狩猟大会の開会式 1
ソフィア商会にある商会長室では、トルソーに掛けられたドレスが待っていた。今日の開会式に着ていくドレスで、女性たちの集落からは貴族家でメイドとして働いた経験のある女性たちが派遣されてきていた。
彼女たちを取りまとめているのは、レベッカの元メイドだったキャサリンだ。時刻はまだ午後になったばかりだというのに、ソフィアをバスタブに放り込んで一皮むくようにゴシゴシと洗い、全身くまなくアメリア特製のボディクリーム(非売品)を塗りこんでいる。もちろん、髪もアメリア特製のヘアオイル(非売品)を使ってケアしている。
『これ完全にエステだよね。まさか、お母様がこんなことを手配してたとは予想外…』
そうなのだ。バタバタと忙しくしていたせいで自分のことを後回しにしていたサラを気の毒に思ったレベッカは、ソフィアの身支度をキャサリンに依頼したのだ。
「それにしてもソフィア様はお美しいですわ。化粧はあまり濃くせずポイントを引き立たせるようにいたしましょう。これほど見事な蒼い瞳ですものね」
髪をあまり高くならないように結い上げ、後れ毛を調整する。キャサリンに言わせれば、この後れ毛こそが、最も重要なのだそうだ。
「一分の隙もない髪型では堅くなりすぎですが、後れ毛が多いとだらしなく見えます。この加減がとても重要なのです」
「そういうものなのですね。では専門のキャサリンさんにお任せしますわ」
「お任せください!誰もが見惚れる美女は間違いなくソフィア様になります!」
『え、そんなに目立ちたくないんだけど…』
ソフィアは平民であるため、派手なドレスを着るわけにはいかない。基本的に貴族の令嬢たちよりも目立たないドレスでなければならないのだ。だが、ソフィア商会の顔として貧相な装いをするわけにもいかないという矛盾もある。
そのため、今回はビスチェタイプのマーメイドドレスの上からレースのボレロを羽織ることにした。繊細なレースから薄っすらと肩から二の腕のラインが透けて見えるような仕上がりになっている。貴族の令嬢たちと色が被ることを避けるため、ドレスの色には光沢のあるグレイを選んでいるが、下に行くにしたがって黒味が増すグラデーションを描いており、一見地味だが見る人が見れば価値の分かる生地を使っているのだ。
「それではソフィア様、コルセットを締めていきますね。それほど締め上げるつもりはございませんので安心してください。そんなことしなくても、ソフィア様のお身体は完璧でございますから」
と、油断するようなことを言っておいて、キャサリンはまったく容赦がなかった。
『ぐぇぇぇぇぇ』
だが不思議なことに、暫くすると締め上げも気にならなくなった。なんなら内臓が正しい位置に収まって姿勢が良くなったような気分にすらなる。
ドレスを着せてもらって姿見に映った自分を見て、サラは驚いた。
『細い! なにこのウェスト!』
自分ではない何かを見た気持ちになるほど、ドレス姿のソフィアは別人であった。折れそうなくらい細いウェスト、デコルテは下品にならない程度に見せているが、それでもソフィアの豊かなバストラインを隠しきることはできていない。だが、最近は胸元を大きく開けてふくらみを強調するドレスが流行であるため、ソフィアのドレスが慎ましやかに見えるだろう。
そして髪を結い上げて化粧を施したことで、大人っぽさは2割増し、美しさも3割増しくらいになっている。
『なんでこんなに美女に転生したんだろう。そんなに前世で善行積んだ覚えないぞ』
サラからソフィアになるだけでもビックリな変身だが、人の手だけでもここまで変身できることに驚きを隠せなかった。
支度が終わってハーブティを飲んでいると、ダニエルが部屋まで迎えに来た。今日のダニエルは護衛兼パートナーである。ソフィアをエスコートするため、ダニエルも今日は全身ピカピカである。美麗な騎士服風の衣装に装飾的な剣を佩いたダニエルは、いつも以上に精悍な雰囲気を漂わせている。
「これはまた、驚くほどに美しいですね」
「ありがとうダニエル。今日はよろしくね」
ニッコリと微笑んだソフィアは、そっとダニエルに手を差し出した。
グランチェスター城に到着すると、ロバートとレベッカに迎えられた。
「やぁソフィア、今日はいつも以上に綺麗だね」
「恐縮でございます、ロバート卿」
「キャサリンがいい仕事をしたようね」
「恐れ入りますオルソン令嬢。この度は大変お世話になりました」
三人はいたずらっぽい視線を交わし合って微笑んだ。
「いよいよシードルとエルマブランデーのお披露目ね。私もワクワクしてきたわ」
「皆様に気に入って頂ければ良いのですが…」
「心配しなくても大丈夫よ」
レベッカはソフィアの肩を軽くぽんぽんと叩いた。
次々と到着するゲストの出迎えにロバートたちがその場を離れると、ソフィアをチラチラと盗み見る視線が気になるようになった。
「ちょっと視線が五月蠅いわね」
「仕方ありません。ソフィア様は美しすぎます」
「目立たない地味なドレスにしたつもりなのだけど」
「まさかそれで隠せると思っていらっしゃいませんよね?」
『ちょっとだけ思ってました』などとは言いにくい雰囲気だったので、サラはダニエルに嫣然と微笑んだ。それを正面から見てしまったダニエルは、頭ではサラであることを理解していても、自分の心臓が激しく脈打つことを止められなかった。
「ひとまずテラスに退避しましょう。カーテンを締めれば誰も来ないって言ってたわ」
レベッカから急いで教わった舞踏会ルールに沿って、ソフィアはテラスへと移動しようとした。
が、その時
「ソフィアではないか」
