メロメロ
乙女の塔の客室で書き物をしていたリヒトは、空腹を覚えて一旦休憩することにした。今朝、軽い食事をした後はずっと部屋で仕事をしていたため、昼食を食べ損なっていることに気付いたのだ。
部屋から出ると上階から女性たちの声がかすかに漏れ聞こえてくる。
『そういえば、今日はメイドたちが皆3階の空き部屋に集合すると言ってたな』
わざわざメイドを呼び出す程の事でもないと考えたリヒトは、そのまま厨房に足を運んだ。
リヒトが厨房に顔を出すと、料理人のハンナが夕食の下ごしらえを始めていた。
見ればハンナの娘のシャーロットも、玉ねぎの皮を剥いて母親を手伝っている。お世辞にも手際が良いとは言えないが、丁寧に剥いている姿が微笑ましい。
「ハンナさん、なにか軽く摘まめそうなものありませんか?ちょっと腹が減ってしまって」
リヒトが声を掛けると、ハンナは驚いてビクリとして動きを一瞬止めた。
「あぁ。驚かせてしまってすみません。ノックしたほうが良かったですかね」
「厨房でノックというのもおかしな話ですわ。申し訳ありません、料理に夢中だったものですから」
「無理しないで大丈夫ですよ。オレはこれ以上近づきませんから」
実はハンナは夫の暴力から女性たちの集落に逃げ込んだ女性であった。そのため、よく知らない男性が近くに寄ることに恐怖感を抱いてしまうのだ。
だが、サラが倒れて乙女の塔に運び込まれた時、まだ幼いサラが高熱を発して苦しんでいるのを見た瞬間、ハンナは恐怖を忘れてサラを抱えていたリヒトに駈け寄っていた。恐ろしく賢いが、自分の娘とたった5歳しか違わない少女が苦しんでいるのだ。幼い娘を持つ母親としての気持ちが、男性に対する恐怖をあっさりと上回った。
そうした経緯もあり、リヒトはハンナにとって比較的普通に話が出来る男性になった。だが、今でも不意に声を掛けられたりすると竦んでしまう。
「今日はもう一人の料理人の女性は不在ですか?」
「納品された食材に問題があったので、食糧を扱う商店に行きました」
「あぁなるほど。ハンナさんお一人なら無理は言えないですね」
「お気遣いありがとうございます。でも、リヒト様なら大丈夫ですよ。えっと、ランチにお出ししたスープが少し残っておりますし、もうじきスコーンが焼けますから、少しだけお持ちくださいませ」
「スコーンですか?」
「ええ、お嬢様方のお茶の時間ですから」
「もうそんな時間なのですね」
「リヒト様はお仕事に夢中になるとお食事を忘れてしまわれるのですね」
「これは300年以上生きていても治らないオレの悪癖です」
「ふふっ。そんなに長い時間をかけても治らないなら、不治の病なのでは?」
「そうでしょうね」
適切な距離を取りながらも、軽口を言い合うことができるくらいにはハンナもリヒトに心を許していた。
「今度から手軽に食べられそうなお食事を、決まった時間に運んで貰えるようにいたしましょうか」
「それはありがたいですが、お手間ではありませんか?」
「ふふっ。大した手間ではありません。それに、こちらで働き始めたらいろいろ余裕が出来て、逆に手持ち無沙汰になるくらいです」
「ええっ! 毎日あんなに手の込んだ料理ばかり作ってるのにですか?」
「だってお料理に関係する仕事しかしておりませんもの。下働きをしようにも、ここにはゴーレムがいますしね。それに、食材を好きなように使っていいって言われたことが嬉しくて、ついついいろんなレシピを試したくなるんです。実はリヒト様が収集してくださったお料理の本も閲覧したんですよ」
「あぁ、自分でも料理にチャレンジしてみようかと思った時期があったんです。オレは形から入るタイプなんで、まずは料理本を買ったんですけど、どうやらオレには才能がなかったらしくて」
実は少しだけ嘘だ。リヒトは前世ではちゃんと自炊ができていた。ただ、この世界の調理場を使いこなせなかったのだ。普段からお茶を魔法で淹れている癖に、なぜかこの時は魔法を使えばいいということに思い至らず、四苦八苦したことを思い出した。なお、この時に作った料理のお陰で、数時間後に七転八倒した。
