ライ麦畑で事件勃発
夕食後、昨日と同じ自習室に入ると、既にメイドたちがお茶を用意していた。
執務メイドのトップであるイライザが前に進み出て、サラを本日の席まで誘導した。席の後ろには大きな黒板があり、板書をするメイドと紙に書きとるメイドが2名脇に控えている。
よく見れば本棚からは、ロバートの本は片付けられていた。
『仕事早いな。本人かな? それともメイドさんたちかな?』
しばらく待っていると、レベッカやロバートも入ってきた。
「ごきげんよう、伯父様、レベッカ先生」
「やぁサラ、連日の呼び出しすまないね」
「ほんとうよ。昨日はサラさんが寝てしまうまで会議をしたのよ!」
「申し訳ないのは承知しているのだが、文官たちがどうしてもと聞かなくてな」
そんな話をしていると、文官たちが部屋に入ってきた。今日は5名だ。メイドたちも合わせると、部屋が狭く感じるくらいの人数である。
「今日はカストルさんとポルックスさん、それにワサトさんもご一緒なのですね」
するとワサトは驚いたように「私の名前を憶えていてくださったのですね」と答えた。
「時間もあまりありませんので、会議を始めてしまってもよろしいでしょうか? なにせ昨日は途中で私は眠ってしまったので…。 申し訳ありません」
「いえいえ、サラお嬢様に無理をさせているのはこちらですので」
ジェームズが恐縮する。
「でも私をお呼びになった理由があるのですよね?」
「仰る通りでございます」
ジェームズは手元のメモを見ながら、議題を挙げていく。
「1つ目は執務室にメイドを入れる許可をいただけたこと、2つ目は錬金術師ギルドと薬師ギルドからパラケルススの実験室の見学を許可して欲しいという依頼がきたこと、3つ目はサラお嬢様の商会設立について、4つ目は麦の収穫量が以前の予想を上回りそうなこと、5つ目は麦に怪しげな変異種が混ざっている。以上です」
『まって、最後のが一番ヤバいかも』
「ジェームズさん、一番最後の議題がとても気になるので、最初に話をしましょう」
するとポルックスが、細長い箱を取り出し、中からほんのり黄色くなりつつある麦を取り出した。
「これなのですが」
サラが近づいてみると、穂の中に黒い突起があった。
『やっぱりそうだ。これは麦角菌だ』
「ポルックスさん、これはどこで見つかりましたか? どのくらいの範囲で影響が出ていますか?」
「サラ、これが何かわかるのかい?」
「正確を期すため、これは錬金術師ギルドに解析を依頼すべきですが、おそらく麦角菌に侵された麦です」
「麦角菌?」
「麦類に寄生するカビのようなものだと思ってください」
慌てたポルックスが、穂にある黒い突起を観察し始めた。
「この部分がですか?」
「それは菌核と呼びます。ですが、既にこの麦の株全体が毒です。この麦がある場所はすべて除去しなければなりません。それに土壌にも汚染が広がっている可能性も高いです」
「なんだって! サラ、もっと詳しく教えてくれないか」
「多少の知識はありますが私は専門家ではありません。そうですね…急いでアリシアさんとアメリアさんを呼びましょう。彼女たちなら私よりも詳しく知っているかもしれません」
「わかった、誰か呼んできてくれないか?」
するとメイドが2人連れ立って部屋を後にした。
「あの者たちは馬を使えますので、お嬢様方を馬車ですぐお連れするでしょう」
「ありがとうイライザ。助かるよ。ひとまず彼女たちが来るまでに、サラが知っていることだけでも教えてくれないか」
ロバートを始め、自習室にいるメンバーの視線がサラに集まっている。
「私が知っているのは、麦角菌はカビというかキノコのような菌類であることですね。麦角菌に汚染された小麦を口にすると、身体の痙攣、水疱、激しい痛み、手足の壊死、精神疾患などの症状がでます。また、妊婦が口にすれば流産や早産を引き起こすこともあります」
「な、なんだって!」
「小麦ですから大勢が同じ時期にパンなどで摂取することになります。そのため、しばしば疫病と勘違いされてしまうそうです。とても厄介なことに、成長するとこの黒い菌核から胞子が土の上に落ちて土も汚染されてしまうんです」
会議室の全員が沈黙した。
「お嬢様、パンとして焼いても、毒性は残るということですか?」
「はい。熱にも強いのでパンからも中毒症状は起きます。もちろん私の勘違いで、これは麦角菌などではないかもしれません。まずは専門家の意見を聞いてから対処すべきだと思います」
しかしポルックスはサラの意見をバッサリと切った。
「いいえ、最大限の安全策を取るべきでしょう。勘違いでもいくばくかの麦畑の収穫を無くすだけですが、放置して領の小麦畑全体に広がったら目も当てられません。ここは国の重要な穀倉地帯なのです」
ポルックスはテーブルの上に大きな領の地図を広げ、持っていた棒で領の南端を指し示した。
