集落の実力者
貴族的な優雅さを存分に発揮してサラは農民たちに感謝の意を表した。ジェイドはしばし呆然と魅入っていたが、ふと我に返った。
「いけませんお嬢様。私共のような平民に頭を下げるなど!」
慌ててサラを止める。
「いいえ、あなた方のように作物を育てている方々がいらっしゃるからこそ、このグランチェスターは栄えているのです。敬意を示すのは当然ではありませんか」
「しかし…」
「サラよ、その辺にしといてやれ。話が進まないではないか」
侯爵が笑いながら、話を軌道に戻した。
「そうでした。えっと、皆さまもお気づきかと思いますが、今回は領都から錬金術師と薬師の両ギルドの方々にもお越しいただいております。先程、ライ麦の疫病と申し上げましたが、正確には『麦角菌』というカビのようなものに侵されています」
「この黒い種子でしょうか?」
麦の菌核を指差しながらジェイドが尋ねた。
「それは麦角菌に侵された株に現れる菌核です。これは黒い種子なのでわかりやすいですが、色の変わっていないもの、灰色や濃い茶色のものもあるため、見つけにくいものもあります。また、風や虫によって他の花へと感染が広がってしまうため、急いでこの辺り一帯の雑草ごと刈り取って処分しなければならないのです」
『イネ科の植物と言っても判断は難しそうだし、根こそぎいっちゃう方がいいよね?』
「先程、侯爵閣下らは土にも疫病が残ると仰っていたかと思いますが」
「この菌核が熟成すると、土の上に落ちるのです。発芽するとキノコのように成長し、さらに胞子を飛ばします。しかも厄介なことに、いつ発芽するかがわからないのです」
サラの話を聞いたジェイドは、深いため息をついた。
「それが来年も麦を植えることが許されない理由ですか?」
「その通りです。そのまま植えれば、来年も同じことになりかねません」
すると周りの農民たちが騒ぎ始めた。
「それは、この汚染された土地を捨てなければならないのでしょうか?」
『まぁそう思うよね。グランチェスターは穀倉地帯だし』
「皆さまは、麦以外の作物を育てることに前向きにはなれませんか? 麦角菌に影響されない作物もあります。皆さまのこれからの生活を支えるため、今後の生産について一緒に計画できないかと考えているのです。これは私個人の提案なので、拒否していただいても構わないのですが、錬金術師や薬師が必要とするような作物を植えてはどうかと思うのです。ここでも栽培可能で、かつ確実な需要が見込める薬草などへの転換です。麦角菌の影響がなくなるまでの間だけでもいかがですか?」
するとジェイドはガバリと顔を上げ、サラの前に跪いて話しかけた。
「私もずっと、この土地では小麦以外の作物を育てるべきだと考えてきました。ここは私の両親と、その仲間たちが開墾した畑です。侯爵閣下が領主となられた頃、新たに開墾した土地からは10年間税を免除するという政策を推進されました」
「うむ。そうだ。あの政策でグランチェスターの田畑も増えた。20余年を経たことで、だいぶ税収も上がっている」
侯爵が脇から同意を示す。
「私の父は農家の三男で、相続する土地もありませんでした。そのため、近隣に住む農家の次男や三男たちと協力し、この集落の周辺を開墾したのです。しかし、この土地は痩せていたせいで、小麦の生育が思わしくありませんでした」
サラは周囲を見回した。専門家ではないので正確なことはわからないが、ライ麦はそれなりに育っているようにも見える。痩せているというより、土壌の性質と最初の植え付けた作物が合わなかっただけなのではないかとサラは考えた。
「私は10年ほど前から、育ちの悪い小麦よりも、この土地に合う作物があるはずだと考え、畑の隅でいくつかの作物を試験的に栽培しはじめました」
「お一人で!?」
「最初は一人でしたが、少しずつ同志も増えました。試しているうちに、ライ麦であれば育てられそうなことに気付いたのです。そして、私たちの成功を見て、ぽつぽつとライ麦を育てる農家が増え始め、やっと本格的にライ麦に切り替えたところだったのですが……」
ジェイドは堪えきれず、涙をぼとぼとと流し始めた。何年も苦労を共にしてきたであろう彼の同士たちが、肩を寄せ合って泣いている。
「ご苦労されたのですね…このようなことになり残念です」
「いえ、いえ…、グランチェスター家の方にそう言っていただけただけでも、これまでやってきた甲斐がありました」
サラがうまく声を掛けることができずにいると、遠くの群衆の中から一人の女性がジェイドの傍らに歩み寄り声を掛けた。
「ジェイド、そのように泣いてたらサラお嬢様に失礼でしょ」
見れば、その女性は妊娠しているらしくお腹が大きい。
「こちらはどなたですか?」
「私の妻です」
しゃくりあげつつも、ジェイドが鼻声で答えた。
「妊娠されていらっしゃるのですね? では、絶対にこの麦を口にしないでください。毒麦と申し上げたので、他の方もこの麦を口にされることはないかと思いますが、間違っても摂取することのないよう細心の注意をお願いします。この毒を妊婦の方が摂取すると、流産する可能性が高まります。これは堕胎薬の材料にもなる毒なのです」
それを聞いてジェイドはピタリと泣き止んだ。しかし、より冷静なのは妻の方であった。
「妊婦だけに毒なのでしょうか?」
「いいえ、すべての方に有毒です。手足の痛みや壊死、精神錯乱などさまざまな症状を引き起こします。家畜の餌にすることもできません」
「そうですか。では急いで処分しないといけませんね」
ジェイドの妻はくるりと群衆の方に振り返り、
「どうやら泣いてる場合じゃないみたいよ。幸い、領主様は私たちの生活を保障してくださるそうだし、私たちも動かないと!」
彼女が声を上げると同時に、動き始めたのは群衆の中にいた女性陣であった。
「これから何を植えたらいいのかとか難しいことは私にはわかりません。でも、今ある麦を急いで刈り取らないとダメってことはわかります」
「その通りです。しかも、周囲の雑草ごとすべて、です。その後は、深耕する必要もあります。もしかしたら、土属性の魔法を使うかもしれません。刈り取り範囲については、錬金術師たちが確認する手筈になっています」
いつの間にかサラの周りには、女性陣が集まってきている。
「それじゃ私たちは、この黒い種子が生えていた麦畑を中心に刈り取りを始めてしまいましょう。できるところから、どんどん手を動かす方がいいですよね? 難しいことは、うちの旦那に指示してください」
「確かにその通りですね。では奥様、よろしくお願いいたします」
「よしてください奥様なんて言われたら背中がむずむずしちゃいますよ。私のことはエルザと呼んでください」
「そうですか。エルザさん、よろしくお願いします!」
「お任せください」
ポンっと胸を叩いたエルザは、鎌をもった女性陣を引き連れて刈り取り作業へと向かった。後を追うように、おそらく彼女らの旦那や兄弟であろう男性たちも続いた。
そしてジェイドだけが、ぽつんとサラの前に残された。
「エルザさんって、なんというか凄い人ですね」
「たぶんこの集落の実力者は間違いなく妻です」
「あ、そうなんですね」
すると侯爵がポツリと呟いた。
「良い細君を娶ったな」
「はい。私にはもったいない妻です」