ハンナ母さんの心配
短めです。今日は夜にもう一話公開します。
マーグが客間に引き上げると、サラは食事のために厨房の脇にある使用人用の食堂へと足を向けた。使用人たちは苦言を呈するが、サラは気取らない雰囲気で食事ができるこの場所が意外と気に入っている。
すっかりサラの行動に慣れてしまったハンナは、サラのためにパンケーキを2枚焼き、ザワークラウト、茹でた馬鈴薯、ボイルしたソーセージ、小さめのオムレツが乗った皿をテーブルの上にコトリと置いた。
「お嬢様、お庭の雪像…と呼んでいいのかわかりませんが、とにかく凄いですね。娘が大はしゃぎで」
「時間があるなら、ハンナもシャーロットと一緒に遊んでくるといいわ。きっと喜ぶと思う」
「お仕事中にですか?」
「休憩中なら構わないわよ。そういえばハンナは全然お休み取ってないわよね」
「お休みなんてとんでもない! それでなくても働く時間が少ないと思っておりますのに。それに、マーグ様やミリー様のお食事もありますし」
「あぁ今は確かにそうね。彼女たちの今後については、私が王都から戻ってから決まると思うわ。それに乙女の塔の料理人は二人いるのだから、二人で話し合ってお休みを取ってほしいわ。メイドたちだってそうしているでしょう?」
「ありがとうございます。では、エイヴァと話しあってみます」
エイヴァとは、乙女の塔で働くもう一人の料理人の名前で、ハンナよりも先に働き始めた中年の未亡人である。エイヴァはロイセンから嫁いできた外国人で、夫が亡くなった後は頼れる親戚もおらず、娘と二人で女性たちの集落で暮らしていた。しかし、その娘も結婚して家を出たことから、ヘレンの紹介で乙女の塔の料理人として住み込みで働くようになったのだ。
ハンナとエイヴァは親子と呼べるくらい年齢が離れており、シャーロットもエイヴァを祖母のように慕っている。エイヴァは簡単な計算もでき、食材の購入などの帳簿を付けることもできるため、自然とハンナとの役割分担もできているようだ。
「よく考えたら私の責任が大きいわ。契約にお休みの規定を盛り込まなかったのは問題だわ。ちょっと考え直さないとダメね」
『まぁこの世界に有給休暇とかって考え方はないよねぇ…。最初に休みの規定作っておけばよかった。あれ、ソフィア商会ってどうなってたっけ? やっちゃったなぁ。自分がワーカホリックだからって他の人を巻き込んだらダメだわ』
サラは自覚があるだけマシという部類のワーカホリックである。なお、無自覚なワーカホリックは他者を巻き込みがちなので、慎重な対処が必要な危険生物である。下手に権力を持たせてしまうと、屍の山が築かれてしまうとかしまわないとか。
「契約書に書かれていても、私には難しすぎて読めなかったと思います」
「今は読めるようになった?」
「まだまだですが、エイヴァのお陰で少しずつ覚えています」
最近のエイヴァは、少しずつ読み書きや計算をハンナに教えているらしく、練習も兼ねてハンナは自分の料理のレシピをレシピノートに書き始めるようになったらしい。当然のことながら、サラはハンナのレシピノートを虎視眈々と狙っている。書き留めるレシピが溜まったら出版したいのだ。
「是非ともレシピノートを充実させてね」
「サラお嬢様から教えていただいたフレンチトーストとパンプディングは書き留めました」
「喜んでもらえたなら嬉しいわ。他にもいろいろ教えたいことはあるし」
『ふふふふふ。本格的にフォンやブイヨンの作り方を研究する時期にきたわね』
料理のことを考えているとは思えないレベルで凶悪な思考になっているが、この世界のレシピはそれぞれの家にとって財産に等しいものであった。そしてグランチェスターの王都邸でもグランチェスター城でも、卵白を使って澄んだ状態にしたスープは見かけていないことを考えると、コンソメ・ドゥーブルはこの世界に伝わっていない。さまざまなポタージュはあるので、ブイヨンはつくっているはずだ。
サラは前世において、『彼氏のために本格的なフレンチを作れるようになりたい』などと浮かれポンチになっていた時期を黒歴史と考えていたが、どうやら無駄になる知識はないらしい。前世の記憶が戻ったばかりの頃は、出てくる料理が比較的まともだったので『異世界転生でも食事チートは無理そうだ』などと考えていたが、細かいところではそれなりにイケそうであった。
サラがアンニュイな雰囲気で自らの考えに没入し、上の空で食事をしている様子を見たハンナは、自分の作った料理の味に不安を感じた。
「サラお嬢様、お口に合わなかったでしょうか?」
「え、どうして? いつものように美味しいわよ」
「お顔の色が優れないので、不安になってしまって」
「あぁごめんなさいね。ちょっと考え事をしてたから」
「申し訳ございません。お嬢様の思考を妨げるつもりはありませんでした」
「気にしないで。使用人に休暇を与えてないことを反省してただけだから」
ちょっとだけ嘘である。もちろん休暇のことも気にはなっているが、どちらかといえばレシピノートの出版による皮算用が脳内を駆け巡っていた。
「それはお嬢様にも当てはまるのではありませんか? 私が知るサラお嬢様はずっと働いていらっしゃいます。シャーロットが遊び過ぎなのかもしれませんが、お嬢様は明らかに働きすぎです」
ハンナは心配そうにサラの顔を覗き込んだ。
「心配しないで。私は大丈夫よ」
「お嬢様が本邸で倒れられ、こちらまでロバート卿が抱えていらしたことを私はこの目で見ております。何日も目を覚まさなかったではございませんか。心配するなと仰せになっても説得力がございません」
まさに正論である。幼い子供を持つ母親であるハンナが、サラを間近で見て心配しないはずがない。よく見れば、近くで働いていたメイドたちまで一斉に頷いている。
「私は遊んでいるのと同じくらい仕事が楽しいんだけどなぁ」
「アリシア様やアメリア様、それにリヒト様も同様ですが、皆様は根を詰めすぎのようにお見受けいたします」
「そう言われると否定できないわね。気にしてくれてありがとう。自分でもなるべく気を付けるつもりだけど、王都に行くことを考えると、なかなか難しいかも」
「料理人の差出口が、お嬢様の気に障られるようであれば深くお詫び申し上げます。ですがお食事も忘れてお仕事をされることは、どうかおやめください」
「わかったわ。ハンナ母さん!」
食事を終えたサラは、甘えるようにギュッと抱きついてハンナの言葉を封じた。
「お嬢様、ズルいですわ」
「これからは気を付けるようにするね」
ハンナはため息をつきながら、シャーロットにするようにサラの背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「仕方ありませんね。どうかお身体には十分お気を付けください」
「わかってるわ」
いまひとつあてにならない返事を残しつつ、サラはにこやかに微笑んで自室へと引き上げて行った。