「このあたりは土壌がやせていて、普通の小麦がなかなか育たなかったのです。そのため数年前から、ライ麦を育てています」
『この世界でもライ麦って言うんだな。他にも名前被ってる植物多いよね。薬草とか』
「これはライ麦なのですか?」
「そうです。試験的に育てていたのですが、今年の麦は成長がいつもより遅く、こうした黒い種子ができてしまいました」
「では、今から早馬でその農家の方々に、その麦を絶対に食べてはいけないとお伝えください。そして、すべて処分することもお伝えください」
そしてサラはロバートの方を振り向いた。
「伯父様、この農家の方々は小麦をすべて失ってしまいます。しかも、このままの土壌では来年の麦を植えることもできません。金銭的な補償をしなければ生活していけません」
「それでサラはどうしたいんだい?」
「当事者と相談すべきではありますが、この麦はすべて商会で買い上げる形にしていただけませんか?」
「しかし毒麦だぞ?」
「扱いには細心の注意が必要ですが、毒は薬にもなることがあります。これについては、乙女たちと相談しますが、無理だった場合には必ず安全に処分することをお約束します」
麦角菌は陣痛促進剤や片頭痛の治療薬などに利用されることもある。実は幻覚剤のLSDの材料でもあるので、本当に扱いには注意が必要なヤバいモノなのだ。
「いや、補償は領ですべきだ。はっきりしたことが分かれば父上と相談する。これを薬の材料にするかどうかは、錬金術師ギルドと薬師ギルドから意見をもらってから決めることにするよ」
「承知しました。では、そちらの対応は伯父様にお願いいたします」
ワサトがおずおずとサラに尋ねた
「サラお嬢様、麦角菌はライ麦にしか感染しないのですか?」
「残念ながら他の小麦にも感染する可能性はあります」
「では他の小麦も検査すべきですか?」
「膨大な領地全体を検査するのは大変なことは承知しています。ですが、実施すべきでしょうね。すべての小麦農家に協力を仰ぐことになるかもしれません」
ワサトはしばし考え込み、「それでは明日の朝に早馬を出して農家の名主たちと会合を開くことにします」とだけ答えた。
そこにノックの音が響き、許可を出すとアリシアとアメリアが入室してきた。
「お嬢様から急ぎのお召しと伺い罷り越しました」
年上のアメリアが代表して挨拶をする間、アリシアは後ろで頭を下げている。
「二人とも楽にしてもらえるかしら。急いで見てほしいものがあるの」
「「承知しました」」
麦角菌に侵されたライ麦の箱を二人の前に押しやると、二人の顔が同時に引き攣った。
「こ、これは黒死麦ではありませんか! まさかグランチェスター領にも悪魔が来たのですか?」
アメリアが激高する。
『おっと、悪魔ときたか…。まだこの世界では麦角菌は知られていないのか?』
「アメリアさん違うわ。黒死麦っていうのは、病魔に侵された麦のことよ。悪魔のせいじゃないわ。数年前にアカデミーで論文が発表されて、今では研究している錬金術師たちも多いのよ」
「まぁ! そんな研究があるのですね。それは資料を是非読んでみたいです」
薬師と錬金術師では、同じものを見ても同じ答えになるとは限らないらしい。サラはそれがとても好ましいと感じた。多様な視点はとても重要だ。
「それは私も読んでみたいわね。私の知識では、これは麦角菌に侵されたライ麦よ。麦角菌は、カビなどと同じ菌類で、この黒いものは菌核。ここまではアリシアさんの知識と一致しているかしら?」
「麦角菌という呼び方は初めて聞きましたが、おそらく菌類であろうことは論文にも書かれていました」
「どんな症状がでるかわかるかしら?」
これにはアメリアが答えた。
「私が知っている黒死麦であれば、皮膚に水疱ができて、酷い痛みがでます。手足が壊死したり、幻覚を見ることもあるとか」
「ええ私の知識でもそうよ。あとは子宮の収縮作用があるせいで、妊婦が流産したり早産したりすることもあるわ」
「たしかに、黒死麦を食べた地域では、流産する女性も多いと聞いたことがあります」
アリシアとアメリアの言葉を聞いて、会議室全体の空気が重苦しいものに変わった。どうやらサラの勘違いであって欲しいという願いが叶わなかったようだ。
「伯父様、やはり間違いないようです。彼女たちが一目見て断定した以上、明日にも錬金術師ギルドと薬師ギルドの方々を招集してください。一刻を争います。手遅れになる前に対処しましょう」
「わかったよサラ。緊急招集の早馬を今から出す。明日の朝一から会議としよう」
サラは少し考え込み、乙女と執務室のメイドに質問した。
「パラケルススの実験室がある塔は、どのくらい片付いたかしら?」
これにはイライザが「図書館と実験室の掃除は終えています。図書室にある会議室も掃除は終わっています」と答えた。
「では議題の二つ目も一緒に解決するため、会議は塔でやりましょう。彼らのやる気が出るなら、好きなだけ見学してもらおうじゃありませんか」