だから、本当にこの子誰なんだよ
アリシアが自分の研究室に籠ると、サラは手持無沙汰になった。そろそろ王都のグランチェスター邸に戻ろうかと席を立ったところで、ゴーレムからアダムの到着が知らされた。
「え、まだ始業時間には早いわよ。随分と熱心ね」
「アカデミーの試験対策です。昨日の書き取りの授業中に間違った箇所を復習された後、日課の数学に取り組まれるご予定かと」
「アダムが数学を日課にしているの? そういえば、アダムは数学が苦手なんだっけ」
「以前は苦手でしたが、今は得意科目と呼べるレベルです。数学だけならアカデミーの試験でも上位に入れるのではないでしょうか。先日のテストではスコット様よりもアダム様の方が高得点でいらっしゃいました」
「いつの間にそんなことに?」
「マギに毎日数学の問題を出すようお命じになってから、驚く程学力が向上しております」
「毎日?」
「はい。毎日100問を出題しております。間違いが多い日には、追加の出題を求められることもございます。必ず引っ掛け問題を入れておくよう仰せでしたので、ランダムに誤答しやすい問題を混ぜておりますが、正解率は高水準を保っておいでです」
「数学の百本ノックをさせてるってこと? 確かにアカデミーの低学年くらいまでの数学なんて、筋肉で解くようなものだものね」
「申し訳ございません。サラお嬢様は『ノック』という単語を、扉などを叩く動作とは別の意味でご使用になられていると判断いたします。具体的にはどのような意味があるのでしょうか?」
「何て説明すればいいかな。前世の球技の守備練習方法で、捕球して送球する動作を何回も繰り返すの。本来は百本どころか『千本ノック』って呼ばれてたんだけど、本当に千回くり返す人はあまりいないと思うわ。で、それを転じてひたすら同じ動作を繰り返しやらせることを、千本ノックって呼ぶようになったの」
「なるほど。是非、前世の競技などについて教えていただけますか?」
「そのうち時間が取れたらね。古い競技からヘンな言い回しができることもあるのよ」
「リヒト様も似たようなことを仰せでした」
「でしょうね」
「いずれにしましても、数学の反復練習は裏切りません。既にアダム様は呼吸するように因数分解ができるようになっております」
「意外にマギっていい教師ね」
「意外だと思われていたことの方が意外です」
「言われてみればそうね」
ゴーレムと会話しているうちに、アダムが図書館のエリアまで上がってきた。
「サラ、またこっちに戻ってたのか」
「自分の家に戻ってくるんだからいいじゃないの」
「まったく。クロエも一緒か?」
「ううん。今日は私だけよ。アリシアに相談があったの。そうだ、リヒトとアメリアを王都に連れて行ったわ」
「ゴーレムから聞いてる。どうやら王都でも始まったようだな」
「ええ、そうみたい」
そこに、客間からマーグも姿を見せ、凛とした声でサラに尋ねた。
「おはようサラ。話が聞こえちゃったんだけど、王都でも熱病が流行しはじめたようね。ねぇ、王都にもスラムはあるの?」
「当然あるわ。それも一つや二つじゃないわ。リヒトから聞いた話だけど、グランチェスター領のスラムなんて王都のスラムから見たら恵まれてる方なんですって」
「そう……」
マーグは憂いを含んだ眼差しで窓を見つめた。乙女の塔の中は暖かく、窓は曇っているため外の様子をはっきりと窺い知ることはできない。だが、塔から一歩でも出れば、ぼたぼたと大きな雪が降っていることを知っている。
「冬は大勢の人が亡くなるわ。熱病だけじゃなく、寒さや空腹で次々と」
「知ってる。私も死にかけたから」
「そうだったわね」
アダムはマーグに近づいて手をぎゅっと握り、俯いたままボソリと呟いた。
「貧困を根絶するのは難しい。領やソフィア商会の炊き出しも、結局は一時的な効果しか得られない。僕たち領主一族でも、領民を全員助けることはできないんだ。それでも手を動かし続け無いといけないんだと思う。だからマーグ……僕を助けてくれないか? 僕には見えない景色がマーグには見えてるんだろ」
「うん。一緒に頑張ろうね」
『えーっと……、もしかして私って邪魔者?』
サラは恋人同士の邪魔をしないよう部屋を後にしようとしたが、その背中にアダムが話し掛けた。
「サラ、お願いだ。もっと僕に色々なことを教えてほしい。厚かましいことは理解してる。だけど僕は、今こそ変わらないといけないんだ。どんなことをしても、誰に頭を下げることになったとしてもだ」
