チェックメイトにはまだ早い
試験会場である教室に入ると、自分に視線が集まるのを感じた。試験官とでも勘違いしたのか会釈をする者もいるが、隆夫が席に着くと、皆一様に困惑している。
自分の孫と言っても差し支えないほど年の離れた若者を、それも試験開始直前に動揺させることは本意ではないが、こればかりは如何ともし難い。とりあえず、これ以上周りを萎縮させないように、隆夫は黙って前を向いた。
どんな人生だったかと聞かれれば、隆夫は平凡な人生だったと答えるだろう。ごく普通の家庭に育ち、そこそこの大学を出て地方の会社に就職して、時たまトラブルに見舞われながらもそこそこの出世を果たした。プライベートでは二十代で結婚し、喧嘩をしながらも今だに夫婦を続けている。
そんな隆夫も定年を迎えてお役御免と相成った。記念の花束を抱えて帰宅した、その日の夕食の席でのことである。
これからは苦労をかけた妻と一緒にゆっくり旅行でもしようかと、呑気に構えていた隆夫は冷や水を浴びせかけられた。
「何言ってるのよ。私にはやることもあるし、やりたいこともあるの。一々あなたに付き合ってられないわ」
あまりの言いぐさに文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけた隆夫に、「だからね、」と何でもないように妻は続ける。
「だからね、あなたもやりたいことをやりなさいよ」
妻も寝てしまった深夜、隆夫は一人リビングで酒を傾けていた。頭の中では妻の言葉がぐるぐると巡っている。
小さい頃から考古学者になりたかった。当然そちらの道に進むつもりだったが、いざ進路を決定する段になると、就職に不利だと聞いて二の足を踏んでしまった。
あれから随分と時間が経ち、若かったあの時のような情熱はもう残ってはいないだろう。それでも、妻の言葉で思い出せる程度には熾火が燻っていたのだとすれば、それはそれで気恥ずかしいものがある。
隆夫はじっと考えていた。子供はとうに巣出ってしまった。守らなけらばと思っていた妻は、自分などよりもよほど確りと両の足で立っている。なんなら、自分が守ってもらう立場かもしれない。今ならば純粋に憧れを追えるだろうか。自分の中の熾火は、まだ燃えてくれるだろうか。飲み込んだ酒が、ゆっくりと体の中を降っていく。腹の底に感じる熱を、息と一緒に吐き出した。
「それでは始めて下さい」
入学試験の開始を告げる試験官の声で、伏せられていた答案用紙を表に返す。真っ白なそれに、隆夫は自分の名前を書き込んだ。




