意外なところにチートが潜んでいた
収穫は大きかったが、ちょっぴり恥ずかしい朝食の時間を終えると、レベッカとサラは音楽室に移動した。淑女の嗜みの一つに室内楽の演奏というものがあり、いくつかの楽器を演奏できるようになっておく必要があるのだそうだ。
不思議なことに、この世界の楽器は前世と非常によく似ていた。部屋にはグランドピアノのような楽器が置いてあったが、鍵盤蓋を開けてみれば黒鍵と白鍵があり、更紗時代のグランドピアノにしか見えない。
「この楽器は『ピアノ』よ。これを作れる工房は、この国に1軒しかないせいで、貴族の家でも置いているところは少ないわ」
『え、名前もピアノなの??』
「希少な楽器なのですね」
「このピアノはグランチェスター侯爵閣下が、奥様のために特別に注文されたそうなのだけど、完成する前に奥様が儚くなってしまわれたので、ほとんど弾くひとがいないままここにずっとあるそうよ」
「もったいないですね。でも祖父様が大切にされているのであれば、弾いてはダメですよね?」
「いいえ。侯爵閣下は誰かに弾いて欲しいそうよ。息子たちは3人とも音楽的な素養は全然なかったから」
「なるほど」
レベッカは屋根を上げて突き上げ棒で支えると、鍵盤前の椅子に座った。足元に3つのペダルがあるところまで、そのままである。
「職人が定期的に調律はしているそうだから、すぐに弾けるわ」
レベッカは訥々とピアノを弾き始めた…というより端から音階をなぞった。これまでレベッカは大抵のことを素晴らしい腕前で披露することで優れた見本を示してくれていた。そのせいでピアノも華麗に弾きこなすことを期待してしまっており、サラはちょっぴり残念な気持ちになった。
「何か演奏はされないのですか?」
「実はピアノは得意ではなくて…。でもサラさんが興味を示していたので説明だけでもと」
ちょっぴりレベッカの顔が赤い。どうやら苦手なことにチャレンジさせてしまったらしい。
「私も弾いてみていいでしょうか?」
「もちろんよ」
サラが鍵盤の高さに合わせて椅子を調節していると、マリアが隣室にいた音楽室の専属メイドを呼び、ピアノの補助ペダルをセットした。
『うわ、補助ペダルとか本格的。これって前世持ちの人が開発したのかな?』
座ってみると妙に落ち着いてきた。
『あれ…更紗の頃の私って、ピアノ習ってたかも』
仕事に関係しない部分の記憶はぼんやりとしか思い出せていなかったはずなのに、ピアノの前に座った瞬間に、子供の頃にピアノ教室に通っていた記憶がぐるっと脳内を駆け巡った。
ぐるぐるとした前世の記憶ラッシュが落ち着くのをまち、少しだけ乱れた呼吸を整える。サラの様子がおかしいことに気付いたレベッカが声を掛けようとした瞬間、サラは腕を上げてピアノを弾き始めた。
それはベートーベンのピアノソナタ第14番 嬰ハ短調「幻想曲風ソナタ」、いわゆる「月光」と言われる曲だった。
『あれ、おかしい…私こんなにピアノ上手じゃなかった。この曲だって好きだから練習してみたけど、全然指動かなかったはずなのに』
更紗の頃には子供の習い事レベルの腕前でしかなかったはずなのに、サラの指は脳内でイメージした通りの演奏を難なくこなしてる。きっちり暗譜していたわけでもないのに、何故か身体がきっちりと曲を覚えているかのような演奏になった。
『え、え、え、まさかここにきて音楽チート????』
若干パニックになりつつも、第一楽章を弾き終えて立ち上がった。振り返るとレベッカの顔は貴族的な笑顔を浮かべており、マリアと音楽室のメイドは目を真ん丸にしたまま固まっていた。
「サラお嬢様はピアノの経験者でいらっしゃったのですね。そのお歳でなんと素晴らしいのでしょう!」
ショックが過ぎると、音楽室のメイドは涙を流し始めた。
