あの容器の名前って何て言うんだろう?
予想よりも早めにヴィクトリアから解放されたため、ソフィアは予定通りの時間にサロンの会場となる建屋に到着した。まだサロンが開かれる2時間程前なので、ソフィア商会の従業員たちはグランチェスター小侯爵の使用人たちの指示に従って見本商品を陳列している。
ソフィアはエリザベスの手配した控室に入り、着替えだけを急いで済ませると、従業員たちと共にやってきたキャサリンを呼んだ。
「昨日に引き続いてお世話になります。オルソン令嬢にはどれくらいお礼を言えばよろしいのか…」
鏡越しにキャサリンと目が合ったソフィアは、丁寧なお礼を言った。
「ソフィア様、ここには私しかおりませんので、ご無理なさらなくても大丈夫ですよ。と言うかですね、集落の女性たちも皆気付いております。無論乙女たちやコーデリア様も同様です」
「え?」
愉快そうな微笑みを浮かべたまま、キャサリンはソフィアの顔を見てからメイクを直し、髪を整えていく。
「ですが、サラお嬢様の口から本当のことを教えていただくまで、そのことには触れないでおります。暗黙の了解というやつですね」
「ソフィアをもっと年嵩の女性にしておくべきだったわ」
「うーん。あと10年くらいまでなら構いませんが、それ以上だとヘアメイクにかかる時間がかなり長くなりますからメイドとしてはおすすめしませんわ」
「そういうものなの?」
「お肌の曲がり角を舐めてもらっては困ります」
「そこはアメリアさんに頑張ってもらったら解決しないかしら?」
「解決できれば、ソフィア様もアメリアさんも大金持ちですね。いえ、既にソフィア様は大金持ちでした」
ふんわりと結い上げた髪に魔石をちりばめた髪留めを飾ると、裕福な女商人の出来上がりである。ソフィアは立ち上がって姿見の前に立ち、ぐるりと自分の様子を観察した。
「どうかしら?」
「お美しいですが、女商人っぽくはないです。私の知る女商人といえば、貴族や商人の愛妾が飽きられて手切れ金で商売を始めるか、物売りから才覚で成り上がった女性ばかりなので」
「つまり、若い女性はいないってことね?」
「おそらくソフィア様を真の商会主として捉えている方は少ないでしょう。大変失礼な話ではありますが」
「失礼なんかじゃないわ。それって、私はお飾りだって油断してるってことでしょう?」
鏡越しに見えるソフィアは、にんまりとした微笑みを浮かべている。
「レヴィ様が小公子の姿でいらしたときと同じような顔をされていらっしゃいますね。そういう顔をされたときは、大抵ひどいイタズラをされるんですよ…。血のつながりがないのが不思議なくらいよく似た母娘でいらっしゃること」
「大丈夫よ。私は皆さんと踊ってくるだけだから。もしかしたら、踊らせる側かもしれないけどね」
「ほどほどになさってくださいませ」
「任せておいて!」
「それが一番信用ならない答えですわね。そんなところまで似なくても…」
キャサリンは呆れたように肩をすくめた。
会場に戻ったソフィアが商品の最終チェックをしていると、そこにクロエが飛び込んできた。
「あら? あなたは誰? サラに凄く似てるけど、彼女のお母様は亡くなってるはずよね?」
「初めましてクロエお嬢様。私はソフィア商会のソフィアと申します」
「あぁ、あなたがソフィアね。サラの息が掛かった商会と聞いていたけど、なるほどね」
どうやらクロエはソフィアをサラの親戚として認識したようだ。
「お嬢様はサロンに参加されるのですか? お酒も出すはずですから未成年の方は参加しないのかと思っておりましたが」
「ええ、私は正式な参加者ではないわ。でも、サラの作ったチェスセットをデモンストレーションするためにクリスを呼んだでしょう? その相手役になったの。だから最初だけ参加するのよ」
「なるほど、そうでしたか。クロエお嬢様にご協力いただけること、深く感謝申し上げます」
ソフィアはクロエにお礼を述べ、近くに置かれていたボディクリームの入った小さな瓶をひとつ取り出してクロエに渡した。
「こちらはできたばかりのボディクリームです。高価なのでこの瓶で1ダラスするのですが、香りがとても強いので、首筋などに塗るとほのかに香りが上がるのです。この商品のアイデアはクロエお嬢様から頂いたとサラお嬢様から伺っております。どうかひとつお持ちください。こちらは限定版のバラの香りなんです。希少なので少量しか作れませんでした」
