常ならぬ状態
アダムが使っている客室にはベッドルームが二つあり、片方にはエリザベスがまだ寝ていた。そのことを聞いたエドワードは、静かにアダムの寝ている方のベッドルームに入っていく。
アダムもまだベッドの上ですやすやと眠っていたが、メイドがカーテンを開けたため、朝の光で静かに目を覚ました。
「父上…、お越しでしたか」
ゆっくりと身を起こしながらアダムがエドワードに話しかけた。
「あぁ今来たところだ」
「この度は、お騒がせして申し訳ございません」
「大人びた物言いをするようになったな」
「コーデリア先生の私塾に通うまでの私は、ただ我儘を言うだけの愚かな子供でした。今も未熟者であることに変わりはありませんが、己が足りていないことを知ることはできたと思っております」
「コーデリア女史には礼をせねばなるまい。これほどまでにお前を変えるとは」
「素晴らしい師に巡り会えたと思っております」
「そうか」
エドワードが背後に控えていたリヒトに目を遣ると、リヒトは診察用の道具を持ってアダムに近づいた。
「昨夜よりも顔色はかなり良くなっていますね。血圧、脈拍、呼吸、体温などはすべて正常値です。おそらく数日は貧血症状が続くでしょうが、きちんと栄養のあるものをお召し上がりになれば大丈夫でしょう。ご家族と一緒に本邸にお戻りになっても構いません」
「私の愚かな行動のせいで、熱病対策でお忙しいパラケルスス師を煩わせてしまいました。誠に申し訳ございません」
「アダム様が本当にお礼を言うべきなのはサラお嬢様でしょう。私は彼女を支援したに過ぎません」
「もちろん、サラにはとても感謝しております。後程改めて感謝の意を伝えるつもりです」
「それは確かに重要だ。昨夜は友人を救うことに気を取られ、お前はサラにきちんと礼を言ってなかったからな」
「あ! そうでした。彼女にはどれだけお礼を言っても足りないですね」
「後でお伝えすればよろしいかと。サラお嬢様は苛烈な性格をしておられますが、基本的には善意の人ですから」
「その”基本的には”というのが、どうにも引っ掛かるがな」
「そうですねぇ。相手にわからせるため、手足をスパっと切り落としたことがあるそうです」
「「えっ…」」
エドワードとアダムが二人で固まった。
「あぁ、怒らせなきゃ大丈夫ですよ。意外と根に持つタイプですから、思い出した頃に仕返しすることはありそうですけどね」
サラに対して決して好意的でなかった過去の自分を振り返り、エドワードとアダムは震えあがった。当然リヒトは二人の反応に気付いていたが、面白かったのでそのまま放置することにした。この男もかなりいい性格をしていることは間違いない。
「さて、小侯爵閣下、そろそろ本題に入るべきかもしれませんね」
「そうだな」
エドワードはメイドに命じて人払いさせ、エリザベスが目を覚ましても部屋には入らないよう言伝た。
「実は、お前の身体のことなんだが…」
口ごもった父親を静かな目で見つめたアダムは、ふっと笑った。
「父上、もしかして僕は子供が作れなくなったのではありませんか?」
「お前、私たちの会話を聞いていたのか!?」
「やはりそうでしたか。僕は襲われた時の記憶がちゃんと残っています。あの痛みも、イヤな感触も…」
「アダム様、大抵の男性はあまりの痛みで気を失われることが多いのですが、覚えておいでなのですか?」
「その瞬間、痛みというより衝撃が全身を襲いました。息もできなくなり、蹴られたのは股間のはずなのに、間違いなく腹の方が耐えがたい程の熱さを訴えてくるんです。暴行されていることにも気付いていましたが、痛みなどを感じる余裕もなかったように思います。ただ、視界の先にマーグが見えて、こっちに来るなと叫びたいのに声も出せませんでした」
「無理に思い出させてしまい申し訳ございません。もし、繰り返し思い出して苦しいようでしたら、また相談してください。酷い苦痛を経験されると、心にも傷を負う方もいらっしゃるのです」
「ありがとうございます。横になっている間にも何度か思い出していましたが、今のところ過去の出来事として今の自分とは切り離して考えることができています」
窓の外に目を遣ったアダムはぽつりと呟いた。
「今朝、身体の一部に反応がなかったことに気付きました。いつも朝はちょっと面倒な状態になっていたんです。さすがに服を汚すようなことは、最初の数回でなくなりました。その…年上の友人から処理する方法を教えて貰ったので」
「そうか…」
