無能者の汚名
「ゲルハルト王太子殿下、失ったものを嘆く気持ちは理解できます。ですが、何ら解決にはつながりませんので、適当なところで止めてくださいませ」
「そうだな」
「ソフィア! お前はどこまで無礼なのだ!」
納得するゲルハルト王太子とは対照的に、ジルバフックス男爵は激高していた。
「やめろ、ウルリヒ」
「いいえ、この者の態度はあまりにも目に余ります。かつて豊かだった大地が少しずつ失われているのだ。理由もわからず、途方に暮れる我らの気持ちなど、其方にはわからないのだろうな」
「理解できるわけがありません。私は当事者ではありませんから。理解できているなどと申し上げる方が失礼です。ですが、これだけは理解できます。あなた方ロイセンが沿岸連合の思惑に振り回された結果、グランチェスターからは大量の小麦が消失し、暴動が発生し、小麦畑が焼かれそうになり、領主が殺害されかけたのです。発端はあなた方の失策のせいです」
「だからやめろと言っただろうウルリヒ。我らはアヴァロンにとって迷惑な隣人なんだ。それにソフィアの無礼を構わないと言ったのは私だ」
ゲルハルト王太子はため息をついた。激高していたウルリヒも項垂れる。
「迷惑な上に、自分で解決する手段さえお持ちではない隣人ですね。グランチェスター家の方々からの要請ですから、お力添えはいたします。ですが、感傷に浸っている時間はあまり残っていません。既に敵はかなり懐に近いところまで潜り込んでいるはずです」
「そこまでか?」
「沿岸連合は小麦の取引停止で何を得たいのだと思われますか?」
「より高額な金銭ではないのか?」
「いえ、アヴァロンへの工作が成功していないにもかかわらず、このような暴挙にでるということは、ロイセンそのものを取りに来たと考える方が自然です。そうでなければリスクが高すぎます」
「だが、我らを攻め落とすだけの武力を彼らが持っているだろうか? 沿岸連合はその名前が示す通り、複数の国の集まりだ。それぞれの国が有している武力はそれほど多いわけでもなく、連合軍を結成しても指揮系統が混乱しがちだと聞いている。国力が落ちているとはいえ、ロイセンの武力をそれほど甘く見てもらっては困る」
「だからこそ、このような手段で戦を仕掛けているのだと私は考えます。沿岸連合の思惑は所属する国によって微妙に違いはありそうですが、おそらくロイセン王家を追いやり、分割して支配するとかじゃないでしょうか。食糧を絶てば軍隊を動かす糧食を確保することすらままなりません」
するとレベッカが口を挟んだ。
「いいえソフィア。沿岸連合はロイセン王家を残すと思うわ。欲の皮が突っ張っている沿岸連合の首脳陣は、分割して自分たちの取り分が減ってしまうことを惜しむと思う。ロイセン王家を残したまま傀儡にして、沿岸連合の中で自分たちの発言力を高める方を選ぶ可能性の方が高いと思う」
「あぁ、その方がありそうですね。そう考えればゲルハルト王太子の正妃候補を擁立しなかった理由も納得できますね」
「でしょう? おそらく彼らはゲルハルト王太子が邪魔なのよ」
「だとすれば、グリューネヴァルト公爵令嬢を女王に王配を沿岸連合からという線が濃厚かもしれません」
「その方が傀儡政権にしやすいものね。王配選びも水面下の争いが凄そうですけど」
女性二人がお茶会で噂話をするように、不穏な政治の話をしている状況を、周囲の男性陣はゾッとした目で見ていた。彼女らの夫となり父親になるはずのロバートでさえ、顔を青褪めさせている。
ゲルハルト王太子はやっとの思いで発言した。
「其方らは先程から何を言っている?」
「沿岸連合がこの戦によってどのような状況を望んでいるか、でしょうか」
「私が邪魔だと言ってたような気がするが」
「そもそも、一国の王太子が正妃を求めているのに、候補となる姫を擁立しなかった時点で変だと思いませんでしたか?」
「言われてみれば確かにそうだな」
「彼らはゲルハルト王太子の力を少しずつ削いでいるんだと思います。あまり考えたくないことではありますが、亡くなられた王太子妃は病死ではない可能性まであると思います」