サラは、アダムが本気で変わろうとしていることを疑っていない。だが、実際にアダムのせいで死にかけた身としては、少しばかり辛辣な言葉を紡ぐのも義務ではないかと思い始めた。
「あなたたちの借金を補填するため、伯父様に融資をした私にすらアダムは頭を下げなかったよね。そんなあなたが本当に誰かに頭を下げられるの?」
「もちろんだ。学びを与えてくれる相手は誰であっても尊敬すべき師だ」
「ふーん。世界は広いし、学べることは無限にあるわ。いろいろな人からいろいろなことを学ぶことができると思う。だけどね、皆が正しいことを教えてくれるとは限らない。間違ったことを教える人もいるわ。正しい答えなんてない問題もたくさんあるしね。だからアダムは何を学ぶのか、あるいは学ばないのかを常に取捨選択をすることになるわ。もしかしたら、あなたが尊敬する人の意見に逆らう日が来るかもしれない」
「うん。そうだな」
「だけど、決断するのはいつだってアダム自身よ。他の人の責任じゃない」
「わかってる」
あまりにも優等生なアダムに、サラは意地悪なことを言いたくなった。
「もちろん私が正しいことを言うとは限らないわよ」
「そ、そうかもしれないけど……」
「将来のグランチェスター侯爵の座を放棄してしまえば、もっと楽かもよ?」
するとアダムはふっと笑った。
「サラ、そういう誘導にはもう引っ掛からないよ。領主であるかどうかは重要じゃない。僕は誇り高きグランチェスター家の一族の直系であり、グランチェスター領を守る責任がある。その責任を果たさないのなら、領主一族を名乗るべきじゃない」
「ではあなたの名前は?」
「僕はアダム・グランチェスター。この地の領主であるグランチェスター侯爵の直系男子だ。とても恥ずかしいことではあるけど、僕は親もなく家もない子供があれ程辛い思いをしてることを最近まで知らなかった。僕はスラムの子供たちを見て、自分がサラにどれくらい酷いことをしたのかをやっと理解できた。冷たくして本当にごめん。イジメてごめん。心から反省してる。謝ったからって許してくれるとは思ってないし、本当ならこんなこと言う資格はないって解ってるけど、それでもサラの力を貸してほしい」
『ま、待って。アダムの進化が早すぎて理解が追い付かない。コーデリア先生の洗脳がキマってるのはわかってたけど、マーグのせいで加速した?』
とても良いことを言っているはずなのだが、"あの"アダムの発言であるとは俄に信じがたい気持ちになる。
「アダム、随分変わったのね」
「そうなのかな。自分ではよくわからない。難しいことや面倒なことを避けることが当たり前になっていて、自分でちゃんと考えてなかったとは思う」
『本当にコレがあのアダム?? 薬物使用を疑うレベルの激変ぶりだわ。もしかしたら、ヘンな魂に憑依されてない? コーデリア先生はここまでの変化を想定してたのかなぁ。そう考えると怖い人かも』
不安になったサラがそっとマーグの方に振り向くと、マーグは誇らしげな表情で微笑んでいた。
『うわぁ、幸せオーラが出まくってる。元々綺麗な子だとは思ってたけど、ますます磨きがかかってきてるわね。アダムをここまで変えちゃうなんて、やっぱり愛の力は偉大だわ。だけど、まだ合格点は出さないわよ』
「アダム、私は商人よ。利が無ければ手を貸すことはないわ」
「サラもグランチェスターだろ? それに、これまでも沢山助けてくれたじゃないか」
「確かに私は祖父様や伯父様たちを助けたわ。その代わりにソフィア商会を立ち上げ、王室や沢山の貴族家に繋いでいただいたの。両者に利があるからよ」
「家族は助け合うものだろ?」
「私を平民扱いして差別したアダムが、いまさら私を家族と呼ぶの?」
「それは……」
アダムはしょんぼりと俯いた。だが、隣にいたマーグはアダムとは逆にきっちりと顔を上げ、サラに向かって優美に微笑んでみせた。
「サラの言うとおりだと思うわ。どちらか一方が手助けするような関係は健全じゃない。母と私たち姉妹は、父や兄に依存して生きてた。だけど、彼らは自分たちが危なくなったら、私たちをあっさりと捨てた。他の文官も妻子を捨てて逃げた人は多いって聞いているわ。アダム、今の私にも『家族は助け合う』って言葉は胸に響かない」
「そうだな。僕はまた甘えようとしてたみたいだ。サラ、今すぐ答えはでないけど、ちゃんと両者に利があることを考えるよ」
「わかった。その時は改めて話を聞かせて」
『あれれ? もしかしてアダムって祖父様や伯父様よりも領主向きなんじゃ……』
サラは王都に戻るために自室への階段を上がりつつ、思わぬ方向に進んでしまった思考が怖くなって首を大きく横に振った。
