消火活動
グランチェスター騎士団は、侯爵からの命令を受けて出動する準備を進めていたが、小規模でも軍隊を移動させることは容易ではない。部隊を編成し、まずは先発として武器や最低限の糧食を持たせた部隊が出発させようとしたところに、サラからの森林火災の一報がもたらされた。
森林火災となれば、戦闘の準備だけでは足りない。慌てて追加の準備を始めたところで、現場からの続報が飛び込んできた。その内容は『ウォルト男爵邸から西に2キロ付近で森林火災発生。おそらく原因は火属性の魔法暴走』というものであった。
この内容はサラたちにも共有され、ひとまず彼らは狩猟場にほど近いウォルト男爵邸へと出発した。
ところが、この直後にさらなる続報が入っていた。『狩猟場に100名前後の敵兵を発見。敵兵は火災から逃れるため、武器を所持したまま宿場方面へと移動中』という内容であったが、この情報をサラたちが知ることはできなかった。
グランチェスター城から狩猟場までは直線距離で15キロほど離れている。狩猟大会の時期には沢山の馬車が往来するため街道は整備されているが、それでも勾配のある箇所や曲がりくねった箇所はある。
この世界の主要な移動手段は馬や馬車であるが、生き物である以上、自動車のように全力で走らせ続けることはできない。サラたちは途中2か所で馬を交代させ、なるべく急いで狩猟場に向かったが、それでも到着するのに2時間ほどかかった。
空は暮れていくが、西の空はずっと夕焼けのような色をしている。西に向かって馬を走らせながら、これが夕焼けによるものであることをサラは祈っていた。
しかし、祈りも虚しく、近づくにつれて空気に焦げたような臭いが漂ってくる。サラとレベッカの周囲には、森からやってきた妖精たちが集まり始めている。
「サラ!助けて!」
「お願い火を消して」
「僕の大切なブナの木が燃えてるよぉ!」
妖精たちの助けを求める声が聞こえてくるようになると、はっきりと火災による熱が感じられるようになる。
ウォルト男爵邸の前まで来ると、火災の状況がはっきりとわかるようになった。炎は大きく燃え広がり、火の粉を辺りに散らしている。
馬から降りて18歳の姿になったサラは、眩しい光と吹き付ける熱風で竦みそうになる足を必死に動かし、ウォルト男爵邸へと近づいていった。
どうやら暴徒たちは火災を恐れて避難したらしく、門の前には武器のようなものが散乱していた。しかし、ウォルト男爵邸の窓からは灯が漏れている。どうやら、避難することなく、邸に残っている人がいるようだ。
サラは風属性の魔法を拡声マイクのように応用し、大きな声で男爵邸に呼び掛けた。
「グランチェスター城からロバート卿がお越しである。開門されたし!」
邸の中から外を窺う人物に対し、ロバートは前に進み出て右手を挙げた。
すると、邸内から慌てて数名の男性が飛びだしてきた。転びそうな勢いで門に駆け寄り、門扉に巻かれた太い鎖を外していく。最後に鍵を開けて門扉を大きく開いたのは、この邸の主人であるウォルト男爵だ。
「ロバート卿。ようこそお越しくださいました」
「久しいね。ところで暴徒すら逃げ出しているのに、なぜあなた方は避難していないの?」
「我々はここを守る義務がありますから」
「いやいや。ここにいても蒸し焼きになるだけだから、急いで避難してくれるかな」
レベッカも前に進みでる。
「こちらのご息女が怪我を負われたと伺っておりますが、避難できないのはそのためでしょうか?」
「それほどの怪我ではありませんので、連れていくことは可能です」
「では、あとは私たちにお任せになって皆さまは避難なさってください」
男爵は驚いたようにレベッカに視線を移した。
「もしや、あなた様は、オルソン家のレベッカ嬢でしょうか?」
「はい。仰る通りです。私が妖精と友愛を結んでいることはご存じでしょう? ですから安心なさってください」