「なんだと!?」
愕然とした表情を浮かべたゲルハルト王太子を、ソフィアとレベッカが追い詰めていく。
「ゲルハルト王太子が小麦の輸入のため、アヴァロンとの政略結婚を求めることは最初から予想していたはずです。沿岸連合は、この交渉を失敗させ、ゲルハルト王太子の責を問うような工作をしてくるのではないかと推測しています。民が苦しんでいるのに食糧を確保できない無能な王太子に仕立てるつもりかと」
「私もソフィアの意見には賛同しますわ。沿岸連合も小麦をいつまでも売り渋ることはできません。グリューネヴァルト公爵令嬢が亡くなられた第三王子妃の祖国と交渉し、無事に食料を確保するというような筋書なのではないかと愚考いたします」
「ま、待て。つまりアヴァロンとの交渉は失敗が前提となっていて、私がこのまま祖国に戻れば『無能者』という扱いを受けるということか?」
「あくまでも推測ですが、そうですね」
「そして、アンネリーゼいや、グリューネヴァルト公爵令嬢が無能な王太子の代わりに、王太女として擁立されるというわけか」
「然様でございます。そう考えると、ロイセン国王陛下の御身も危うい気がいたします。女王の御代が早く来て欲しいと願うでしょうから」
「それは叛逆ではないか!」
ソフィアは少し考えて答えた。
「叛逆に見えないようにすることが大事なので、このように手の込んだ裏工作をするのではないでしょうか?」
「だがアヴァロンとの交渉を失敗するよう仕向けることなどできまい?」
「いえ、残念ながらその工作はほぼ成功しております。少なくとも今のままでは、アヴァロン王はロイセンへの食糧輸出を許可しないでしょう」
「それは沿岸連合が小麦の取引を停止したからか?」
「それもありますが、何よりゲルハルト王太子が示された輸入量が問題なのです」
「アヴァロンが供給できる能力を超えていると言う話だったな」
「仰る通りですが、正確に言えば『調整すれば不可能ではない量』でもあるんです。なにせアヴァロンは農業国家ですから『小麦は売るほどある』のも事実ですから」
「すまぬ。意味が解らない」
ソフィアは喉の渇きを覚え、冷めてしまった珈琲を飲み干した。
「少し視点を変えましょう。殿下は、ここ数年間の間に沿岸連合諸国から輸入された小麦の量をご存じでいらっしゃいますか?」
「ロイセン国内の生産量によって前後するが、およそ300万から400万トンだ」
「その数字を確認したのはいつですか?」
「えっ!?」
「おそらくここ2か月くらいの間ですよね?」
「そうだな」
『あぁ、やっぱり』
「その小麦の品種の内訳は確認されましたか?」
「品種?」
ゲルハルト王太子は不思議そうな顔をした。
「グランチェスター侯爵閣下、グランチェスター領が毎年生産する小麦の量をご存じでいらっしゃいますか?」
「当然だ」
「ではゲルハルト王太子殿下が仰せになっていることに違和感を覚えますか?」
「残念だがその通りだ」
「どういうことですか! グランチェスター侯爵!」
これにはゲルハルト王太子本人ではなく、ジルバフックス男爵が反応した。
「ジルバフックス男爵、そう興奮されると言いにくいのですが、あなたは自身で小麦の取引をしたことがないようですね」
「確かにまだ経験はないが、今回は私が窓口にならざるを得ない状況だと思っている」
「では今すぐ学習された方が良い。あなた方は一口に『小麦』と呼んでおられるが、そもそも小麦の品種は一つではありません」
グランチェスター侯爵の発言を、ジルバフックス男爵は侮辱と受け取った。
「無論、小麦にさまざまな品種があることは存じております。ですが、食料品の確保という観点からすれば、品種を問わずに確保したいという気持ちが先行して当然ではありませんか。少々味や風味が違うからと言ってなんだというのですか」
「その発言で、まったく小麦をご存じでないことは理解できます。パンを作る小麦と菓子を作る小麦では種類が違うということすら知らないようだ。あなたたちが国民に必要なものと量を正確に把握しているとは思えない」
グランチェスター侯爵は淡々と続けた。