ハンナはオーブンからスコーンを取り出し、ケーキクーラーの上に並べはじめた。
「焼きたてを出すわけじゃないんですね」
「私は少し冷ました方が味が落ち着く気がしますね。もちろん、焼きたてを食べるのも凄く美味しいですけど。いずれにしてもお嬢様方は夢中なようですから、もう少し時間が掛かりそうですし」
「オレは今すぐ食べたいです!」
「ふふっ。クロテッドクリームも作ってありますよ。ジャムは2種類です。あぁ、昨日のメープルシロップも残っています」
するとリヒトは真剣な顔をして考えた。
「うーーん。今はお茶というよりガッツリ食事したい気分なんで、スープと一緒に焼きたてスコーンをそのまま食べたいです。なんならバター塗りたいくらいです。邪道ですかね?」
「食べ方はお好みで良いと思いますが、そういう物をお召し上がりになりたいのでしたら、お昼の残りのパンを少し焼きましょうか?」
「パンを焼く? あれ、サラからレシピでも聞きました?」
実はこの世界には、なぜか食パンやトーストといった概念がない。そのため、焼きたてではないパンはカチカチになってしまい、スープなどに付けながら食べるのが一般的だ。
「そういえば、サラお嬢様からも驚かれましたね。私は以前から残ったパンを普通に焼いて食べてたんですよ。冷えたパンをそのまま食べるよりも温かい方が良いかなって」
「へぇハンナさんは間違いなく料理のセンスがありますね」
「本当にリヒト様はサラお嬢様と同じことを仰いますね。サラお嬢様から『卵と牛乳と砂糖を混ぜたものに、パンを浸してからバターで焼いて』と言われて、実際に作ってみたら本当に美味しくて。しかもびっくりするくらい贅沢に砂糖を入れるレシピなんですよ。あ、よく似たレシピとしてパンプディングも教わりましたわ。私の実家や婚家は農家ですので、そのような贅沢はできませんでしたから、ここに来てから本当に料理が楽しくて!」
「あはは。いきなりフレンチトーストを作らせたんですね。アレは美味いですよね。でも、卵液の砂糖を控え目にして、ジャムやクリームを添えて出しても面白いですよ」
「それは確かに美味しそうですね。今度作ってみることにします。素敵なアイデアをくださったので、このパンは少しだけニンニクで香りをつけたオリーブオイルで焼いて差し上げますね。リヒト様はニンニクお好きでしたよね」
「大好物です!」
ハンナはくすりと笑い、残り物のスープを温めつつ、手早く残り物のパンをスライスして、フライパンでパンを焼いていく。同時に別のフライパンでささっとオムレツまで作ってしまう手際の良さに、横で見ていたリヒトは目を見張った。
『うおお、これがプロの業か』
短時間で手際よく整えられた食事を厨房の隅にあるテーブルで食べ始めたリヒトは、そのあまりの美味しさに、乙女の塔に滞在したい理由の半分はハンナの料理のお陰なのではないかと考え始めた程である。
だが、ハンナ自身は自分が城の料理人になれる技術を持っているとは考えていない。乙女の塔で雇ってもらえたのは、子供を抱えた自分をサラが憐れんでくれたお陰だと信じていた。
確かに切っ掛けは、ヘレンとコーデリアが全身痣だらけのハンナを乙女の塔に連れてきたことだったのは間違いない。サラはハンナを一目見るなり、玄関ホールに置かれた来客用のソファにハンナを座らせ、治癒魔法を使って全身を治療した。
そしてハンナの事情を聞いて即座に彼女を住み込みで雇用することを決めた、もちろん娘のシャーロットも一緒に住めるよう、家族用の使用人部屋を割り当てた。サラとしては、彼女とその娘くらいなら、客分として好きなように過ごしてもらって構わなかったのだが、『働かないで滞在することはできない』と当のハンナが強く主張したため、『それなら得意なことを仕事にして欲しい』と伝えた。