エドワードもリヒトも過去に思春期を経験しているため、アダムがどのような状態であったのかについては理解できた。
「風邪で熱を出した日でもそこだけは元気でしたから、今朝は少しだけ驚きました。あれだけの怪我をした後だからだろうと思いつつも、僕はもう壊れてしまったのかもしれないと考えました。これまでサラやクロエから”変態”呼ばわりされていましたが、この状態ならそんなことも言われずに済むでしょう。もしかしたら、これは僕が犯した罪に対する天罰なのかもしれませんね」
「アダム…」
エドワードはベッドに腰かけ、アダムの肩に手を置いた。
「まだわからないではないか。お前は気を失っていたから知らないかもしれないが、おびただしい血が失われたのだ。私やロブの血を分けなければ今頃は死んでいたかもしれない。魔法で治療したとはいえ、完治したわけではないのだ。いつも通りに反応しないのは不思議なことではない」
「父上、僕にはわかるのです。あの時何かが失われたのだと」
父と息子の様子を黙って見ていたリヒトは、アダムが暴行を受けつつも冷静に自分の身体の状態を把握していたことを理解した。
『これはきちんと説明すべきだろうな…』
「アダム様、あなたがこちらに運び込まれた時、複数の臓器が酷く損傷していました。肋骨、大腿骨、骨盤などあちこちの骨も折れている状態で、正直生きて発見されたことの方が奇跡でした」
「はい。わかっています」
「もちろん外傷も酷かったですよ。お顔も元通りになってよかったですね。鼻も折れていましたから」
リヒトはそっと鏡をアダムに渡し、それを受け取ったアダムが自分の顔をまじまじと見る。
「父上、僕の鼻ですけど、以前よりラインがすっきりとして高くなってませんか?」
「言われてみれば確かにそうだな」
「治療はサラお嬢様のイメージに依るところが大きいのです。つまり、サラお嬢様がイメージしたアダム様の鼻筋はそのようなラインなのでしょう」
「ちょっとだけ以前より男前になった気がしますので、これは悪くはないですね」
アダムは満更でもなさそうである。
「内臓は私がサポートしておりますので、常態での機能には問題ないはずです。呼吸器、消化器、循環器、神経、内分泌など問題なく機能すると思います」
「それは健康体に戻っているという意味ですか?」
「はい。仰る通りです。私がサラお嬢様に指示を出し、正常な状態へと修復させていただきましたので、今のアダム様は貧血であることを除けば以前よりも健康かもしれません」
「それはサラに感謝しなければなりませんね」
「はい。間違いなくサラお嬢様のお陰です。しかしながら…」
「問題があるのですね?」
「サラお嬢様は女性ですので、アダム様の身体のすべてをイメージすることは難しかったようです。主に下腹部が」
「……なるほど」
「そのため、実は下腹部を成型する際、御父君である小侯爵閣下と僭越ながら私の身体を魔法的に参照して成型したと仰せでした。お鼻と同じく、以前とは少し形状が異なる可能性がございます」
「えっ!?」
アダムはゴソゴソと夜着の裾を持ち上げ、下着の中にあるモノを見た。
「!!!!」
「問題がございますか?」
「大人になってる!」
「失礼ながら、拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」
「…はい」
エドワードとリヒトがアダムの下腹部を覗き込むと、そこにはなかなかに立派なモノが付いていた。
「これはちょっと盛り過ぎじゃないかな」
「サラお嬢様はどんなイメージをされたんでしょうね」
「縮尺を間違ったか、気前よくサービスしたという可能性は?」
「父上、サイズだけじゃありません。僕のはこんな形じゃありませんでした。一気にここだけ大人になってます」
「…なるほど」
三人は黙り込み、アダムはそっとしまい込んだ。
「でも立派になっても反応しないので…」
「アダム。まだ希望を捨てるべきではない」
「まだ治療の翌日ですから数日様子を見てみましょう。ただ、サラお嬢様が”常ではない状態”をイメージしている様子ではありませんでしたので」
「彼女は幼いしな」
「でも転生者ですからそれなりの年齢だったのでは?」
「だが、サラは前世で独身のまま亡くなったと聞いているぞ」
「あぁそれじゃ無理か」
この世界の貴族女性は、結婚するまで純潔であることが求められる。そのためエドワードとアダムは、更紗が純潔のまま亡くなったと判断した。リヒトはおそらく違うだろうと思ったが、そこまでプライベートなことに踏み込むのも失礼かと思って聞き流した。