「え、どうなさったの? 何故泣いているのですか??」
メイドがさめざめと泣いているのを見れば、サラも冷静ではいられない。具合でも悪いのかと、慌てて駆け寄った。
「このピアノは誰にも弾かれることなく、ここでずっと演奏者を待ち続けていたのです。やっと運命の相手に巡り会ったようです」
「え、そんな大袈裟な話ではないですよね? 私は試しに弾いてみただけです」
すると背後からレベッカも声を掛ける。
「サラさん、その説明は無理があると思うわ。お嬢さん、名前を教えてくれるかしら?」
「わ、私はジュリエットです」
「そう。ジュリエット。サラさんは多才な方だから、ピアノだけで泣くほど驚いている場合ではなくてよ。他にもどんな楽器があるか見せていただけるかしら?」
「は、はい。承知しました」
ジュリエットは、楽器のしまってある戸棚へと移動し、革製のケースを運んできた。その形から、たぶんヴァイオリンのような楽器であることが予想できた。
「こちらはヴァイオリンです。ちょっと古いものなのですが、試し弾きされるのであれば、弦を張らせていただきますし、弓と松脂もご用意いたします」
「いいえ、私ではこの楽器は大きすぎます。もう少し成長してからでないと無理でしょう」
「確かに、仰る通りですね」
『やっぱりヴァイオリンかぁ。これは絶対に前世持ちの仕業だ。しかも職人の!』
ヴァイオリンを持ち上げて矯めつ眇めつすると、くびれの部分がシェイプで駒の下のふくらみが大きい。f字孔はやや歪である。
『うん、なんかヤバい予感しかしない。まさかね…ボディの中にIHSのロゴあったりしないよね?』
サラはヴァイオリンを習ったこともなければ、詳しい知識もないはずなのだが、『デル・ジェズ?』などよくわからない知識が、脳内にぐるぐるしはじめた。
『あれぇ? なんだろうこの知識、昔本で読んだりしたのかな。なんかヤバそうなチートが発動してるかも?』
「サラさんには、子供用のキタラあたりを練習してもらおうかと思ったのですが…その調子だと不要かもしれませんね。貴族令嬢にピアノをあそこまで弾きこなす方は見たことがありませんから」
「オルソン令嬢、ピアノはどこのご家庭にもあるものではありませんので、子供用のヴァイオリンとキタラをお持ちします。管楽器もいくつかございますが、サラお嬢様の体格では、少々重いかもしれません」
「そうね、お願いしようかしら。それと、私のことはレベッカと呼んでちょうだい」
「承知しました。レベッカ様」
ジュリエットが持ってきた子供用の楽器を試した結果、ヴァイオリンはプロ並みに演奏できてしまったが、キタラは子供の拙い演奏しかできなかった。
『もしかして更紗の頃に見たことがあって、演奏をイメージできるものじゃないとだめなのかな?』
「ひとまず、ピアノとヴァイオリンがそこまで弾けるのであれば、音楽の練習にあまり時間を割く必要はないかもしれませんね」
そのレベッカの発言にショックを受けたのはジュリエットであった。
「そ、そんな折角こんなに素晴らしい奏者がいらっしゃるのに。演奏されないと仰るのでしょうか。後生でございます、どうかお暇があれば、こちらに立ち寄ってピアノを演奏していただけないでしょうか? このままではピアノが可哀そうです」
「いいわよジュリエット。私でよければ弾かせてもらうわ。それほど頻繁には来れないと思うけど、ピアノの演奏を趣味にするのは悪くない気がするもの」
サラは絵画の才能が全くなかったため、自分には芸術面の才能はないのではないかと思っていた。しかし、意外にも音楽はチートと呼べるレベルの才能があったことが判明し、こっそり胸をなでおろした。
『よかった。ひとまず貴族令嬢の趣味にできそうなことがあったよ!』