旅立ちの朝
王都に旅立つ日、グランチェスター城は皆がいつもより早起きだった。
雪道でも走れる馬車とはいえ、途中の道は除雪しなければならない場所が多いため、昨日は夜を徹して王都に続く道を領民たちが除雪してくれていた。折角除雪してくれた道に新たな雪が積もってしまう前に、さっさと移動してしまわなければならないのだ。
もちろん除雪作業に従事してくれた領民には、領からいつもより多めの賃金が支払われ、ソフィア商会からも小麦粉が現物で支給された。物入りな時期だけに、こうした臨時収入は領民にとっても歓迎である。
サラとクロエは毛皮のコート、毛皮の帽子、そして手元は毛皮のマフという防寒着に身を包んでいた。ユキヒョウのような魔物の毛皮をサラが、セーブルのような獣の毛皮をクロエが着用している。
どちらの毛皮も昨年の狩猟大会でレベッカの兄であるフェリクスが仕留めた獲物である。実は今年の優勝者であるフェリクスは、昨年の優勝者でもあるのだ。どちらの獲物も更紗時代に見たことのある獣よりも2倍から3倍くらい大きく、これほど大きな獲物を弓矢だけで射止めてしまうフェリクスの腕前は驚嘆に値する。
もともとグランチェスター領の狩猟大会は、本格的な冬が来る前に肉や毛皮を得るために始まった催しである。同時に人を襲う危険な魔物や獣の個体数を減らす目的もある。ここ100年くらいですっかり貴族の社交のイベントとして認知されるようになったが、本来の目的が失われたわけではない。特にユキヒョウに似た魔物のデミイルビスはとても狂暴で、腹を空かせると人間の集落も襲う。冬前に個体数を減らしておかないと、集落が丸ごと無くなってしまうこともあるらい。
クロエが着用しているコートは、ジヴェリナという獣の毛皮らしい。おそらくマルカートが地球から持ち出した動物がこの世界に適応したのだろう。普段は野ネズミなどを食べているのだが、雑食なので人間が貯蔵している食糧が狙われることも多い。冬場には暖かい馬房や納屋などに勝手に住み着いてしまうこともあり、飼育しているタヴクなどの家畜が被害に遭うこともある。
残念ながらデミイルビスやジヴェリナは食肉には向かないが、その毛皮は貴族にも愛用される高級品である。そのため、なるべく少ない矢で毛皮をあまり傷つけずに狩ることを重視されるのだが、フェリクスは『獲物に二の矢を継がない狩人』と言われる名手である。普通の人では引くこともできないほどの剛弓を愛用しており、一矢で獲物の急所を的確に狙えるという。
フェリクスは、グランチェスター家に嫁ぐ妹の持参金の一部として、大量の毛皮をレベッカに譲り渡した。実際にはレベッカには自分の所領があり、ロイセンから謝罪として受け取った現金がある。さらに言えば結婚によって夫が爵位を得られるため、これ以上の持参金は必要ない。どちらかと言えば、グランチェスター家からオルソン家に支払わなければならないレベルである。
だが、レベッカと仲の良いフェリクスは、妹のために自分ができることをしてやりたいと強く望んだ。それならばとレベッカが欲しがったのが、フェリクスが保有している毛皮であった。フェリクスは妹のために最高品質の毛皮だけを選び抜き、荷馬車がいっぱいになるほどグランチェスター城に送ったのである。
こうしてレベッカが受け取った毛皮の一部が、サラとクロエの防寒具となった。もちろんソフィア商会としてレベッカから購入し、職人に防寒具として誂えさせた。サラは今の自分にピッタリなサイズで作ったらすぐに着られなくなると考えて、大き目のサイズで作ってもらった。その結果、サラは毛皮に埋もれるくらいモコモコな恰好になってしまったのである。暖かいが歩きにくく、コートを引きずらないように歩くだけで精一杯であった。
見送りに来ていたロバートは、よたよたと歩いているサラを見て堪えきれずに笑い出し、後ろからひょいっと抱え上げて馬車まで運んでくれた。
「エド、僕の娘を頼むよ」
「精一杯やるつもりではあるが、力が及ばなかったらすまん。王都が火の海にならないよう祈っててくれ。いや、まずは国王陛下の鬘を飛ばさないよう注意するところからか」
「エドワード伯父様、私が国王陛下に謁見する予定はございませんよ?」
「呼ばれることは目に見えている。お前だって王宮に参内するためのドレスを荷物に入れているだろう?」
「あれは王太子妃殿下に謁見するためのドレスです。アールバラ公爵夫妻にお会いするなら、おそらく王太子妃殿下にもお会いすることになるだろうと思って」
「やれやれ……そういうところはまだ子供だな」
エドワードは呆れたように肩をすくめ、自分も馬車に乗り込んだ。レベッカとエリザベスも馬車に近づいてきて、窓越しに会話を交わす。
「サラ、あなたの誕生日の少し前には私とロブも王都に行くわ。それまではあまり無茶しないで頂戴ね」
「はい。お母様」
サラは微笑んで頷いたが、レベッカは心配で仕方がない。
「クロエもジャスミンドレスのお茶会以外の社交の誘いは断りなさい。女性だけの集まりでもダメよ。アダムは予想よりも回復が早いから、私もそれほど遅くならずに王都に着くと思うわ」
「はぁい」
「お返事はきちんとなさい!」
「申し訳ありません」
どうやら心配なのはエリザベスも同じらしい。
「リズ心配するな。クロエのことは私が守る。……たぶんサラも大丈夫……だよな?」
「伯父様、何故そこで自信なさげに話されるのですか。両親が心配してしまうではありませんか!」
サラが憤慨すると、ロバートとレベッカは顔を合わせてお互いに頷いた。
「うん。エドがそんな風に言うのは仕方ないと思うな」
「サラ…あなたの普段の言動を考えたら、エドだってこうなると思わない?」
「お二人とも酷い!」
テレサを含めた乙女たち、塔の使用人、スコットとブレイズも全員見送りに来てくれてはいたが、貴族である家族が別れの挨拶をしているところに割り込むことはできない。そうなることは見越していたため、彼らとは昨夜と早朝に挨拶を済ませていた。
ブレイズはサラの出発前日に外出が解禁となった。リヒトから『もう外に出てもいいよ』と言われた途端、乙女の塔まで馬を飛ばしてやってきてサラをギューッと抱きしめ、自分も王都に行くと騒いだ。スコットと二人で夜市に行ったことを聞いて盛大に拗ねていたのだ。サラは頻繁に乙女の塔には戻ってくることや、アカデミーに合格したら入学前に王都を一緒に見学する約束を取り付け、やっとブレイズを宥めることができた。
実はトマスもスコットの話を聞いて地味にショックを受けていた。だが、ブレイズのように直情的な行動に出ることはなく、ただ静かに状況の把握と今後について検討し始めた。ジェフリー邸の使用人たちに言わせると『華やかな笑顔を浮かべながら考え込んでいるところが逆に怖い』らしい。
かくして微妙な緊張感をさまざまな場所で作り出しつつ、サラは王都に向けて旅立っていった。
……頻繁に戻ってくるが。