ、わたくしも、すっすす好き、ですよ!!」
隣に最愛の人がいるなら、どんな困難も苦ではない。人生の全てを捧げても貫きたい好きを知った彼女たちは無敵なのだから。