揺れ動くロイセン
ソフィア商会の応接室では、ジルバフックス男爵が供も連れず青褪めた表情で静かに待っていた。
「大変お待たせしました。ジルバフックス男爵。商業ギルドに呼ばれていたものですから」
「いや、先触れも出さずいきなり訪れる無礼をしているのはこちらの方だ。だがどうしても急ぎ報せねばならぬことがあったのだ」
「いかがされたのでしょう?」
するとジルバフックス男爵は突然立ち上がり、ソフィアの前に跪いた。
「大変申し訳ない。我が国でゲルハルト王太子殿下を快く思わない勢力がソフィアを狙っているという情報が入った。其方を拉致し、ソフィア商会が抱える小麦を密かに入手する、それが無理でも其方を殺害してグランチェスター侯爵やアヴァロンを刺激し、アヴァロンからの小麦輸入を阻止するつもりらしい。沿岸連合の息が掛かっている可能性も高いため、どうか身の回りに注意してもらいたい」
ジルバフックス男爵の発言から、先程の黒装束の集団を連想した。無論、ソフィア商会を疎む勢力は他にもいることを考えれば、単純に結びつけるわけにもいかないが、可能性は高いだろう。
「どうかお顔を上げてお立ち下さいませ。わざわざそのことを言うためにお越しになられたのですか? 書面でも十分でしたのに」
「それが…王太子殿下の側近にも裏切り者がいたのだ。グランチェスター家のサラ嬢を脅した騎士たちを唆したのもその者だった。身内の恥を晒すようで身の置き所に困る心地ではあるが、こうした書面すら改竄されずに届くか不安であると殿下は仰せになり、私に直接謝罪と警告をするよう申し付けられた。ゲルハルト王太子殿下ご自身は、アヴァロン、グランチェスター、そしてソフィア商会に感謝の気持ちしかなく、身内から不心得者が出たことについて、誠に遺憾であると仰せだ。この件がロイセンへの小麦輸出に悪影響を及ぼすのではないかと心を痛めておられる」
『誠に遺憾であるかぁ…なんか前世の政治家みたいな表現だなぁ。まぁ部下に謝罪させるならそんな風にしか言えないか』
「承知しました。それにしても民が飢えるかもしれないと知っていながら、そのような非道な行為に手を染める貴族がいるのですね」
「誠に恥ずかしい限りだ」
どうやらロイセン国内は、かなり沿岸連合の影響が強いらしい。
『でも、沿岸連合って名前からしても、あちら側が一枚岩とは考えにくいわ。沿岸連合の中には、今の首脳陣を快く思っていない人たちだっているはずよね。少なくとも自国出身の王太子妃を殺されたサルディナの人たちはどう思っているのかしら。そういえば、アヴァロンから慌てて逃げたマイアーは、サルディナに滞在してるって言ってたような…』
「ひとまず状況は承知いたしました。私が狙われるのは今に始まったことではございませんが、これまで以上に身辺には十分注意を払っておきます。わざわざご足労頂きましたことに深く感謝申し上げます。無論この件がロイセンとアヴァロンの関係に影を落とすことは一切ございません。ご安心くださいますよう、ゲルハルト王太子殿下にもお伝えくださいませ」
ソフィアの返答を聞いたジルバフックス男爵は、ホッとした表情を浮かべる。
「そう言って貰えて有難い。この恩は決して忘れぬ。其方の吐息だけで飛びそうな零細ではあるが、一応私も商会を持っている商人の端くれだ。ロイセン国内にも販路を拡大する予定があれば声を掛けてくれ。できる限りの手伝いをすることを約束する」
「それは大変心強いお言葉ですね。では近いうちに業務提携についての話し合いをいたしましょう」
「む、其方の役に立てる日は思いのほか近そうだな」
「今は早めに動くべきでしょう。沿岸連合側の準備が整う前に一気に攻める必要があります。よろしければ、ゲルハルト王太子殿下に、グランチェスター領の開拓村を視察する予定を入れていただけませんか? 早ければ早い程良いかと存じます」
ソフィアの声に含まれた緊迫感に気付いたジルバフックス男爵は、即座に返答した。
「承知した。早急にこの件を持ち帰り調整する」
「よろしくお願いいたします。あ、折角ですので、ゲルハルト王太子殿下に献上させていただきたいものがございます」
ソフィアはベルを鳴らして28号を呼び出し、籠に盛られたたっぷりのエルマと切り分けたエルマが載った皿を持ってこさせた。
「できたばかりの新種のエルマです。甘みが強く美味しいと評判を頂いております。まだグランチェスター領にしかありませんが、味見をしていただけませんか? この品種はロイセンでも根付くだろうと専門家も申しております」
