いつの間にか賑やかに
「ブレイズは大丈夫なのか!?」
リヒトはジェフリーに会釈し、大きなソファのあるテーブルを指し示した。ジェフリーが落ち着かなげに腰を下ろすと、その横にスコットも着座する。リヒトはジェフリーの正面の席に腰を下ろし、静かに宣言した。
「ブレイズ君は熱病です。一度発熱しましたが、サラお嬢様の治癒魔法で一旦落ち着いています。ですが、感染している状態は継続していますので、経過観察が必要です」
「父上、ブレイズは…ブレイズの身体は傭兵団にいた頃にかなり痛めつけられていたらしい…」
スコットが沈痛な面持ちで父親に向かって説明すると、ジェフリーはリヒトの方に向き直った。
「どういうことか教えていただけますでしょうか」
「先程、ブレイズ君を診察したところ、内部の損傷を複数箇所見つけました。骨折を放置して固まってしまった脚や腕、内臓の損傷などかなり酷い状態でした。栄養失調だった時期も長かったようで、発育の遅れも見られました。そうした要因が重なって、ブレイズ君は同世代の少年よりも体力がなく、病気に対する抵抗力が低かったようですね」
「そんな!」
「いずれの状態もサラお嬢様の治癒魔法で今は完治しています。ですが、ご存じのように熱病は治癒魔法では治せません。このままブレイズ君が病魔に打ち勝つのを待つのみです。再び悪化する可能性もありますので、ブレイズ君はこのままこちらで預かってケアしたほうが良さそうです」
「そうですか。息子をよろしくお願いいたします。サラもブレイズを助けてくれてありがとう」
「ううん。本当なら火傷を治した時に気付くべきだったのに、こんなになるまで気付けなくてごめんなさい」
「サラのせいじゃない。悪いのは子供に暴力を振るったクソ野郎どもだ」
顔を上げたジェフリーの目は怒りを湛えていた。
「ジェフリー卿、落ち着いてください。ブレイズ君の身体は隅々までサラお嬢様が治療してくださいました。ですが心についてはわかりません。どうかそのあたりも含めて、様子を見てあげてください。彼はまだ10歳なのですから」
「わかりました。お心遣い感謝いたします」
「お気になさらず。それとスコット君、君が一番ブレイズ君に近いところにいる。ブレイズ君を頼んだよ」
「わかりました。弟は僕が守ります」
リヒトはスコットに柔らかい微笑みを浮かべた。
『こういうとこリヒトっておじいちゃんぽいよね』
「これからスコット君とサラお嬢様を診察しますが、トマス先生も罹患しているようですから、ジェフリー卿も受診してください。トマス先生も後程往診します」
「そうですか。あの、厚かましいお願いで恐縮なのですが、騎士団員にも熱病に罹った者が数名出ておりまして、可能であれば往診をお願いできませんでしょうか」
「もしかして、騎士団寮ですか!?」
「その通りです」
「まずい! ジェフリー卿、今すぐ寮を出入り禁止にしてください」
「え?」
話を横で聞いていたサラがゴーレムを一体呼び寄せ、騎士団に走っていくように告げた。
「リヒト、指示を別のゴーレムに出してください。今走っていた子が騎士団にいる騎士たちに伝えてくれるはずです」
「わかった」
リヒトはゴーレムを通じて騎士団に居る騎士たちに警告を発した。その間にアメリアとアリシアは往診の準備を整えていく。見事な連携にジェフリーとスコットは驚いた。
そして、リヒトがサラ、スコット、ジェフリーを順番に診察し、今のところ全員感染していないことが確認された。ウィルス感染をどうやって検査するのかと興味津々だったサラの目の前で、リヒトはあっさりと魔法を使って調べたため、サラは思わず「うわ、チート過ぎ!」と叫んでしまった。
『うーん。これは伝説になるはずだわ。錬金術師だろうが薬師だろうが、神業だと思われてもまったく不思議ではない。リヒトだって超チートじゃないの!』
サラは『自分のことを棚に上げる』ということがどういうことなのかを、改めて目の前のリヒトを見て実感することになった。