レベッカは極上の微笑みを駆使してウォルト男爵邸の人々を落ち着かせ、避難させることを納得させた。
サラはきょろきょろと辺りを見回し、先にこちらに向かっていたはずのベンジャミンを探した。しかし、今のところ彼の姿は見えない。
「ところで、こちらに文官のベンジャミンさんはいらっしゃらなかったのでしょうか?」
「ベンジャミンは娘の容態を確認した後、邸を出ていきました。侯爵を補佐すべき文官がここに留まってはならんと叱りつけ、密かに邸の裏から脱出させました」
「なるほど。そうだったのですね」
『ってことはすれ違ったかな?』
「サ、じゃないソフィア。差し迫った状況のようだ。どうにかできるかな?」
「ひとまずやってみます。ただ、危険なので、避難も急いでください」
ロバートは頷き、ウォルト男爵一家と使用人たちに対して、東側に避難するよう指示した。3人は東からやってきたので、そちらの方角に暴徒がいないことは確認済みだ。
父親におぶさって邸から出てきたウォルト男爵令嬢の足も、レベッカが魔法で治療したため避難はスムーズに完了した。
サラは自分の周囲に水の壁を作り、森に向かって歩を進めた。
『えっと、上空からよりも火元に近いところに大量の水を撒くのが効果的だったよね?』
魔法で大量の水を作り出し、火に近い場所にドバっと水を掛けてみる。途端、とんでもない勢いで水蒸気が発生した。
『あー、まー、そうなるよね』
燃え広がる火の粉や、水蒸気で周囲に被害を拡大させないよう、サラは筒状の空気の壁を作り出して燃焼部分を囲ってみた。すると風の筒の上空には、立ち上った水蒸気で雲ができ始めた。
『このまま雨雲になるかなぁ?』
などとサラは暢気に考えていたが、雲はみるみる大きくなって森全体に雨を降らせ始めた。しかし、最初に比べて勢いこそ弱まったものの、相変わらず火は燃え続けている。
『酸素濃度を下げたら、一酸化炭素発生するかなぁ? 屋外だし問題ないとは思うけど、どうしようかなぁ』
すでにサラの脳内は学生時代の化学の時間状態であった。しかし、更紗は学校のお勉強はできたが理系ではなかったので、ぼんやりとした知識しか思い出せない。
『ひとまず熱を奪うことが大事なんだよねぇ…』
このとき突然サラの脳裏に過ったのは『ドライアイス』であった。
『そうか炭酸ガスを吹き付けてみよう。確かそんな消火剤もあった気がする』
ところが最初に思い描いたものがドライアイスであったため、脳内で炭酸ガスを噴射する状態を上手くイメージできず、火災現場に大量のドライアイスの粒をまき散らす結果となってしまった。
結果、一瞬で筒の中に白い煙が充満し、火災の状況を視認できなくなった。
『あ、失敗したかも?』
とはいえ、確実に周囲の気温は低下しているようだ。そのまましばらく待ってみたが炎も見えてこない。
『うまくいったのかな? もうちょっと降らせておく?』
念のため先程と同じ量のドライアイスを、ドバドバと筒に注ぎ込むように降らせる。
そこに森の妖精たちが集まってきた。
「サラ!火が消えたよ!」
サラが恐る恐る風の筒を消し去ると、筒の中に積みあがっていたドライアイスが雪崩のように一気に周囲に広がった。妖精の言葉通り、もう燃えている箇所は見当たらず、夜の静寂が辺りを支配した。
背後からロバートとレベッカも近づいてくる。
「これは凄いな。氷かい?」
「いいえ、これは氷ではありません。氷よりも冷たくて、触ると凍傷になります」
「これは溶けるのかしら?」
「ええ。水にはならず、風に溶けます」
「これも、ゼンセノキオクかい?」
「そう言っても差し支えないかもしれませんね」
『ふぅ。ひとまず火は消えたみたい。だけど、暴徒たちはどこにいったのかしら?』
暴徒だけでなく敵が100名も森に潜んでいたことを、この3人はまだ知らなかった。