戦略的撤退
夕食は基本的に家族全員が揃って食べるため、侯爵、伯父、伯母、従兄妹たちと同じテーブルを囲むことになる。つまり、サラにとっては、気が重く消化に悪そうな食事ということだ。なお、貴族は夜会など夜の社交も多いため、朝食や昼食を揃って食べることは稀である。
そんな居心地の悪い夕食の最中、侯爵がサラに話しかけた。
「サラ、私に話があると聞いた。夕食後に執務室にきなさい」
「はい。祖父様」
その発言に伯父と伯母も反応する。
「おや、サラは父上に何の用事があるんだい」
「ドレスやアクセサリーなら、私に相談してくれてもいいのよ」
どうやら、サラが直接侯爵に願い事をするのがお気に召さないらしい。伯母は猫撫で声で話しかけつつも、サラを見る目が全く笑っていない。おねだりしたところで絶対に買ってくれないだろう。
「私、領地に住みたいんです。お父様が子供の頃に過ごしたグランチェスター領をこの目で見て、この肌で触れたいのです。それに私のようなマナーも知らない平民の娘がいると、伯母様もお茶会を催しにくいのではないかと思って」
子供の頃のアーサーは身体が弱く、アカデミーに入学するまで母親である侯爵夫人と一つ上の兄であるロバートと共に領地の邸で過ごしていた。その頃の思い出を、父は何度もサラに話していた。もっとも、自分が貴族であることは隠し、単なる田舎の少年のような口ぶりであったが。
「あら、そんなこと気にしなくてもいいのに。でも、確かに領地の自然に囲まれた生活はサラさんに向いているかもしれないわね」
サラを追い出せる好機と見たのか、伯母も畳みかけるようにサラに同意する。娘のクロエも「サラには田舎暮らしがピッタリだわ」など母親に同調した。
「ふむ。詳しい話は食事の後にしよう」
夕食後、侯爵の執務室へと向かう途中、アダムが立ちふさがった。
「おい平民。領地に行けば好き勝手できるとでも思ってるのかよ」
「そんなこと思ってないわ」
「叔父上は甘くないぞ。あの方は、いつも勉強しろと煩いんだ。お前には特別厳しくあたるはずさ」
どうやらもう一人の伯父は教育熱心なタイプらしい。従兄妹たちには煩わしいかもしれないが、学習したいサラには好都合である。
「ご親切な忠告ありがとうございます。ですが、今は祖父様に呼ばれておりますので、急ぎお伺いしなければなりません。アダム様に呼び止められたために遅れたなどと申し上げるのも憚られるのですが……」
「くっ、さっさと行け」
アダムを適当にあしらい、サラは侯爵の執務室へと向かった。
「祖父様、時間を割いていただき、ありがとうございます」
「それは構わんが、本当に領地に行きたいのか」
「はい。末端ではありますが私もグランチェスターの血を引くものとして、このままでいるわけにはまいりません。祖父様をはじめ、皆様にご迷惑をおかけしないよう、自分を鍛える必要があると愚考いたします」
「なんとも大人びた物言いだな。お前はまだ8歳だと思ったのだが」
この世界のマナーには精通していないが、とにかく侯爵の機嫌を損ねることのないよう、礼儀正しくしておこうと考えた結果だったのだが、どうやらやり過ぎたらしい。
「商家で育てば言葉遣いには自然と気を遣うようになります」
「あれは商家というより、商店といった方がしっくりくる規模だったが」
「母は常に向上心を持つことが大事だと教えてくれました」
だいぶ話は盛っているが、決して嘘ではない。正確には「お客様には丁寧に接してね」「将来はもっと大きなお店にしようね」という発言だったのだが、概ね同じ意味と言えないこともないだろう。
「ふむ。まぁ良い。自分を鍛えるということは、家庭教師も必要ということだな」
「はい。お許しいただけるのであれば。まずは侯爵家に属する人間として恥ずかしくない教養と、立ち居振る舞いを身に着けたく存じます」
「なるほどな。ではガヴァネスを手配することにしよう」
「感謝いたします。祖父様」
侯爵はあっさり領地行きを許可してくれた。おそらく祖父自身も、サラをどのように扱うべきか悩んでいたのだろう。
領地にいるロバート伯父がどういう人物なのかがわからないことに一抹の不安はあるが、イジメのない健全な生活と学習の機会をゲットすることに成功したようである。