令嬢と子息の違い
近くに控えていたメイドが、新しいお茶を淹れなおしはじめた。それを見たレベッカは邸の方を振り返る。どうやら遅めの朝食を終えたロバートが、サラとレベッカのところにやってきたらしい。
「やぁレヴィ、久しぶりだね。元気そうじゃないか」
「ロブもお元気そうね」
「いやぁ、最近は歳とったなぁって実感してるよ。レヴィは相変わらず若いねぇ。僕のとこにも妖精こないかなぁ」
「たぶん無理ね。ロブと契約したら書類仕事までさせられそうだもの。そんなの妖精が寄り付くわけないじゃない」
「確かになぁ」
さすが幼馴染だけあって、気心のしれた軽口を言い合う。しかし、よく見るとロバートの目の下には、バッチリ隈ができている。あまり寝ていないらしい。
「伯父様、あまりお休みになられていないのですか?」
「うーん。いろいろあってね」
「お仕事がお忙しいのですね」
「正直言うと、帳簿をつけるのが昔から苦手でね」
「え、帳簿は伯父様がつけていらっしゃるのですか? 会計官などはいないのでしょうか」
「数年前までは居たんだけど、そいつが横領してることが発覚したんだよね。それ以来、親父は『グランチェスターでもない人間に会計は任せられない!』とか言い出しちゃってさ。俺がやるしかなくなっちゃってさ」
「ええっ、そんな極端な。お金の管理は専門家でも大変なのに!」
すると、レベッカが少しだけ困った顔をしてサラに告げる。
「サラさん、気持ちはわかるけど、淑女はお金のことを口にしないものなのよ」
「えっ、そうなんですか?」
「お金の話題は、はしたないとされているわ」
「で、でも大切なことですよね?」
「もちろん大切なことよ。でもね、お金のことは殿方に任せておくのが、淑女としての正しいあり方なの」
「淑女の方々は、自分たちの財政状況を知らないまま過ごせということなのでしょうか」
「ある程度把握してはいらっしゃる方はいても、詳細までとなると少数でしょうね」
「そんなのおかしいわ!」
「そうね、私もそう思う。でも、淑女がお金のことに口を挟むということは、父親や夫の能力が足りないという意味にとられてしまうの。サラさんだと、祖父様になるわね」
「そ、そんな…」
愕然とするサラを見て、ロバートが不思議そうな顔をした。
「もしかして平民は違うのかい?」
「旦那さんが働かなかったり、お酒ばっかり飲んでたりすれば、奥さんは『お金がない!働け!』って怒るのが普通です。それに私が育った家では、店の売上を帳面に記録するのは、店頭でお客様に売った担当者です。ですから母や私が書くこともありました。もちろん最後に元帳をつけるのは父ですし、月次作業や年次の決算作業も父が担当していましたが、母も私も手伝っていました」
「え、サラは帳面に記録できるのかい?」
「もちろんです。5歳の頃からお店に立っていましたから。何を、いくつ、いくらで売ったのかを記録しておかなければ、帳簿がつけられないじゃないですか。閉店後に帳面の内容を集計して、実際の現金と照会して帳簿をつけるのですが、家族全員で確かめ算をして数字が一致することを確認していました。1ダルでも違うと最初からやり直しですし、そこに男女差があるとはまったく考えていませんでした」
実際のところ、5歳でそこまで読み書きと計算ができる子供は貴族だろうが平民だろうがほぼいない。特に平民は識字率が低く、一生読み書きできない人も珍しくない。計算に至っては、正しく四則演算ができるレベルで大店の商家の見習いになれる。
ところがサラは3歳の頃には文字を覚え、計算もスラスラとできた。おそらく記憶が戻る前から、無意識に前世の能力を引き継いでいたのだろう。もっとも、この世界が十進法を使っていなければ、ここまですんなり覚えられたかは疑問である。
実はサラの知らぬことではあるが、サラの父と母は『うちの子天才!』と思っていた。なお、近所の人たちはアーサーが貴族家の出身であることにも気付いていたため、『貴族の血を引いているとこうなるんだろう』と勝手に思い込んでいた。
「つ、つまりサラは帳簿をつけられるってことだね?」
「あまり複雑だと難しいかもしれません。あくまでも商店のレベルですので」
「でも計算できるんだよね?」
「か、簡単な計算でしたら」
『あー、まずい。この世界の数学レベルがわかんないと、下手なこと言えないかもしれない』
