侯爵閣下のお気に入り
「それにしても対象範囲はかなり広いですね。こちらの農家の方々の気持ちを思うと、なんともやりきれないですね」
アメリアが痛ましい表情を浮かべてポツリと呟いた。
「安全のためとはいえ、酷なお願いすることになってしまいました」
しかしジェイドは力強く答えた。先程泣いたせいで目は赤くなり鼻声だったが。
「私たちは大丈夫です。領主様をはじめ多くの方が、見守ってくださっていることを実感できたのです。これほど嬉しいことはありません。正直なところ、今朝早くにアイン様から命令を伝えられたときは絶望しかけました。しかし、私たちの愚かな行動でさえ、領主様は見守ってくださっていたのですから」
それまでテントの隅で身の置き所が無さそうに立っていたアインは、ジェイドの発言にピクリと反応した。
「侯爵閣下の前で絶望など騒ぎ、私を貶める気か!」
「い、いえ。そんなつもりはまったくございません。配慮に欠ける発言でございました」
ジェイドは慌てて否定したが、明らかにアインは気分を害している。すると、私の横に立っていたレベッカがするすると足音も立てずに彼らに近づいた。
「お二人とも、もうおやめになってくださいね。アインもジェイドも相手の立場や気持ちを思いやることはできないのですか? ジェイドの物言いでは、確かにアインの立つ瀬がありません。彼は上からの命令に従って行動しているに過ぎません。何故そうしなければならないかを知らされていないのですから」
『あれ? 自分で考えもせずに上からの指示に従ってるだけの無能って言ってる?』
「そ、それは大変申し訳ございません。深く考えもせずに発言してしまいました」
ジェイドが深々とアインに頭を下げた。
「ふんっ。これだから無学なものは…」
相変わらずアインは苛ついたままである。
「ところでアイン。手塩にかけた作物を伐採しろといきなり命令されれば、反発されるとは考えなかったのですか?」
「領主からの命令で病気になった作物を刈り取れと言っただけですよ? 従って当然ではありませんか!」
「そうですね。従ってもらわねばならないのは事実ですが、どうしてきちんと事情を説明しなかったのですか?」
「無学なものに説明するなど時間の無駄ではないですか!」
『まだ言うの!』
アインの不遜な態度にサラは憤ったが、レベッカは静かに話を続けた。
「アイン、彼らが自分たちの育てた作物を率先して刈り取ってくれているのは、侯爵閣下が直接お出ましになって言葉を掛けたからではありませんよ? 事情を聞いて納得し、放置すれば大変なことになることを”知った”からです。多くの知識を学ぶ機会のあったアインに比べれば確かに彼らは無学でしょう。しかし無能なわけではありません。正しい知識を与えれば無駄な反発を生むこともなく、ジェイドが絶望することもなかったでしょう」
「ですが、先程サラお嬢様も確認されたように、早馬での命令には細かい指示もなく、理由の説明も曖昧なものでした。仕方ないではありませんか!」
アインは自分の事情を声高に主張する。
「確かにアインにとっては仕方ない事情ですね。なにせ『知らなかった』のですものね」
「はい。その通りです」
「この地域の農業を担当する文官として、いち早く異変に気付いてもおかしくない立場ですが、8歳のサラさんに指摘されるまで異変は感じなかったのですから知らなかったのは明白ですよね。そういえば、そこにいらっしゃるアリシアさんとアメリアさんは、菌核のある麦を一目見ただけで病気の麦だと気づいたそうですよ。皆さん女性ですから当然アカデミーには入学できないのですけれど…」
レベッカは人前では大抵微笑んでいる。しかし、あの貼りついたような淑女の微笑みは、まるで能面のように、状況や角度に応じて見え方が変わるのだと今更ながらにサラは気づいた。そして、微妙に変化する声のトーンからも、彼女がもの凄く怒っていることが伝わってきた。
『怖いっ。本当に怖いっ』
ここに至って、アインはレベッカが怒っていることに気付いた。そして、自分こそが無学だと指摘されていることにも。
「もう良い。レベッカ嬢もそのくらいにしてやってくれ」
重く冷たい空気を断ち切るように侯爵が口を挟んだ。
「はい。差し出がましい口をきき申し訳ございません」
レベッカはあっさりと引き下がった。
「アインよ、お前にできることがこれ以上ないのであれば立ち去れ。少しでもこの地に利のあることができるというのであれば留まるが良い。どちらを選んでも、私はお前を咎めたりはせん」
俯いたアインは、それでも顔を上げて侯爵に宣言した。
「私が大きく心得違いをしておりました。微力ではございますが、私にもできることがあるかもしれません。一刻も早い対応が必要とのことでしたので、私が担当しているほかの地域の農民や、手の空いている住民にも協力を呼び掛けてまいります」
「そうか、わかった。ではアインよ頼んだぞ」
「はっ。それでは御前を失礼いたします」
それだけ言うと、アインはテントから出て行った。
「レベッカ嬢よ面倒な役回りをさせたな」
「いいえ、たいしたことではございません」
「本来であればロバートがやるべきことなのだがなぁ」
『ん? なに、この二人だけ意味が通じ合ってる?』
「祖父様、もしかして今のレベッカ先生の発言ってわざとなんですか?」
侯爵はニヤリとした表情を浮かべている。
「サラよ、人を動かすにはコツがあるんだよ。しかし、こうした手管に最も長けているのが、レベッカ嬢というのはなんとも惜しいことだ」
「私は自分の思うままに言葉を重ねただけでございます」
しかしレベッカは楚々とした態度を崩さない。侯爵は軽いため息を零してロバートに言った。
「ロバートよ、レベッカ嬢とお前が逆ならよかったと、しみじみ思っておるよ」
「父上は昔からレヴィがお気に入りでしたからね」
「まったくだ。我が子であれば婿を取ってでもグランチェスターを継がせたものを。実に惜しい…」
『あらぁ、そうだったんだ。これってロブ伯父様は頑張るべきなんじゃないの?』