「ありがとう! あなたってとってもいい人ね!」
クロエはさっそく瓶の蓋を開け、くんくんと匂いをかいでニッコリと微笑んだ。
「匂いはお気に召しました?」
「ええ、とってもいい香りよ」
『うーん。クロエって現金。だけど、簡単にモノで釣られて誘拐されそうで心配になるわ』
肉体年齢に精神も左右されるのか、なんとなく親戚のおばちゃんのような目線でクロエを見てしまった。
そこにエリザベスが貴族の女性たちと連れ立って会場に入ってきた。ソフィアはさっと会場の脇に控えて頭を下げる。
「ソフィア、そんなところにいないでこちらにいらっしゃい」
小侯爵夫妻はソフィアの正体を知らないが、見た目からサラの母方の親戚だろうと納得した。アデリアの実家は外国の商会と聞いており、おそらくグランチェスター侯爵かサラがスカウトしたのだろうと考えている。
「承知いたしました。グランチェスター小侯爵夫人」
「ふふっ、長いからエリザベスで良いわ」
「はい。エリザベス様」
ソフィアは見目の良い少年の従業員を従えて貴族女性たちの元へ歩み寄った。この少年こそが商業ギルドの、というよりコジモの密偵であるマリウスだ。
マリウスは女性ウケしそうな商品を積んだワゴンを押しながら、ソフィアの後に続いて貴族女性たちの集団へと近づいていく。
「昨日見かけた方も多いと思うかもしれませんが、この者がソフィアですわ」
エリザベスが紹介すると貴族女性たちは一斉にソフィアを見つめた。
「ソフィア商会の商会長を務めますソフィアと申します。以後、お引き立て賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。こちらはお近づきのしるしにご用意いたしました」
木箱に入った巾着を女性たちの侍女たちに手渡していく。
女性たちが巾着を開くと、中には金属でできた10cmほどの筒状の細工物が入っていた。非常に繊細な細工が施され、小さな宝石が嵌めこまれている。
「これは何かしら?」
一人の女性がソフィアに尋ねた。
「こちらはリップクリームという当商会の新製品でございます。唇が乾燥してしまうと、皮がめくれたり、酷いときにはひび割れたり切れたりしてしまうことがございます。このクリームは、そうした乾燥から唇を守るためのものなのです」
「では、これは容器なの? 変わった形をしているようだけど」
その女性はリップクリームの容器を矯めつ眇めつしている。
「実はこのように蓋をはずし、下部をくるくると回すと、中身が少しずつせりあがる様な仕組みになっておりますの。ですから直接このように唇に塗ることができるのですわ。口紅を付ける前の下地にも向いております」
更紗時代のリップスティックやリップクリームの定番容器がこの世界には無かったので、サラはテレサに相談して急いで作ってもらったのである。
「まぁ面白い。それにこの細工も素晴らしいわね」
「実はこの小さな宝石は光属性の魔石なんですの」
「えっ!」
この発言に驚いた貴族女性たちは、一斉に自分の手元にあるリップクリームの容器を見た。
「その魔石はとても小さい光属性の魔石なのです。そしてその容器には光属性の治癒魔法を発動するための魔法陣が仕込まれておりますの。魔力を込めていただければ、小さな傷を数回程度治癒することができるようになっております」
「光属性の魔石だなんて信じられないわ!」
するとセドリックが耳元で、その女性が誰なのかを教えてくれた。
ソフィアはにこりと微笑んでマリウスから小さな刃物を受け取り、自分の指先をちょっとだけ傷つけた。その様子を見ていた貴族女性たちからは、ざわりと驚きの声が上がる。
「バーナーズ伯爵令嬢、ご覧いただけますか?」
リップクリームの容器を手に魔力を少しだけ込めると魔石が発光し、ソフィアの傷をみるみる癒していく。1分もしないうちに傷は跡形もなく消え、滴った血だけがハンカチの上の染みとして残された。
「このように容器を傷の近くにあてて魔力を込めれば治癒魔法が発動いたします。もちろん魔石の魔力を使い切ってしまえば効果はなくなってしまいますので、使いどころは皆様次第ですわ。王都で鑑定していただければ、魔石の質などはご理解いただけるかと思います」