サラの前世は文系の大学を卒業していたが、理数系も割と得意だった。というより勉強のできる子だった。
「さすがアーサーの娘。あいつ数学得意だったんだよなぁ」
「確かにお父様は計算速かったですね」
「ちょっとまってくださいロブ。サラさん、本当に計算ができるのですか?」
「足す、引く、掛ける、割るの簡単なものでしたら」
レベッカは驚きを隠せないようだ。おもむろに石板と石筆を取り出し、数字を書き出す。
「では、126と87を足すといくつですか?」
「213です」
「逆に引いたら?」
「39です」
「8掛ける9は?」
「72です」
「86割る5は?」
「17と余り1です。小数点以下を答えるべきでしょうか?」
「いえ、結構です。小数もご存じなのですね。それはアカデミーで覚える内容のはずなのですが…」
ロバートとレベッカは二人とも目を見開いて固まっている。
「サラ、お前…」
「天才ですね」
『ええっ? 四則演算だけで天才とか言われちゃうの? 前世であれば九九を覚えるくらいの年齢だよね。割り算や小数点は、もうちょっと後かもしれないけど、それでも天才ってほどじゃないよね?』
一瞬、サラはこの世界の数学レベルに不安を覚えた。しかし、実家の商店では普通に買い物客が自分が買う商品の値段を足していたし、単価と個数を掛けて値段を出していたことを思いだした。もちろん、おつりを計算するために引き算もしていた。
おそらく年齢に比べて優秀という意味なのだろう。
「サラが男子だったら、アカデミーに早期入学させたいくらいだね」
ロバートの発言にサラは引っ掛かりを覚えた。
「伯父様。アカデミーに女子は入れないのですか?」
「うん。アカデミーは男子生徒しか受け入れない」
「では女子がお勉強をしたい場合はどうするのですか?」
「レヴィのようなガヴァネスを雇う」
「それは基礎教育ですよね。もっと専門的な知識を学びたい場合は?」
「基本的に貴族女性はそこまで専門知識を身に付けることはないんだ」
「女子は男子のような学習を受ける機会すらないということでしょうか」
「うん。そうなるね」
「そ、そんな…」
するとレベッカは悲し気な微笑みを浮かべ、サラの頭をなでながら話し始めた。
「私も昔、同じことを考えてたわ」
「レベッカ先生もですか?」
「ええ、私は学ぶことが大好きだった。数学も歴史も読書も、実は錬金術だって大好きだった。だから、父にアカデミーに行きたいって駄々をこねたわ。そんな私を父は塔に閉じ込めて2日間も食事を抜いたの」
「そんなひどい!」
衝撃だった。女性というだけで学習機会が無いなんて。あまりにも理不尽だ。
「そんな私を助けてくれたのが、ロブとアーサーよ」
「伯父様とお父様ですか?」
「ええ、アカデミーの教科書とノートを見せてくれて、学習したことを私に教えてくれたの」
「教えてたのはもっぱらアーサーだけどね。俺はレヴィが学習してる横で、一緒に復習してたよ。おかげでアカデミーを落第せずに済んだ」
「正確にはアーサーが必死にロブの補習に付き合ってた感じね」
「あれ、でもお父様は伯父様よりだいぶ年下ですよね?」
「アーサーは、アカデミーに早期入学したんだ。だから兄弟なのに同じ学年でね。しかも弟は成績トップだっていうのに、兄の俺はいつも落第スレスレだった」
「ロブの場合、剣ばっかり振り回して勉強しなかったせいだと思うわ」
「確かに」
ロバートとレベッカは昔を懐かしむように、顔を見合わせて笑った。
『あれれ、この二人ってイイ感じじゃない?』
住み込みで働くことになるため、ガヴァネスは独身女性の職業である。寡婦になってから働く女性もいるが、いずれにしても独身であることは間違いない。
とはいえ、二人は付き合っているのかと聞くのも野暮なので、サラは勝手にニヨニヨ笑っておくにとどめておいた。
「では、レベッカ先生からは、アカデミーの授業内容もおしえていただけるのですね!」
「まぁサラさんは気が早いのね。確かに数学でしたらアカデミーの授業内容でも問題なさそうだけど、他の科目もサラさんのレベルを見て学習計画をたてましょう」
「はい。よろしくお願いします!」
「教科書は俺やアーサーが使ったものも残っているけど、必要なら取り寄せるよ」
「伯父様ありがとう!」
アカデミーには通えなくても、相当する授業を受けることはできそうだ。どうやらガヴァネスの中でも、かなりの"アタリ"を引いたようだ。