ついでなので、リヒトは乙女の塔で働く全員を順番に確認したが、今のところ感染者はいなかった。つまり、塔の中で感染者はブレイズのみということだ。リヒトは感染対策を使用人たちに伝え、特に食事を作るハンナや、幼児であるシャーロットが客間に近づかないよう警告した。
「サラ、オレはトマス先生の往診を終えたら、騎士団に行ってくる。トリアージも必要になるから時間がかかりそうだ。アメリアも手伝ってくれ」
「トリアージってなんですか?」
キョトンとした顔でアメリアが質問する。
「それは追々説明する」
「おじいちゃん、私にも!」
「後でな。アリシアは今すぐ錬金術ギルドと薬師ギルドに行って、現状の確認をしてくれないか?」
「わかったわ。錬金術ギルドに経口補水液のレシピを公開してもいい?」
「かなり昔に公開してるはずだが、失われているようなら頼む。薬師ギルドにも広めておいてくれ。点滴の技術は50年以上前にテオフラストスとして錬金術ギルドに伝授してるはずだけど、使いこなせてるか?」
「それはバッチリ! ってことは生理食塩水も大量に必要だね」
「おお、優秀だな。じゃぁ針と点滴用の瓶も大量に準備するように伝えてくれ」
こういう非常時に錬金術ギルド長に顔パスのアリシアは便利だ。薬師ギルドでも、アリシアであれば無下に追い返すことも無いだろう。
「そういうことなら、アリシアもゴーレムを一体連れて行って。護衛にも記録係にも便利だけど、なによりも緊急連絡が楽になるわ。リヒトたちも騎士団で何かあったら、ゴーレムを経由して連絡を」
「「わかった(わ)」」
「アリシア、既に領内に感染者がいるようなら、急いで体制を整えなければなりません。アレクサンダー師に私からの手紙を渡してください。毎年のことですから既にある程度の準備はしていると思いますが、解熱剤使用についての注意書きも記してあります」
「確かに預かったわ」
アリシアはアメリアからの手紙を受け取り、バッグに丁寧にしまいこんだ。
「サラはロバート卿に連絡を取って、文官たちにパンデミックの兆しがあることを警告してくれないか? おそらく協力体制が必要になると思う」
「わかったわ。たぶんギルド関係者も巻き込むと思う」
「そうなるだろうね」
そこにアリシアが割り込んだ。
「サラ、錬金術ギルドに着いたら職人の一覧をゴーレム経由で送るわ。急いで点滴や注射を製作してもらった方が良いと思うんだけど、すぐに予算が確保できないかもしれない。必要なら私のボーナス分を充当してもいいから、急いで発注をかけてくれないかしら。錬金術ギルドでは経口補水液と生理食塩水を沢山準備するように伝えるわ」
「従業員のお金に手を付けなきゃいけない程ソフィア商会は困ってないわよ。寄付って形で処理するから、ひとまず全力で作ってもらえるよう発注するわ」
「ありがとう」
「アリシアがお礼を言うことじゃないわよ。それにしても、50年以上前にこれを広めておくとか、リヒトって実は凄い人だったのね。この世界で生理食塩水とか普通に使うとは思わなかったわ」
「オレの凄さを理解してくれて嬉しいよ。まぁ前世の知識と職人のお陰だけどな」
サラは少し考えこんだ。
『結局、一番重要なのは予防か』
「リヒト、本来は一から作るつもりでいたんだけど、あなたのチートを早めに使わせてくれないかしら?」
「なんだい?」
「大量の苛性ソーダ作って」
「水酸化ナトリウム? あぁ石鹸か!」
さすがにリヒトはすぐに理解した。
「輸入品は高すぎるのよ。石鹸は異世界チートのド定番だけど、そんなに簡単に作れるわけじゃないことは承知してる。でも、今はそんなこと言ってられないでしょ」
「確かに手洗いは重要なんだけど、水酸化ナトリウムは危険な薬品なんだよ。石鹸が高いのにはちゃんとした理由があるんだ。それに、この世界で衛生管理をするのはかなり難しいことだけは覚えておいてくれ。手洗いだけの問題じゃない。それに中途半端に工場だけ作ったら公害問題が起きる可能性があることも忘れるなよ」
「うーん。難しい」
「それでもグランチェスター領はかなり恵まれてる方だな。昔の領主が偉大だったことを感謝すべきだ」
「どうして?」
「下水道が完備されてるんだよ」
「え、そうだったの? どうりでここの塔にも浄化槽があるわけだわ」