『いやいや、騙されないわよ。アレはアダムなんだから!』
サラが去った後、トマシーナの淹れてくれたお茶を飲みながらアダムはマーグに少しだけ弱音を吐いた。
「サラは相変わらずキツイなぁ。自分がやったことを許してもらおうとは思わないけど、クロエみたいに協力し合える関係になれればいいんだが……」
「うーん。私にはサラが凄く優しい女の子に見えるよ。本当に利だけを考える商人なら、アダムに自分で考えさせたりするはずがないもの。私たちが大人になったときに困らないよう、教えてくれてるんじゃないかな」
マーグの指摘にアダムは目を見開き、自分の考えの浅さに落ち込んだ。
「はぁぁ……。こんなことも僕はマーグに教えられないと気付けないんだな。本当に視野が狭くて自分がイヤになるよ」
「だから勉強するんでしょ。アダム、アカデミーでいろいろなことを学んできてね」
「わかった。マーグが知りたかったいろいろなことを僕が学んでくる。戻ってきたらマーグにも教えるよ」
「間違って憶えてこないでよね」
「ははは。そうならないよう頑張るよ」
かつてロバートとアーサーがアカデミーに入学するとき、今のアダムと同じ台詞をレベッカに言っていたことを二人は知らない。その約束があったからこそ、ロバートは4年で卒業した。なお、アーサーは一足早く3年で卒業できるだけの単位を取り終えていたが、ロバートに合わせて4年で卒業している。
「私もレベッカ先生たちの学校で勉強するつもりよ」
「正直、そっちの方が面白そうなんだよなぁ」
「じゃぁ後で教え合うことにしよう!」
優雅にお茶を飲むマーグを見ていると、先日まで少年の姿をしてスラムを走り回っていたことが夢だったように感じられる。実際にスラムにいたマーグを自分の目で見たはずなのに、まるで蛹から羽化した蝶のように見知らぬ女の子がアダムに笑いかけている。
『毎日逢っているのに、毎日恋に落ちてる気がする……』
世の中には恋愛のせいで勉学や仕事が疎かになる人も多いと聞くが、アダムにとっては頑張る原動力になっているらしい。おそらく、グランチェスター男子の特性なのだろう。
お茶を飲み終えたアダムとマーグは、18号が授業の用意をしている教室へと向かった。いつもの自習を終えた頃には、トマス先生に引率されたスコットとブレイズがやってくるだろう。もちろん、本邸からはクリストファーも来るはずだ。
本邸やジェフリー邸と乙女の塔を繋ぐ道は、ゴーレムによって除雪されている。より正確に言えば、ゴーレムたちは集めた雪で乙女の塔の周辺に雪像や子供向けの遊戯具を作り続けている。
なお、グランチェスター城の地下には雪を利用した貯蔵施設があるため、ゴーレムはそちらにも雪を運んでいることをアダムは最近知った。今年の冬はゴーレムのお陰で楽だと、本邸の使用人たちは頻繁に話題にしている。家にもゴーレムがほしいという者も多い。
「サラはいろいろなことを変えてしまうな。サラは僕がコーデリア先生やマーグのお陰で変わったと思っているらしいけど、本当に僕を変えたのはどう考えてもサラだ。まったくとんでもない従妹だな」
「アダム、それはちょっと妬けるわ」
「あ、いや、全然そんなんじゃないから」
「わかってる。だけど、あなたを変えたのが私じゃないのがちょっと悔しいの」
「無知だった僕の目を醒ましたのはサラだけど、変わらなきゃ駄目なんだって思わせてくれたのはマーグだよ。君を幸せにできる男になりたいんだ」
「あのねぇ、私はアダムに幸せにしてほしいなんて思ってないよ。私たちは一緒に幸せになるの!」
「そうか、そうだな。マーグ」
サラが見ていたら砂糖を吐きそうになるくらい甘い雰囲気の恋人たちは、仲良く一時間程度の自習を済ませた後、トマスから出された数学のテストで揃って満点を取った。そんなアダムの急激な成長を日々目の当たりにしているスコットとブレイズも、アダムやマーグに対抗意識を燃やして熱心に勉強に取り組んでいる。なお、クリストファーだけは、アダムの変化に我関せずといった風情で、マイペースを保ち続けている。
社交シーズンが始まる直前に行われるアカデミーの入学試験に向け、グランチェスターの男子たちは本格的な受験勉強へと舵を切った。彼らの教師となっているトマスは4人がアカデミーに合格することを疑っておらず、次の就職先についてサラと話をすべきだと考え始めている。
なお、4人の願書は既に提出済みである。
個人的に学び舎と恋愛の話はセットだと思っています。