もちろん専門家とはポチである。妖精が言うのだから間違いない。少しばかり痩せた土地でも、このエルマなら育つということなのだろう。あるいは栽培にコツがあるのかもしれないが、そういったこともポチなら教えてくれるだろう。もしかしたら、トニアでも教えられるかもしれない。
「ほう。新種か」
ジルバフックス男爵は、しゃくりと皿に載ったエルマの一片を口に入れて咀嚼した。
「ほほう。なんと甘くて瑞々しい。これは実に美味いエルマだな。是非とも我が国でも栽培に成功させたいものだ」
この世界において果物は貴重な存在である。なにせ日持ちしないため、基本的には地産地消であり、遠い地で収穫された果物を口にできるのは、高速で運搬する費用を賄える富裕層に限られている。
もちろん王都の市場に行けば、エルマをはじめ、ポルタカールというオレンジとミカンの中間くらいの果実、カルプズと呼ばれる甘みのある瓜など比較的日持ちのする果物は売られている。ただし、庶民にとっては頑張らないと買えないくらいの値段であるため、病気のお見舞いや特別な日のデザートとして購入するらしい。
「果物は確かに美味しいですよね。ちなみに、近くに蜜蜂の巣箱を置いておくことで、蜂蜜も採れるんです。香りのよい美味しい蜜ですよ。そちらも味見されますか?」
「是非!」
「では瓶に詰めたものをいくつか用意させますので、お持ち帰りになってください。ゲルハルト王太子殿下のお口に合うと良いのですが…」
「あの方は甘味も好まれるから大丈夫だろう」
「そうなのですね。お酒や珈琲を嗜んでいるところは拝見したのですが、甘味も好まれるとは初耳です」
「隠していらっしゃるのだ。子供の頃に父君から『男らしくない』と非難されたとか」
「それはお気の毒に。味の好みに男女は関係ないはずですが、そういう意見をお持ちの方って結構多いですよね」
少しだけゲルハルト王太子が気の毒になったソフィアは、自分用に確保しておいたメープルシロップも付けてあげることにした。
「アヴァロンは農業国です。グランチェスター領は小麦で知られていますが、こうしてエルマも栽培しています。もちろん他領ではまた別の農作物が栽培されています。グランチェスターには少ないですが、牛、豚、羊、鶏などの牧畜を中心とした領もあります。たとえばエイムズベリー領は酪農家が多いですし、ハリントン領はワインの産地としてブドウを栽培しています」
「ふむ。知識としては承知している」
「土地ごとに異なる特性があり、その土地に合った産業を営むことが大切なのです。小麦だけがすべてではありません」
「だが…、それでは我が国の民の食卓からパンが失われてしまう」
「仰りたいことはわかります。ですが、どうにもならないことはあります。すべての国民を養う小麦が国内で賄えないのであれば、これから先も小麦を輸入し続けるしかありません。ですが、その前に小麦の消費量を減らす努力くらいはしても良いと思われませんか?」
「消費量を減らす?」
「ロイセンの食卓は小麦に依存し過ぎです。オーデルの時代に小麦が潤沢だったからこその食文化なのでしょうが、ロイセンでも同じことができるわけではないのです」
「それは、どういう意味だ?」
『あ、しまった。話し過ぎたかも。まぁいずれ話すつもりではあったからいいか』
「ジルバフックス家は、もともとオーデルに仕えた貴族家ですよね?」
「その通りだ」
「ではオーデルとロイセンの違いがなんだか分かりますか?」
「違い…?」
ジルバフックス男爵は首を傾げた。
「ロイセン王家は認めないかもしれませんが、建国時にロイセン王はオーデル王家の王族たちを殺害しています」
「そうだな。少なくとも我が一族はそれを否定する気はない。事実として200年前のジルバフックス家の当主は、ロイセン王に斬首されている。自分の首と領地を差し出し、妻と継嗣を守ったのだ。遺された妻子には辛うじて男爵位と地方の荒れた土地が与えられ、細々と生き延びてきたのだ」
「それでも200年も経ってしまうと、当時の恨みなどは忘れてロイセン王家に仕えることになるのですから、時間というのは不思議ですね」
「正直言えば、今でもロイセン王家に忠実なのかと問われると即座に頷くのは難しい。だが私は学友であったゲルハルト王太子殿下に忠誠を誓った。あの方は、『王家の血統など国民にとっては何でも良いのだ。大事なことは民を飢えさえない王であるかどうかだけだ』と仰せであった。私はその人柄に膝を折ったのだ」
