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リヒトの虚しさとジェフリーの絶望

リヒトはジェフリーに先導され、ひとまずジェフリー邸に居るトマスの様子を確認しに向かった。なお、アリシアと違ってアメリアは乗馬用ズボンの用意が無く、最初から鞍の前で横座りさせていたため、揺れによる衝撃はアリシア程ではなかった。


予想通りトマスは熱病に感染しており、リヒトはジェフリー邸のメイドに看護の注意事項や経口補水液の作り方などを伝授した。また、使用人たちの感染状況を確認したところ、発症しているのはトマスだけだが、発症していないが感染しているキャリアを数名発見した。本人にもその旨を告げ、仕事を休んでいるようジェフリーを経由して命じた。


次に彼らは騎士団本部に立ち寄り、キャリアとそうでない者を区分した。キャリアは全員自宅または寮に戻らせ、2週間程休みを取らせた。発症した際の連絡方法、家族向けに看護の注意事項などを連れてきたゴーレムに記述させて渡していく。


その間、アメリアは騎士団本部の食堂で、経口補水液のレシピを伝授しつつ、直近で必要になる分を作り始めた。


リヒトは騎士団本部の執務室内でジェフリーと感染者名簿を作成しつつ、今後について検討することにした。なお、グランチェスター侯爵は入れ違いで本邸に戻っていたため、リヒトとの話し合いの後にジェフリーが本邸に向かうことにした。


「ジェフリー卿、本部にいるだけでも騎士団のメンバー20名が感染しています。発症していませんが、今後は予断を許しません。ただ、大勢が熱病に感染してしまうと、領の安全対策に問題がでてしまう気もしますね」

「毎年のことですが、頭の痛い問題です。まぁ冬にグランチェスター領に攻め入る阿呆はそうそういないと思いますが、街の治安は悪化しがちです」

「侯爵閣下がゴーレムを望む理由がよくわかりますよね」

「確かにそうですね。ただ、私自身はゴーレムの導入にはあまり積極的になれません」

「騎士団長がそう言うからには理由があるのですよね?」

「どうやら私はゴーレムを単なる魔道具として見られないようです。愛嬌があり、健気な彼らを見ていると、人を傷つける仕事には従事させたくないと思ってしまうんです」

「とはいえ、この後は気を付けていても感染者は増えていくことになります。スラムの方はソフィア商会が積極的に炊き出しを実施するそうなので、ついでに治安維持に協力してもらいましょうか。武力行使はなるべく避け、取り押さえる程度と言えばサラも納得するでしょう。言うなればソフィア商会の警備と同等の業務の延長ということで」

「まぁそうなのでしょうが…」


リヒトの発言にジェフリーはなんとも複雑な表情を浮かべた。


「私のような小狡い老人とは違って、ジェフリー卿は正直でやさしい方ですね。サラが惹かれる理由がよくわかります」

「はは。サラに愛されるのはとても嬉しいことではありますが、どうにも父親目線になってしまうんですよね」

「まぁ私も妻のことは娘にしか見えませんので、人のことは言えませんが」


ふとジェフリーはリヒトとその妻の関係性に興味を持った。彼らが偽装夫婦であることは聞き及んでいるが、美女と名高い妻を女性として意識しないのだろうかと。


「とんでもなく妖艶な美女と聞き及んでおりますが、それでもですか?」

「最初の摺りこみのせいでしょう。なにせ初めて会ったときは、親に売られたばかりでガリガリに痩せ細った少女でしたから。私は花街に売られてきた子たちに病気が無いかを調べる仕事をしていたんですよ」

「それは、なんとも複雑な気分になりそうなお仕事ですね」

「だんだん慣れてしまうものではあるのですが、あの子はなぜか私に懐いてくれて、ついついかまってしまいました。そのせいで彼女が初めて店に出ることになったときは少々荒れましたね」

「男としての嫉妬ではなく?」

「娘を守れない不甲斐ない父親気分と言ったところでしょうか。客が帰った途端に私のところにやってきて、大泣きしたのを今でも覚えていますよ」

「それはなんとも」

「ですが、その後はケロリとしたもので、あっという間に花を咲かせて姫と呼ばれるようになっていきました。女性とは強いものだと思い知りましたよ。しかもですよ、なぜか最初の客が彼女の恋人になったんですよ。あんなに泣いたのはなんだったのかと首を傾げたものです」


リヒトは遠い目をして、呟くように言葉を続けた。


「シルヴィアは恋人と一緒に幸せになるはずでした。実は、彼女は私が前世の記憶を持っていることを知っているんです。そのせいか、いつか恋人も生まれ変わって自分と恋に落ちると信じているんですよ。本人は『一緒に年を取って生きて行きたいと心の底から思える相手じゃないとダメ』なんて言ってますがね。本当にそんな奇跡があれば、彼女の時間は再び動き出します。私はそれを一緒に待ってるんです」

「それはいいですね。私ももう一度亡くなった妻に会いたいものです。山ほど小言を聞かされそうですが」

「私も亡くなった妻に会うことがあったら、尻を蹴とばされそうです。ものすごく痛いんですよねぇ」


ジェフリーとリヒトは顔を見合わせ、ニヤリと笑い合った。


「それはともかくとして、今後はどうすべきでしょうかね。気は進みませんが、これ以上、騎士団に欠員が出るようなら、治安維持は本当にサラに頼るしかないかもしれません」

「ひとまず予防対策を徹底するしかないでしょう。これから私とアメリアは騎士団寮でトリアージを行いますが、騎士団寮は一時的に感染者を隔離する病棟扱いにさせてください。感染していない入寮者の立ち入りを制限しますので、彼らの受け入れ先を検討しなければなりません」