結果、ハンナは乙女の塔の料理人となった。そして、初めて彼女の料理を食べた瞬間から、乙女たちは彼女の料理に夢中になった。今となっては、ハンナ抜きの生活など考えられないくらいメロメロである。
ハンナの料理は本邸の料理人のように洗練されているわけではないが、素朴で素材の味を大事にする『母の味』である。サラが倒れたことで乙女の塔で生活する人数が増え、急遽ハンナの他にもエイヴァという名前の中年女性が雇用されたが、それでもメインの料理人はハンナのままである。
なお、メロメロと言えば、意外な人物が意外な人に夢中になった。
「ハンナ! シャーロットはどこ?」
どうやらお茶の時間になったらしく、わざわざ厨房までクロエが顔を出した。なんとクロエはハンナの3歳になる娘のシャーロットにメロメロになっていたのだった。
確かにシャーロットはストロベリーブロンドの巻き毛で、とても可愛い子である。ハンナたち親子が乙女の塔に来たのは狩猟大会の少し前だが、クロエは一目見た瞬間からシャーロットの虜になり、忙しい合間を縫って毎日のように塔を訪れてはシャーロットを構うようになった。髪や瞳の色が似ているせいかシャーロットの方もクロエが好きなようで、二人は姉妹がじゃれ合っているように仲睦まじい。
「クロエおじょうたま!」
まだ微妙に舌足らずな口調でクロエに歩み寄る姿は確かに微笑ましいが、シャーロットの手には剥きかけの玉ねぎが握られている。ハンナが慌てて玉ねぎを娘から取り上げると、リヒトは即座に水属性の魔法でシャーロットの手を洗った。そのまま抱きしめたらクロエに玉ねぎの臭いが移ってしまうことを懸念したのである。
「お二人の連携は見事ですね」
クロエの後ろから歩いてきたサラは、その様子を見て驚いていた。
「オレは子供も孫も曾孫も面倒見てるからね」
「なるほど。さすがリヒトおじーちゃん」
そしてクロエの足下に歩み寄ったシャーロットをクロエが抱っこする。
「ふふっ。また大きくなったね。そろそろ抱っこできなくなりそう」
「はい。ロティはちゃんとおしょくじしてるです!」
「偉いわね」
実はハンナとシャーロットが乙女の塔に来た当初、彼女たちはガリガリに痩せ細っており、明らかに栄養が足りないといった風情であった。男性に近づくことが難しいハンナは、職人の下働きになることもできず、女性たちの集落の中で子守や他の女性の家事を代行する仕事を引き受けていたのだ。
女性たちの集落は立場の弱い女性たちが助け合いながら生きる場所ではあるが、そうした女性たちの懐にそれほど余裕があるわけもなく、ハンナに支払えるお金はたかが知れていた。雀の涙ほどの現金収入の大半は食料品購入に宛てられ、ハンナとシャーロットの母娘は本当にギリギリの生活を営んでいたのである。
乙女の塔に来てからというもの、ハンナとシャーロットは日々の食事に困らず、毎日お風呂に入ることのできる贅沢な日々を過ごしていた。しかも、クロエがシャーロットを気に入ってさまざまな着替えを持ってくるため、あっという間にシャーロットは貴族令嬢顔負けの衣装持ちになってしまった。
「うーん。ロティは本当にかわいいわね。ほっぺがふっくらして、とっても美人さんよ」
クロエは蕩けるような視線でシャーロットを見つめ、ふにふにと軽く頬をつついた。
「ロティもクロエおじょうたまくらいきれーになる?」
「そうなるには、ちゃんとお食事をして、いっぱい遊んで、いっぱい寝ないとね。でも、もう少し大きくなったらお勉強もしないと」
「はーい」
さりげなくクロエはシャーロットに教育を施すことを約束した。この世界の農民は、男性であっても識字率はとても低い。特に女性はその傾向が顕著であり、女に勉強など不要であると、当の女性ですら思っている。コーデリアの私塾のように男女を分け隔てなく教育する教育機関の方が珍しいのだ。
『うん。頑張らないとな。シャーロットみたいな子供たちのためにも』
こうしたクロエとシャーロットの遣り取りを見て、改めてサラは学園設立に意欲を燃やすことになったのである。