新しい帳簿の意義
一旦区切りたかったので、今回は短めです
「執務の効率が下がったことは承知しましたが、まったく進んでいないというわけでもないのですよね?」
「僕はともかく、文官たちは長年の経験もあるしね」
「それはそうですよね」
「私もベンも新しい帳簿にやっと慣れたという程度で、まだまだサラ様の域には及びませんよ」
「まったくです。どうやったら、あんな帳簿を思いつけるんでしょうね」
『いや、私が思いついたわけじゃないんだけどな……』
複式帳簿、あるいは複式簿記はサラの時代では当たりまえに使われていた。正確な起原は古代ローマや中世イタリアなど諸説ある。いずれにしても、この場で説明できるようなことではないので、笑ってごまかすしかないだろう。
「過去に不正会計があったという話を最初に伺ったとき、私は愚かにも帳簿と帳票を確認さえすれば、不正は簡単に明らかにできると考えました。どこかに矛盾があるはずだ、と。しかし実際に帳簿を目にした時、これでは無理だと判断しました」
「それはどうしてでしょう?」
「以前の帳簿は網羅性に乏しく、立証可能性が低いと感じたためです。これでは正確な財務諸表を作成することもできないと思いました」
「えっと、もう少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
ジェームズが不思議そうな顔をする。
『あれ? 複式帳簿を導入した意図がちゃんと理解されていない?』
「そうですね…帳簿にはすべての取引を漏れなく記録する網羅性が必要です。そうでなければ、その取引記録が正しいことを立証できませんし、経営状態を正確に把握する財務諸表も誘導的に作成できません。皆さまが過去の帳簿から不正を見つけることが困難だったのは、そのせいですよね?」
「はい。仰る通りです」
「それに国税は領の利益に対して課税されるのですから、資本取引と損益取引は明確に区別されなければなりません。しかし、このあたりも記録は曖昧で、担当した会計官によって対応もバラバラでした」
「なるほど。私は網羅性については理解しているつもりでしたが、立証可能性や誘導可能性については、まだまだ理解が及んでいませんでした」
『なるほど。勘定科目ごとに山ほどあった帳簿が、ある程度まとまっただけでも彼らには救いだったのね』
「新しい帳簿の導入目的は、網羅性、記録の検証可能性、そして経営実態を明確化する財務諸表を作成できる誘導可能性の確保です。そして方式を明確に規定することで、領の会計を継続的に秩序を持って記録できるようにしたかったのです。そういう意味では、帳票のフォーマットを統一することも、秩序の確保ではありますね」
これには統一フォーマット作成中のベンジャミンも賛同する。
「秩序…良い言葉です。帳票フォーマットの統一には諸方面から反発もあがっていたのですが、明日からは『秩序のためだ』と言い切ってやることにします」
「ああ、上から押し付けられると現場は反発しますよね」
「サラお嬢様、以前から思っていたのですが失礼を承知で申し上げてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「現場のたたき上げ文官みたいです…」
「ひどいっ!」
これには、サラ以外の全員が一斉に大爆笑した。メイドたちまで肩を震わせて必死に笑いを堪えている。
「では伯父様、私は文官として、それなりにお役に立てたということでしょうか?」
「ん? もちろんだよ。サラが居なかったら今頃どうなっていたことか」
「では伯父様、私にも報酬をお支払いいただけますか?」
「そうだなぁ、報酬は必要だよなぁ」
『ふっ、言質はとったぞ』
「伯父様、私は欲しいものがあります」
「なんだい? ドレスや宝石なら僕の私財でもなんとかなると思うよ」
サラはこれ以上ないほど晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「では私に新しい身分と商会をください」