今度こそ
アメリアが二階にある病室に入ると、そこには少年が横たわっていた。浅く短い呼吸を繰り返している。
「彼はこの寮でもっとも重篤な患者だ。騎士見習いになったばかりの14歳の少年で、昨日から発熱し、今朝になって一気に重症化した。既に肺炎を併発しているから、このままだと彼は助からない」
「そんな…」
リヒトは沈痛な面持ちで少年を見つめていた。アメリアもアレクサンダーの近くで、助けられなかった大勢の患者を知っているため、胸は痛んでも動揺することはない。
「サラなら助けるだろうね。ブレイズと同じ方法で助けられるから」
「リヒト師では無理ですか?」
アメリアが首を傾げつつ、リヒトに尋ねた。
「ん、オレのことを師と呼んでいいのかい? 君の師匠が拗ねるぞ。それにリヒトって名前に師をつけたのはアメリアが初めてだな」
「尊敬すべき先人であれば、師をつけて呼ぶべきでしょう」
「ありがとう。だけどオレにはあの少年を助ける力が無いんだ」
「それほどサラは特別なのですか?」
「サラの魔法の仕組みは理解してるから、魔法を再現することはできる。だけど、彼を治せるほどの魔力がオレにはないんだ」
リヒトは哀し気な視線で横たわる少年を見つめ、魔法で少しずつ彼の肺に溜まっている水を抜いていく。
「肺水を魔法で抜かれるのですね」
「これもオレにしかできない魔法なんだ。水を抜きながら、薬も投与してるんだよ。でも、この世界に存在してる薬じゃない。魔法薬と思ってくれていいよ。いつか魔法を使わずに作れるようになるのかもしれないけど、オレ一人では無理かな。オレやサラが居た世界には魔法がないから、何百年もかけて医学は少しずつ進歩していった。もちろん他の技術もね。一朝一夕で何とかできるようなことじゃないんだよ」
魔法を使い過ぎて疲れ切った表情を浮かべたリヒトに、アメリアはそっと魔力回復薬を手渡した。
「ありがとう。この薬はアメリアだけのレシピだよね。まだ公開してないだろう?」
「リヒト師にでしたら教えますよ?」
「今度ゆっくり教えてくれ」
リヒトは魔力回復薬を一気に呷った。
「うお、これは効くねぇ。魔力酔いしそうだよ」
「そうですね。一般の人は飲んだら具合悪くなるか、魔力暴走を起こす劇薬です」
「うん。これは公開しちゃダメなヤツかもしれない」
「その薬があったらサラと同じ魔法使えますか?」
「たぶん無理だな。途中で魔力が尽きる」
「ではサラを呼ぶしかありませんね」
しかし、リヒトはアメリアの提案に難色を示した。
「ねぇアメリア。オレはともかく、サラはこれから先、どれくらいの熱病患者を救わなきゃいけなくなるんだろう。確かに彼女の魔力なら彼を救えるかもしれないけど、熱病の患者はこれからもどんどん増えていくんだ。重篤な患者も大勢でるだろう。その全員をサラに治療しろって言えるかい?」
「それは…」
「オレたちは神じゃない。もちろんサラもだ。すべての人を助けられるわけじゃないんだ。アメリア、君も薬師なら救えない患者を大勢見てきただろう? 救えるけれども治療費が払えない人も大勢いたはずだ。だけど、オレたちはそんな人に無償で医療を提供し続けられるわけじゃない。とても悲しく理不尽だけど、全部の人を平等に助けることはできないんだよ」
「リヒト師…」
アメリアはガックリと肩を落とし、目の前で苦しむ少年を見つめるしかなかった。
「だからって、手の届く範囲の人を見捨てることなんて出来ないわよ。これから助けられない人がいっぱい出るのだとしてもね」
突然、空間に裂け目が生じ、そこから銀色の髪の少女が姿を現した。かなり夜も更けているせいか、アイボリーの夜着の上に同色のガウンを羽織った姿である。
「サラ!?」
「空間移動の魔法を覚えたのは知ってたけど、妖精みたいに顕現されると焦るよ」
「だってアラタが私のところに飛び込んできたんだもの。急いで向かうならコレしかないじゃない。もう寝る支度してたから、乗馬服に着替えるのも面倒だったし」
「アラタがサラのところに?」
リヒトは自分の友人である妖精が、まさかサラのところに助けを求めているとは思わずに驚いた。
「ええ来たわよ。『リヒトが苦しんでる。助けを求めたいのに、間違ってるからってずっと我慢してるんだ』って」
「アラタ! 勝手なことを!」
遅れて空中に現れた友人に向かってリヒトが怒鳴る。
「ごめん。だけど、リヒトはいつもそうやって苦しむじゃないか! 毎回、救えない患者を見送るたびに、ずっと苦しんでる。特効薬の製造を禁止されて何日も泣いてたこと、僕が忘れてるとでも思ってるの?」
「あら、リヒト泣いたんだ」
「私も同じ薬師として気持ちはよくわかります」