「グランチェスター領は硬質小麦をおよそ400万トン、中間質小麦と軟質小麦はそれぞれ200万トンほど生産しています。大麦やライ麦などもありますから、”麦”と呼ばれる穀物だけでもそれなりの量になります。グランチェスター領はアヴァロンの穀物蔵と呼ばれるくらい穀物の生産量が多い領ではありますが、それでもアヴァロン全体の生産量の半分を少し超えるレベルです」
「つまりアヴァロンでは毎年1,600万トンほどの小麦を生産しているということですよね?」
「ざっくり言えばその通りです。そして、アヴァロン国内で消費される小麦の総量が1,000万トンを超えることはあまりありません」
「それでは、ロイセンに小麦を売ることも可能ではありませんか!」
「端的に数字だけ見ればその通りです。ですが、我が国は農業国家としてさまざまな国と取引しています。既に決まっている取引があるにもかかわらず、ロイセンだけを優遇することはできないのです。しかも、相手は自分たちが要求している小麦の内訳すら明確にしていません。これでは我が国の王も首を縦に振ることはできないでしょう」
「な、なるほど。ご教示いただき恐縮です。己の無知を恥じ入るばかりです」
ジルバフックス男爵はグランチェスター侯爵に深々と頭を下げた。
「ここから先の情報をここで話すべきか少し悩みますが…」
「ソフィア、いまさらであろう」
ゲルハルト王太子は焦れたように先を促した。
「殿下、物事には必ず理由があるものです。なぜ我が国の王がロイセンを支持できないと思われたのか、本当に理解できていらっしゃいますか?」
「先程其方自身が申したではないか。ロイセンが要求する小麦の量がアヴァロンの想定を超えているからなのだろう?」
「その通りですが、その数字をゲルハルト王太子殿下が要求したことが、最大の理由だと思います。私ども独自の情報ですので、お国許に戻られたらきちんと確認いただきたいのですが、ロイセンがここ数年で沿岸連合から輸入した小麦の総量はいずれの年も150万トン以下でした。そのうちの100万トン前後が硬質小麦です。今年は特に不作の年だったとしても、いきなり300万トンは異常な数字だと思います」
「は?」
「殿下は、これまでの輸入量や今年必要となる小麦の輸入量を『ここ2か月の間』に受けた報告と仰せでしたよね?」
「そうだ」
「それはグランチェスター領への暴動が失敗した時期に重なります。おそらく暴動が失敗に終わってグランチェスターの小麦が無事であることを知ったため、ロイセンの官僚を抱き込んで虚偽の報告をさせたのではないかと。常日頃から数字に気を配っていれば気付くはずなのですが、ゲルハルト王太子殿下はそのあたりの確認が甘いようですね。そこを狙われたのでしょう」
「つまり書類の数字すら操作しているということか?」
ソフィアは嘆息しつつゲルハルト王太子にズバリと指摘した。
「さすがに農業国家の王として、アヴァロンの国王陛下は、各国の小麦生産量や消費量などをある程度は把握されていると思います。ゲルハルト王太子の要求した数字にも違和感を覚えたはずです。そのため国王陛下は我が国の王太子殿下を狩猟大会に随行させず、その息子であるアンドリュー王子に任せたのでしょう。彼には小麦の輸出を決める権限がありませんから」
「つまり、突き放されたということか?」
「完全に取引をやめてしまうつもりはないからこそ、直系の王子を随行させたのだと思います。もうちょっと現実的な条件に落ち着くことができれば交渉は再開できるでしょう。ロイセンとの取引をしたくないわけではないはずです」
「なんとも中途半端な」
「苦肉の策と思ってくださいませ。何度も申し上げているように、敵は既に懐に深く入り込んでいます。官僚が上げてくる数字ですら信用できない状況です。ゲルハルト王太子を追い落とし、グリューネヴァルト公爵令嬢を王太女に擁立すれば、次に狙われるのはロイセン王でしょう。病などで臥せってないことを祈るばかりです」
ゲルハルト王太子とジルバフックス男爵はお互いの顔を見合わせて真っ青な顔をした。
『おや? もしかして本当に王の具合が良くないのかな?』