ジルバフックス男爵は、自らの主を誇らしげに語った。
『あぁ、でもその血統こそが、ロイセンの国民を飢えさせる原因なのだと告げたら、ゲルハルト王太子はどう思うのかしら…』
ゲルハルト王太子の志が高ければ高い程、この事実は彼を苛むことになる。いっそ彼に妖精の友人ができればと思わないこともないが、ゲルハルト王太子からは強い魔力が感じられない。おそらく自力では妖精を視ることすらできないだろう。
『それに、初代のロイセン王が言うことももっともだとは思うのよね。確かに人の営みは人の力で成すものだと思う。私が言っても説得力ゼロだけどね』
「今のままでは、ロイセンで小麦を栽培することはますます難しくなると思います。なにもしなければ、オーデルのように実り豊かな土地に戻ることはありません」
「それは、どういうことだ?」
「ロイセンの地は、もともと初代のオーデル王が妖精と共に開墾したのです」
「無論承知しているが」
「本来、あの地域の土地は痩せていて、そのままでは小麦どころか他の作物すら栽培するのは難しかったのです。ですがオーデル王は代々妖精と友愛を結び、せっせと土地に魔力を注いで肥沃な土地へと変えていきました。つまり、妖精に祝福してもらっていたのです」
怪訝な表情を浮かべるジルバフックス男爵に、ソフィアは残酷な事実を告げた。
「ですが、ロイセン王は妖精の友人であったオーデル王を殺害してしまった。その際、ロイセン王は『妖精など要らぬ。人の営みは人の力で成す』と発言されたそうです。故に妖精たちはあの地を見捨てて去りました。そしてロイセンの地は少しずつ元の状態に戻っているのです」
「まさか…」
「ロイセンの方は妖精の存在をあまり信じていらっしゃらないようですが、この国で妖精の恵みを受けた方をご覧になったのではありませんか? オルソン令嬢は10年前にアドルフ王子殿下から求愛された頃と同じ姿ですしね」
「確かにそうだな」
「妖精たちはロイセンの王家の血筋を嫌っています。友人を殺されたのですから当然といえば当然ですよね。ですからロイセン王家が治める国には妖精が寄り付きません。そういう意味では『民を飢えさせる血を持つ王家』と言えるかもしれません。このことをゲルハルト王太子殿下に告げられるかどうかは、ジルバフックス男爵の判断にお任せします」
「俄かには信じられん」
「信じずとも構わぬ。事実は変わらぬからな」
ジルバフックス男爵が息を飲んでソファーに深く沈みこむと、突然空中から男性の声が振ってきた。みれば、頭上に裂け目がうまれ、ノアールがすたりと姿を現した。
「なっ!」
突然現れた黒い狼の姿をした妖精に、ジルバフックス男爵は完全に固まっている。
「お、狼が喋った」
「オーデルの黒き狼、突然のお越しですね」
ソフィアは咄嗟にノアールの名前を呼ぶのを控えた。
「まぁ昔の知り合いの血を持つヤツの気配がしたのでな。ちょっと来てみたまでよ」
「あなた様が、オーデルの黒き狼なのですね。まさかお会いできる日が来るとは…」
ジルバフックス男爵はノアールの前に跪いたが、ノアールはつんと顔を背けて言い捨てた。
「あの地はアンリの願いによって我ら妖精が育んだのだ。お前の祖先はそれを知っていた。むしろ、自らも率先して妖精と友愛を結ぼうと努力するような男だった。よもや子孫のお前がそれを信じられぬとはな」
「も、申し訳ございません」
「ふんっ。帰ってロイセンの王族に伝えるがよい。貴様らなどに協力する妖精はおらぬ。あの地は本来の姿に戻り、民たちは飢えていくことだろう。すべては貴様らの愚行が招いたことであると知れ!」
言いたいことはそれで終わりだと思ったのか、ノアールは再び頭上に開いた裂け目に飛び込んで姿を消した。
床に跪いたまま俯いていたジルバフックス男爵は、ふと顔を上げてソフィアを見つめた。完全に表情を失っており、顔色は青褪めているというよりも真っ白であった。
「事実…なのですね。ロイセンはこのまま滅びてしまうのですか……」
「滅びると決まったわけではありません。初代のロイセン王が仰せになったように、人の手で人の営みを守るしかないというだけです」
「私はこのことをゲルハルト王太子殿下にどう伝えればいいのでしょう」
「……」
さすがにソフィアもかける言葉が見つからなかった。