サラとアメリアの感想はリヒトの耳にも届き、リヒトは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「あぁ。泣いたよ。文句ある? だって何百人も死んでいくのがわかってるのに、オレに何もするなってことだろ?」
「うーん。リヒトって普段は泰然自若としてるから、そんな風に感情を揺らすのを見ると新鮮な驚きがあるわ。確かに300年以上生きてても、耐えられないことはあるよね」
サラはリヒトにこくこくと頷き、そして次の瞬間に顔を上げてリヒトの目をまっすぐに見つめた。
「だったら理解できるはずよ。たった8年しか生きていない私が、この状況に耐えられるわけがない。彼はまだ生きているし、傲慢の誹りを受けるとしても私が救える命よ。手が届く範囲しか助けられないのだとしても、そういう人が他にもいっぱいいるからって見捨てるのは違うでしょう?」
サラの迫力に押されるようにリヒトが一歩下がると、サラはそのまま横たわる少年の枕元に歩み寄り、額を少しだけ撫でた。
「スコットと同じくらいの年齢に見えるね」
「彼はまだ14歳の騎士見習いだ。名前はフィリップ、みんなフィルって呼んでるみたいだね。彼の父親も騎士だった」
「だった?」
「そう。彼の父親は亡くなっている。逃亡した横領犯を追いかけていたそうなんだが、彼らの護衛が予想よりも強かったのか、数日後に小隊全員が死亡しているのが発見された」
「随分詳しいのね」
「さっき、彼を見舞にきた騎士が教えてくれたんだ。彼が死んだら母親が一人で残ることになるって。本当なら彼の母親を呼んであげるべきなんだろうけど、感染するかもしれないから呼ぶこともできない」
「それじゃぁ、お母様を一人にしないためにも助けないとね」
「だけど、こんなことを何度も繰り返せば君は一気に聖女に祀り上げられてしまう」
リヒトは心配そうな面持ちでサラを見つめ返し、次いで横たわった少年がヒューヒューと音を立てながら浅い呼吸を繰り返す様子を見て哀し気な目で見つめた。
「あのね、私だって後先考えずに突っ込んで周囲に気苦労を掛けている自覚が無いわけじゃないわ。リヒトが私のために我慢してくれてるのも分かってる。でも、そんな大人ぶった理屈を振りかざして、できることをやらない言い訳ばかりしてたらリヒトはまた眠りに就く羽目になっちゃうよ。もしかしたら私の心が壊れて魔力が暴走しちゃうかもしれない。できるならやればいいじゃない。そのせいで大変なことになったとしても、その時にどうすればいいか一緒に考えてよ」
サラはフィルの顔に手を当て、顔色が普通ではないことに気付いた。
「リヒト、私は医学をちゃんと学んだことが無いからわからないけど、これはチアノーゼになっているの? 顔色が悪すぎるわ」
「そうだ。肺炎の症状が酷くて呼吸困難なんだ」
「フィル…苦しいよね。今助けてあげるからね。お母さんを独りぼっちにしちゃ駄目だよ。自分だけが生き残るとね、凄く寂しくて、凄く寒いんだよ」
かつて自分が味わった喪失感や寂寥感を思い出し、サラはジクリと胸が痛み、喉元に熱い何かがこみ上げてくる。そして、その想いのまま、サラは無属性の魔法で横たわるフィル少年の状態を解析した。
「リヒト、胸だけじゃなくてお腹にも水が溜まってる。一気に抜ける?」
「それだと患者に負担がかかりすぎる。ショック状態になるかも」
「私の治癒魔法と一緒にリヒトも魔法を発動して。私には使えない魔法なんだから、リヒトがしっかりしてくれないと困るわ。たぶん同時じゃないとうまくいかないと思うけど、干渉しないで発動できる?」
「うーん。できるとは思う。サラが治癒魔法を使い始めてから、少し遅れてオレが魔法を発動した方が良さそうだ」
「タイミングはリヒトに任せる」
「アメリア、魔法の発動中、患者の呼吸や心臓が止まる可能性がある。患者の状態を見ててくれ。何かあったらすぐに教えて」
「承知しました」
サラは髪の毛が逆立つ程、大量の魔力でフィルの身体を包み込み、一気に治癒魔法を発動した。ブレイズの時よりも治癒速度を上げているのは、フィルの身体が限界に近付いていることに気付いていたからだ。
その様子を見ていたリヒトは、サラが発動している魔法の複雑さに唖然としていた。時間が許すなら、魔法陣を描き起こしたいくらいに美しかったが、時間的に余裕がないことを一番理解しているリヒトは、サラがカバーしきれない身体の不調を丁寧に回復させていく。
10分程で魔法による治療は完了し、フィルの呼吸は穏やかなものへと変化した。熱も下がり、顔色も通常の通りである。ただし、失われた体力がすぐに戻るわけではないので、ぐったりとしているのは致し方ないだろう。
「リヒト、フィルの状態はどうかしら?」
「問題なさそうだ。まぁ、感染していることはどうにもならないがね」