「しばらく様子を見た後、やはり機能不全ということであれば、いくつかの選択肢があります」
「どのような選択肢があるのだろうか」
「大きく三つです。命が助かったことで満足して機能不全を受け入れる、サラお嬢様にもう一度治療を依頼する。私がサラお嬢様の魔法を習得してから治療する」
「アダムの機能が回復可能であるなら、2番目か3番目を依頼したいところだが…」
「どちらの治療方法でも、必ず回復するとお約束できるわけではありません。今のところ治療できるのはサラお嬢様お一人ですので、私がサラお嬢様の魔法を習得するには数年かかるでしょう」
「ではパラケルスス師がサラの魔法を習得するまで、僕はこのままということでしょうか?」
「はい。習得までの期間をお約束することもできませんし、必ず習得できるかどうかもわかりません」
「…なるほど」
「サラお嬢様に再度治療してもらう場合、お嬢様が”具体的に”常ならぬ状態をイメージできなければなりません。ですが、そのためにどのような学習をすべきなのかを考えると、ロバート卿やオルソン令嬢が反対されるかと」
「そうであろうな…」
エドワードとアダムはそっくりな姿勢で、同じように眉間に皺を寄せるような表情で考え込んだ。
「仮にサラに学習してもらうとして、どういった学習をさせるべきなのだ?」
「具体的にご覧いただくのが効果的でしょうね。常の状態と常ならざる状態の両方を」
「それでは、ただの性的イヤガラセではありませんか! 前世の記憶を持っているとはいえ、まだ8歳の少女にそのような仕打ちが許されるわけがありません。従妹にそんな真似をすることは絶対に容認できません。父上は、クロエに同じことができますか?」
「…無理だ」
不思議なことに、かつて下着泥棒だったアダムがサラを庇う発言をした。
「では私がサラお嬢様の魔法を習得するまでお待ちいただくしかありません。努力はしてみますが、何もお約束できないことをご容赦ください」
「怪我をしたのは僕の自業自得ですから、パラケルスス師に責任はありません」
アダムはふっと穏やかな微笑みを浮かべた。
「正直申し上げると、僕はあのとき自分は死ぬだろうと思っていました。だからせめてマーグとミリーに食糧と毛布を渡したかった。それに、僕が死んだとしても君たちは悪くないと伝えたかった。そう考えたら、身体の一部が大人しいからと言ってなんだという気はしますね。気長にパラケルスス師から治療を受けられる日を待つことにします。たとえグランチェスター侯爵家を継げなくなったとしても、グランチェスター領のためにできることは他にもあるでしょうから」
「アダム…」
「僕、コーデリア先生の私塾に通い始めてすぐに、仲間外れにされたんですよ。今思えば、いけ好かない金持ちに見える僕は悪目立ちしてたのでしょうね。暴力も振るわれそうになったんですが、そこにマーグが割り込んで相手をコテンパンにやっつけてくれました。相手は自分よりも年上で体格も良いのに、マーグは素早い動きで相手を翻弄して凄くカッコよかった。僕らはそうやって友人になったんです」
「そうかアダムを守ってくれたんだな」
「まぁそうなのですが、マーグは遠慮がまったくなかったですよ。『お前、その腰の剣は飾りなのか?』から始まり『顔はオレの方が整ってる』や『お前の頭の中にはおがくずでも詰まってるのか?』なんて言われてましたからね」
「口が悪いな」
「スラムの少年なんてそんなもんです。実際、強いし頭も良いから反論できないんですよ。美少年ですしね…って少年じゃなかったんでしたね。どうりで綺麗な顔してるわけだ」
アダムはつと顔を上げてリヒトと視線を合わせた。
「マーグとミリーは大丈夫ですか?」
「まだ微熱はありますが、それほど深刻な状態ではありません。短時間であればお見舞いしても大丈夫です」
「それは本当に良かった!」
アダムは自分の身体のことよりも、友人たちが無事であったことの方が嬉しいらしく、満面の笑みを浮かべた。エドワードはそんな息子の様子を見て、マーグとミリーが貴族ではなかったとしても、彼女たちの面倒を見ようと心に決めた。
また、リヒトはアダムの瞳に微かな恋心を感じ取り、アダムの治療に向けて全力で魔法の訓練をすることを自分自身に誓った。
『立場的に難しいこともあるかもしれないけど、幸せな恋人同士になる可能性があるんだったら、その差し障りとなることを取り除くのは医師の役目だよね』