ライ麦畑で抱え上げられた!
こちらも会議場所の変更に関する部分を修正しています
翌朝、サラはいつもより早く身支度を済ませた。昨日に引き続き乗馬服だ。
今日は午前中からライ麦を栽培している領の南部に行かなければならない。昨夜のうちに朝食は部屋で済ませる旨をメイドに伝えていたため、テーブルには朝食がセットされていた。
手早く朝食を済ませて玄関ホールに向かうと、既に侯爵とその側近、ロバート、レベッカ。そしてポルックスが揃っていた。
「おはようございます。遅くなってしまったようで申し訳ございません」
「いや、私たちが早かっただけだ。どうにも気が急いてしまってな」
ポルックスがサラに向かって話し始めた。身長差があるため、このまま話していると首が痛くなりそうだ。
「先程侯爵閣下から、サラお嬢様が秘密を打ち明けられたと伺いました。これで我々も堂々とお嬢様に助けを請えますね」
「8歳の小娘に堂々と助けを請うのはいかがなものかと思いますが…」
すると侯爵が近づいてきてサラを抱え上げた。目線が上がったことで話しやすくなったが、この状況はかなり恥ずかしい。
「いまさら普通の小娘のように振舞うな。時間の無駄だ」
「祖父様、1日であまりにも変わり過ぎではありませんか? この状況はかなり恥ずかしいです」
「行いを正すなら早い方が良いに決まっている。それに孫を抱えて何が悪い」
『祖父様、開き直った!』
「むぅ、なんとなく納得いきません」
「お前にも都合が良いではないか」
「そうですが…」
昨夜、あれほど女性を侮った発言をしていたにも関わらず、侯爵は何事もなかったかのように振舞っている。
「ポルックス、事は急を要す。手短に話せ」
「はっ」
ポルックスは今日の予定について話し始めた。
「既に昨夜のうちにライ麦を栽培している農家には早馬を出しております。現地に到着次第、菌核のある株を見つけた畑に案内してもらう予定となっております。また、錬金術師ギルドと薬師ギルドにも、予定していた会議は現地にて行う旨を通達しておきました。こちらは道具などの手配もあるとのことで、現地集合といたしました」
「ポルックスさん、乙女たちも呼んでくださるかしら」
「手配済みです。彼女らを乗せた馬車は先発しておりますので、馬で向かう途中で合流できるかと」
この話を聞いて侯爵が不思議な顔をした。
「サラよ、乙女たちというのはなんだね?」
「私の許で働く女性たちです。ギルドに未登録ではありますが、錬金術師と薬師がおり、蒸留釜を作る職人もおります」
「ふむ…なんともサラらしい人材だが役に立つのか?」
「祖父様がご覧になった菌核のできたライ麦ですが、錬金術師と薬師は見ただけで毒麦と判断しましたよ?」
「そうか、サラが言うのであれば実力も問題ないだろう」
『私への信頼度が物凄く高くなってない? 転生者だってわかったからかな?』
サラは釈然としない気持ちを抱えつつも祖父の馬に同乗し、麦角菌に侵されたライ麦を栽培している畑へと急いだ。
途中で休憩を挟みつつ4時間ほど馬を走らせると、目的地の畑へと到着した。錬金術師ギルドと薬師ギルドの関係者、および乙女たちの馬車は先に到着しており、作業場所となるテントを設営していた。馬を降りた侯爵はギルド関係者に声を掛けた。テオフラストスとアレクサンダーの姿も見える。
彼らは通達を受けてから夜を徹して準備を行い、夜明け前には荷車と共にこちらに進発していたらしい。
その近くにはこの畑を管理している農民の姿もあったが、戸惑っているのか遠巻きにしてその様子を見ていた。
「苦労をかけるな」
テオフラストスは侯爵の前に歩み寄り、菌核のあるライ麦の株を差し出した。
「侯爵閣下、私は錬金術師ギルドを代表するテオフラストスと申します。さっそくで恐縮ではございますが、こちらをご覧いただけますでしょうか」
「ふむ。既に麦角菌に侵されておるな」
「はい。これは先程この近くで採取した麦の株でございます。このあたり一帯のライ麦は、ほぼ刈り取ってしまうほかないように思われます」
すると、近くにいた農民が駆け寄り、侯爵の足下にひれ伏した。
「侯爵様、それらをすべて刈り取ってしまえば、私たちの生活は立ち行きません。どうか黒い種子が出た麦以外は、残していただけないでしょうか」
「其方は誰だ?」
「この一帯を取りまとめているジェイドと申します」
「ふむ。ジェイド、そしてそちらに控えておる農民たちにも通達する。この辺り一帯のライ麦はすべて刈り取り、来年も麦を植えることは許さぬ」
「そんな!! どうかご勘弁ください。それでは私共は飢えて死ぬしかなくなります」
ジェイドは涙を流しながら訴えた。近くにいた農民たちも一斉に頽れている。
「祖父様、それしか言わないのでは彼らが気の毒ではありませんか」
「いや、これから説明するところなのだが」
「先に泣かせてしまったら、最後まで聞いてもらえないかもしれないではないですか」
サラは馬から降りて、ジェイドの手をとって立ち上がらせた。
「ジェイドさんも、農民の皆さまも最後までお聞きください。確かにライ麦は刈り取ってしまいますが、その分はすべてグランチェスターが補償します。来年、状況によっては再来年についても、必ず皆さまの収入は補償いたしますのでご安心ください。ですよね? 祖父様」
発言を促された侯爵は、農民たちの前に歩み出て語り始めた。
「その通りだ。これは麦に感染する疫病のようなものだそうだ。放っておけば他の麦にも感染が広がってしまうのだ。私はこの領全体の麦を守るため、ここにあるライ麦をすべて刈り取らねばならぬ。また土にも疫病がのこるため、来年も麦を植えることを控えねばならんのだ」
一呼吸おいて、さらに侯爵は語り続ける。
「しかし、これまで痩せた土地で苦労し、やっとの思いで育てたライ麦を捨てねばならぬお前たちの気持ちは察して余りある。その気持ちに少しでも報いることができるよう、これらの麦は本来実ったであろう麦と同等の価格で買い取ることを約束する。来年も同額を支払おう」
すると侯爵はサラを抱え上げ、耳元で「お前の思いも彼らに告げてやれ」と囁いた。
「改めて皆さまにご挨拶いたします。私はサラ・グランチェスターと申します。こちらでライ麦を栽培することになった経緯を教えていただけませんか?」
サラの問いかけに対し、ジェイドはサラと視線を合わせて答えた。
「私が推進したのです。もし責任を取る必要があるのでしたら、私一人を罰してください」
『あ、まずい誤解されてる!』
「何を仰るのですか。貧しい土地でも育つ品種を求め、創意工夫された方を称えこそすれ罰するなど! とんでもないことでございます」
「私をお許しいただけるのでしょうか?」
サラは侯爵の肩をたたいて、「下ろしてください」と囁いた。侯爵は渋々といった風情でサラを下ろした。
「罪など最初から存在いたしません。ライ麦が有用な作物であることは理解しておりますし、疫病の発生は運が悪かったに過ぎません。それよりも痩せた土地を諦めることなく耕し、これだけの広さの畑とされたこと、グランチェスターの人間として皆さまに深く感謝申し上げます」
サラはジェイドを始め、この土地の農民に対して深々と頭を下げた。まさに最敬礼とも呼べるカーテシーであった。