みな一様にポカーンとした表情を浮かべた。およそ0.5カラット程度の魔石だが、サラの作った魔石なので純度はとても高い。この容器ごと鑑定すれば、本物であることがすぐに知れるだろう。魔石だけでも市場価格が100ダラスを下回ることは無いだろうが、治癒魔法を発動可能な細工となると、さらに値段は跳ね上がるに違いない。
「お気に召していただければ幸いでございます」
ソフィアは身を屈めて再度貴族女性たちに礼を尽くした。
「とても素敵で気に入ったわ。ソフィア商会とは今後もお付き合いしたいわ」
「まだグランチェスター領にしか店舗はないの? 王都に出店するなら支援するわよ」
「先程のお茶会で頂いた音の出る箱…たしかシュピールアでしたっけ、アレを販売しているのもソフィア商会なのでしょう?」
女性たちは口々にソフィアに詰め寄るように話しかけてくる。
ソフィアはセドリックのお陰で相手の名前を間違えることなく、その一つ一つに丁寧に応じることができた。
実はマリウスは嵌めこまれている宝石が魔石であることを知らなかった。単なる凝った化粧品の容器だとしか思っておらず、コジモにも貴族女性たちへの土産は取るに足らない商品だと報告してしまっていた。
『まずい、急いでコジモ様に追加の情報を報せなければ』
マリウスは大いに焦っていたが、その焦りを表に出さないだけの分別はあった。無論、ソフィアの方は、マリウスの顔色が少々悪くなっているのを見て内心ほくそ笑んでいる。
なお、容器に使われている金属なのだが、驚いたことにβチタニウム、つまりチタン合金である。
テレサはサラの武器を開発するため、素材を必死になって探し回っていた。小さなサラでも取り回しやすいよう、なるべく軽い素材にしたかったのだが、強度を犠牲にするのも避けなければならない。だが、どれほど探し回っても良い物が見つからず、しょんぼりと乙女の塔に戻ったところ、アリシアから「パラケルスス師の本を参考にしてみたら?」というアドバイスを受けた。
あまり読み書きが得意とは言えないテレサは大量の本の前で尻込みをしたが、その様子を見ていたトマスが資料となる書籍を探すのを手伝ってくれた。
結果として得られた成果はとても大きかった。テレサが見たことも聞いたこともない金属の種類や、合金にした際の特性、金属加工の方法などの資料が眠っていたのだ。
テレサはすぐさまこのことをサラに伝えたが、それを聞かされたサラは頭を抱えた。
『パラケルススさんは、私以上のチートね』
だがその技術を即座に商売に利用するサラに言われるのは、パラケルススとしても心外だろう。なお、金属の細工に魔法陣を埋め込めないかと言い出したのはアリシアで、テレサと一緒になって楽しそうに商品開発をしていた。
サラはシンプルなリップクリーム容器を作るだけのつもりだったが、気が付けば豪華な細工に治癒魔法が発動できる加工を施されたとんでもない商品が出来上がっていた。
『この出来栄えなら、貴族女性のお土産にちょうど良いかも』
そうサラに思わせるくらい美しくも高性能な商品であった。中のリップクリームも含めれば、これは3人の乙女の共同作品と言えるだろう。
余談であるが、乙女の塔でトマスと親しく会話しているテレサを目撃したフランは大いに嫉妬し、焦ってプロポーズの準備を始めた。だが、そんなフランを母親のトニアが慌てて制止した。
「フラン、嫉妬した勢いでプロポーズするのはみっともないわ。仕事に打ち込んでいるテレサを支えられる夫になる自信はある? 今のあなたを見ていると、テレサの仕事を邪魔する存在にしかならないわ」
トニアはテレサが大好きなので、うっかり子供ができちゃったから結婚と言われても歓迎する気ではいる。だが、自分の息子が独占欲に駆られて、テレサの仕事を邪魔するようなことを断じて認めるつもりはない。
真面目なフランはテレサが無事にサラの武器を作り上げるまで、プロポーズを待つことにした。そして、いつでもプロポーズできるよう黙々と蒸留釜を作り続け、年明け早々には自分の工房を持って独立することになる。
マジで、あのリップクリームの容器って何て名前なんでしょう。
誰か知ってたら教えてください。
→ 沢山の方々に教えていただきました。感謝いたします。