「サラ、君もグランチェスターを名乗るんだったら、もうちょっと先祖の功績を称えた方が良いぞ」
「勉強が足りないみたい。反省する」
『そっか、カズヤってそんな凄い領主だったのか。二代目が神格化するはずね』
「なるほど。じゃぁ最後の質問。本当に今年は熱病が大流行すると思う?」
「わからない。だけどそう思って動いた方が良いとは思う」
サラはジェフリーに向き直った。
「ジェフリー卿、お聞きになったように、今年は熱病が大流行する可能性が高いそうです。本当にそうなるかどうかはわかりませんが、今のうちから対策を練るべきです。祖父様が王都に発たれるのは今日の予定だったはずですが、まだお発ちになっていませんよね?」
サラが口調を改めたため、ジェフリーもサラに応じて公人として態度に切り換えた。
「はい。実は騎士団にも熱病に罹った者が何名かおりまして、メンバーの入れ替えのために予定を変更しています。今は騎士団本部にいらっしゃるはずです」
「なるほど。それでは、ジェフリー卿は急ぎ祖父様の元に行って、文官、薬師ギルド、錬金術ギルド、商業ギルド、冒険者ギルドのトップとの会議の場を設けて欲しいとお伝えください。これからアリシアが錬金術ギルドと薬師ギルドを巡るので、事前に通達はできるはずです」
「サラ、錬金術ギルドと薬師ギルドの後は、商業ギルドも回ったほうがいい?」
「うーん。そっちは祖父様から書状を出すほうが効果ありそう。アリシアだと、追い返されちゃうかもしれない」
「確かにそうかも。あそこに知り合い少ないし」
アリシアが少し肩を落としたが、そもそもアリシアの年齢で二つのギルドで顔が知られていることの方が異例なのだ。
「ジェフリー卿、祖父様の参加は必須ではありませんが、承認だけは書状で貰っておいてください。ちなみに、文官のトップであるお父様の参加は必須です」
「サラお嬢様はどうされますか?」
「正直悩みますね。ソフィアで参加したいところではありますが、さすがに商業ギルドの職員を前にソフィアが偉そうに振舞うわけにもいきませんし。気乗りはしませんが、荒ぶる八歳をもう一度やる羽目になりそうです」
ジェフリーはニヤつきながらいつもの口調でサラに教えた。
「安心しろ。サラの武勇伝は冒険者ギルドのジャンのおかげで、各ギルド関係者に知られている。侯爵閣下も話を聞いて腹を抱えて笑っていらしたぞ」
「最悪。口止めしておけばよかった」
「いやいや神童だと思われているうちに適当に丸め込んでおく方がいい。そのうち商業ギルドの周辺から怨嗟の声が上がるのは目に見えてるしな。一応、会議にはソフィアのゴーレムも参加させておけ。血縁関係は疑われるかもしれないが、同一人物だとは思われないだろう」
「確かにそうですね。ソフィアが英才教育を施している貴族令嬢みたいな目で見てもらえると都合が良いです」
「それ、他の商人たちには都合が悪い気がするんだがなぁ」
ジェフリー、リヒト、アリシア、アメリアはそれぞれの目的地へと向かうため外に出た。しかし、既に初雪が勢いよく降っていたため、道はあちこちが泥濘になっていた。
「この道では、アリシア嬢の馬車では立ち往生しそうだ。馬は乗れるか?」
「まだ練習中なので乗れるとは言い切れないですね」
「いっそ、雪が積もっていれば橇と言う手もあったが…」
アメリアはリヒトと行動を共にするために馬に同乗することになったが、ジェフリーとアリシアは行き先が違うため行動を共にすることはできない。結局、スコットが馬でアリシアを乗せて走ることになった。
「スコット、お前はきちんとアリシア嬢を守れ」
「承知しました。父上」
慌ただしく去っていく一行を見送って図書館に戻ると、なぜか先程より広く感じた。耳をすませば使用人やゴーレムたちの立てる小さな音は聞こえるが、人の会話は聞こえてこない。
『いつの間にか賑やかになっちゃったな。グランチェスター領にマリアと二人で来た時は、こんな風になるなんて考えなかった。……どうか誰一人欠けることなく春を迎えられますように……あれ、どの神に祈れば良いんだろ? 絶対マルカートじゃないよね。でもガイアは管轄外だよなぁ』