「それは治癒魔法の及ぶところではないから仕方ないわ。それにしても、1日で2人はキツ過ぎる。これ、凄く魔力使うのね」
「当たり前だ。身体を一から再生するようなものだ。言っとくが、オレにはできないし、おそらく王族たちにも無理だ」
「でしょうね。私も自分用に保持してる魔力だけだったら、1人分で空っぽだと思う」
「ドラゴンみたいに周囲の魔素を取り込んで魔力にするなよ」
「お陰で人間卒業したって言われたわよ」
「だろうな。サラならドラゴンを超えて神を越えるかもしれないぞ」
「やめてよ。この世界の神って頭頂部は月代を剃ってるみたいになってるし、額に阿呆って書いてあるのよ」
「なんでそんな残念なことになってるんだ?」
「ムカついたから」
「誰が?」
「私が」
リヒトは頭を抱えたまま俯き、肩を小刻みに揺らした。
「ぶっ、サラ、神にも喧嘩売ったのか」
「他の神は私に味方してくれたよ? 額の文字が消えないようにしてくれたし」
「やべぇ…オカシイ…腹いてぇ」
リヒトは耐えきれず、その場で腹を抱えてゲラゲラ笑い始めた。だが、次の瞬間フィルの様子を見ていたアメリアが声を上げた。
「お二人とも、フィルさんが目を覚ましそうですよ」
「おっと」
「私は面倒なことになる前に帰るわ」
「その方が良さそうだね」
サラは来た時と同じように、空間の裂け目を通って乙女の塔に戻っていった。
横たわったフィルは静かに目を覚まし、軽く身動ぎしてからゆっくりと瞼を持ち上げた。
「えっと、オレ熱出してましたよね。ココどこですか?」
「騎士団寮の二階の部屋よ。臨時で病室にしてあるの」
アメリアはにっこりと微笑みながらフィルの疑問に答えた。
「あなたはどなたですか?」
「私は薬師のアメリア、あちらに居るのは薬師のパラケルスス師よ」
フィルはゆっくりとリヒトの方に顔を向けた。
「やぁフィル。初めまして。かなり熱が出ていたけど記憶が欠けてたりするかい?」
「正直わかりません。昼頃までの記憶はあります。めちゃくちゃ頭痛かったです」
「うん。その頃にはかなり熱が高くなってたと思うよ。呼吸も苦しかっただろうし」
「そうですね。訓練で走らされてる時より苦しかったです」
リヒトとフィルが会話している間、アメリアはフィルの体温、脈拍、血圧などを素早く計測していく。
「リヒト師、体温は36.8度の平熱まで下がっています。脈拍と血圧も正常値です」
「まぁそうだろうね。ただ、熱病に感染していることは確かだから、体力をつけるような食事をとらないとな。フィル、どこか痛むところはあるかい?」
「いえ、まったく問題ありません」
「それは良かった。君は死にかけていたんだよ」
「オレ死にかけてたんですね。どうりで凄い綺麗な天使がオレに母さんを独りにするなって言ってくれたはずだ」
「そうか。だから君は戻ってきたんだな」
リヒトは余計なことを言わず、淡々とフィルの様子を解析していく。
「ひとまず今は落ち着いてるけど、これは熱病が治ったわけじゃなく、症状が治まっただけなんだ。ひとまず今夜はこの部屋で過ごして、明日の朝も平熱だったら自室に戻っていいよ。でも当分は外出禁止だ。安静にしていないと、また熱が出るからね」
「わかりました」
フィルの診察が終わるタイミングを見計らったように、ゴーレムの21号が入室してきた。
「リヒト様、アメリア様、明日の午前中、グランチェスター侯爵閣下、エドワード小侯爵、ロバート卿、文官数名、ギルド関係者数名を交えた会議が開かれることが決まりました。参加を要請されています」
「わかったオレは参加するよ。アメリアはどうする?」
「もちろん参加します。サラも一緒?」
「はい。サラお嬢様とアリシア様も参加を表明されています。なお、リヒト様宛てにジェフリー卿からメッセージを託されております」
「ほう?」
「読み上げます。『熱病の特効薬は承認する方向で動いている。騎士団での臨床試験を、騎士団長の権限で許可する。ただし、必ず患者が同意していることを証明する誓約書を書かせること。明日の会議に参加可能であれば、特効薬の資料を用意しておいてほしい。直前に無茶を言ってすまない』だそうです」
リヒトは目の前が少しだけ明るくなった気がした。先代が頑なに承認しなかった薬を、今なら世に出せるようだ。
「資料かぁ」
「資料作成には我らゴーレムもお手伝い可能かと存じます」
「あぁそうだね。君らは最高だ。とはいえ、ここは男子寮だからね。アメリアのような若い女性を一人で残すわけにはいかない。ここで資料を作成するしかないよな。君らはオレの過去の資料は全部読んだんだって本当かい?」
「隠された資料がない前提なら、その通りです」
「じゃぁ、ひとまず君らに頼るよ」
そしてリヒトは特効薬に関する説明資料を作成し始めた。
『今度こそ世に出す…』