ジェフリーは感染者のリストを眺めてため息をついた。


「これがもっと長いリストになるわけですね?」

「そういうことになりますね。既に発症している患者もいるようですし」

「はぁ…仕方ありませんね。熱病には特効薬もありませんし」

「……実は無いわけではないんです」

「え?」


リヒトはジェフリーに対して厳しい視線を向けた。


「40年以上前です。私が眠りに就くきっかけのひとつでもあるのですが、私はこの熱病の特効薬を開発しています」

「は?」

「ですが先代のグランチェスター侯爵は、この研究成果を公表することを禁じました」

「どういうことでしょうか?」

「おそらく政治的な意図があったのだと思います。逆らうなら錬金術ギルドも含め、私と私の一族をグランチェスター領から追い出すと脅されました」

「その薬は本当に有効なのでしょうか?」

「最初の臨床試験結果を見る限り、効果はあるはずです。ただ、重篤な副作用が起きる可能性を否定できません。試験が十分ではないんです」

「臨床試験というのはどのような人を対象に行われるのですか?」

「熱病の患者で、開発中の新薬であることを納得してくださった方です。同意がない相手には絶対に投薬しません」

「もし重篤な副作用が出てしまった場合は?」

「もちろん、私が全力で治療にあたりますが、必ず救える保証があるというわけでもありません。後遺症が残る、あるいは命を落とす危険もあります。そのため事前に同意書を書いていただきます。文字が読めない人にもきちんと説明してから契約します」

「なるほど…ところで、試験であれば無償でリヒトさんの治療を受けられるのですか?」

「無料どころか、こちらから報酬をお支払いします。万が一のことがあった場合には、見舞金も出す契約です」

「ではスラムの患者が多かったのではありませんか?」

「いえ、先代のグランチェスター侯爵は秘密主義でしたから、グランチェスター家の遠縁にあたる騎士家の方ばかりでした」


ジェフリーの問いに回答したリヒトは、苦々しい記憶を呼び起こしたことで眉間にシワを寄せていた。


「先代ですか…私の祖父ではありますが、記憶はほとんど残っていないんですよ。私が幼い頃に亡くなったので。おそらく現侯爵閣下も知らないのではないでしょうか」

「そうですね。今、乙女の塔と呼ばれている場所に何があるのかについても、あまり知らなかったようですから」

「そういえば、リヒトさんが40年も眠っていた理由を伺ったことがありませんでした。不躾に聞いてはいけないことのような気がしていましたが…」

「長生きし過ぎて心が草臥れたんですよ。ただ、先代の秘密主義に虚しさを感じたことが引き金になったことは否定しません。私の研究成果はすべて秘匿され、民に還元されることがありませんでしたから」

「そういうことでしたか。先代の意向はともかく、今の侯爵閣下であれば特効薬開発を否定することはないと思います。ひとまずこれから侯爵閣下に報告し、許可が下りれば騎士団の中から臨床試験への参加者を募りましょう」

「そうしていただけるのであれば、私も全力で新薬開発に力を入れます」

「希望者がいれば一般の領民にも参加させてあげたいですが、リヒトさんは受け入れ可能でしょうか?」

「いえ、そこまで大規模に試験をするのは無理だと思います」

「薬師ギルドや錬金術ギルドを巻き込んだらどうですか?」

「正直、どんな副作用があるかわからないので、あまり乗り気にはなれないですね」

「ですが熱病が本当に大流行してしまったら、副作用が出るリスクを承知で新薬を試したいという人が出るかもしれません。小規模とはいえ臨床試験を実施すれば、どこからか情報は洩れると思います」

「確かにそうでしょうね。なんとも悩ましい問題です」


リヒトは頭を抱えたが、ジェフリーは胸の奥をぎゅっと掴まれるような痛みを感じていた。ジェフリーの妻が”熱病で”亡くなったのは10年前の冬である。


『もし、先代が新薬の情報を公開していたら』


そう考えてしまうのは致し方ないことだろう。今となっては詮無きことではあるのだが、祖父を恨んでしまう気持ちをうまく抑えることができない。


「ジェフリー卿、顔色が優れませんが、どこかお加減でも悪いのでしょうか?」

「いえ、お気になさらず。少し先代を恨んでしまっただけです」

「そういえばジェフリー卿の奥様は熱病で儚くなられたのでしたね」

「はい」

「特効薬があっても助かったかどうかはわかりません。私が無責任に40年も惰眠を貪っていたことも原因と言えるでしょう。奥様を助けられず申し訳ございません」

「いえ、リヒトさんのせいではありませんから」


ジェフリーは慌ててフォローするが、リヒトはやはり苦い表情を浮かべている。


『あぁ、この人も苦しんでいるのだな』


リヒトの苦しみの一端を垣間見たような気になったジェフリーは、グランチェスター侯爵を説得して臨床試験を実施できるよう奮闘することを決意した。


意識のすり合わせが終わったことで、ジェフリーはグランチェスター城の本邸に向かい、リヒトはアメリアと共に騎士団寮へと向かった。


彼らの本当の奮闘は、まだまだこれからである。

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― 新着の感想 ―
研究は予算の中であれば好き勝手させてて、ほとんど外には出してない。でも、破棄するわけでもなく保管したまま、中身を子に知らせず放置。 うーん。わからん。 知識を出せるだけ出させて、捨てるわけでもなく保…
[一言] いつの世も画期的な発明や者は大なり小なり周りの、特に上のものが邪魔してきますよねぇ
[良い点] 命の選別にもなってしまう、薬の開発は難しいですね。
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