声をかけてきたのはジルバフックス男爵であった。ダニエルにとっても警戒対象の上位にいる男でもある。
「ごきげんよう、ジルバフックス男爵」
「今日は其方を訪ねようと先触れを出したのだが…」
「申し訳ございません。本日はバタバタとしておりまして」
「致し方あるまい。だが近日中に其方と話し合いの場を持ちたいのだが、時間を取ってもらえないだろうか」
「では、これから少しテラスでお話をいたしませんか?」
「ふむ。承知した」
ソフィアはダニエルを引き連れ、ジルバフックス男爵と共にテラスへと移動した。商会の応接室のときほど失礼なことはしないだろうとの判断である。不埒な振る舞いに及べばダニエルも黙っていないだろうし、大声を出せばあっという間に人が集まってくるだろう。
「不躾で済まぬが確認させて欲しい。本来の言葉以上の裏の意味は持たぬ。其方はグランチェスターの関係者であるのか?」
「それを私の口から申し上げることは許されておりません」
「そうか。承知した」
これは言外に肯定を意味している。だが公的に関係性を認めることは無いと説明しているに過ぎない。無論、ジルバフックス男爵もそのあたりは理解していた。
「グランチェスターの小麦はすべて其方の商会が買い占めたと聞いている。売り先は決まっておるのか?」
「ふふっ。さすがにそこまではコジモ殿をはじめとする商人の方々も把握していらっしゃらなかったようですね」
くすくすと面白そうにソフィアは笑い始めた。
「なっ!」
昨日の行動が既に把握されていることに、ジルバフックス男爵は動揺を隠せなかった。
「このグランチェスターで、グランチェスター家に隠れて談合などできるわけがございません。これまで彼らは泳がされていただけですわ。どうせ密談するなら他領でやればよいものを、コジモ殿も迂闊なことですわね」
かなり言い過ぎである。ロバートは以前からコジモたちの談合を疑って娼館に探りを入れていた。だが、花の隠れ家という娼館は客の秘密を決して漏らすことは無かった。それは個別に部屋に呼んだ花たちも同様である。
『まぁ花たちの口が軽いようでは一流の娼館とは呼べないものね。それでもお父様になら秘密を漏らす花もあったと思うのだけど…まぁ追及は止めておきますか』
だが、この発言はジルバフックス男爵に大きな衝撃を与えた。そのつもりはなくても、既にロイセンが小麦の談合に与していると誤解されてもおかしくない状況に追い込まれているということだ。
「私は決してあの者どもに与しようとしたわけではない」
「承知しております。花を愛でることなくお帰りになったと」
ジルバフックス男爵はソフィアの発言に顔を赤くした。
「そこまで把握されているとはな」
「真面目でいらっしゃることは美徳でしょうが、おそらくコジモ殿からは警戒されたと思った方が宜しいかと。ロイセンでは歓待の女性を断らないのが礼儀なのでしょう?」
「それはロイセン王家や、かつてのロイセン公国に連なる貴族たちの習慣だな。ジルバフックス家はオーデル王家に仕えていた貴族家だ。当時は伯爵を拝命していたが、ロイセン王家に膝を屈し、辛うじて男爵位に留まった末端貴族だ。故に我が家は継嗣に問題がなければ無暗に側室や愛妾を迎えることは無く、家の者を王家や上位貴族に差し出すこともない」
『へー、そんなこと言っちゃうんだ』
「私は随分と特別扱いをしていただいたのですね」
口説かれた翌日に、『無暗に側室や愛妾を迎えない』と言われたところで、まったく説得力が無い。
「あ、いや、それは……すまない。アレは勢いであった。どうか忘れて欲しい」
「ふふっ。承知いたしました。どうかこれ以降は、ただの商人として接していただければ幸いでございます」
要するに『これ以上口説くな』という意味だが、ジルバフックス男爵は明らかにしょんぼりしている。
「ところで話を戻すようだが、ソフィア商会から小麦を購入することは可能であろうか?」
「王家の許可なく小麦を他国に販売することはできません。それはご存じでいらっしゃいますよね?」
「無論だ。故に今はゲルハルト王太子殿下が、アヴァロン王と協議しておる」
「ですが未だ王太子妃をお決めではございません。にもかかわらず、幼い子供を連れ去りかねない行動を取ったことは、既にアヴァロン貴族の間にも広まっております。果たしてグランチェスターがロイセンに小麦を卸すことを良しとするでしょうか」
「だが小麦はソフィア商会の抱える在庫であろう?」
「仰る通りです。ですが、ここでグランチェスターの機嫌を損ねれば、来年は我が商会に販売してもらえないかもしれません」
「う…」
ここにきて、ゲルハルト王太子と側近たちのやらかしが、どれほど大きな問題だったのかをジルバフックス男爵はようやく理解した。無論、自分の行動についても。
「どうすればよいのだろうか」
「まずはアヴァロン王との協議を終わらせて王太子妃をお決めになり、グランチェスター侯爵を説得するという正攻法しかございません」
「その間に小麦がすべて売り払われてしまうなどということは…」
「十分あり得るでしょう。ですからあまり時間は残されていないかもしれません」
『十分に慌てて頂戴。余計なことをする暇なんてないってことを思い知ればいいわ』
「承知した。時間を割いていただいて感謝する」
その場を立ち去ろうとしたジルバフックス男爵の背中に向かって、ソフィアは声を掛けた。
「ジルバフックス男爵、どうか今宵の新たなお酒を楽しんでくださいませ」
「新たな酒?」
「ええ、ソフィア商会が販売する新たなお酒です。まだそれほど量は無いのですが、将来的にはグランチェスター領の特産品としたいのです。ロイセンでも紹介していただければ幸いですわ。次は商人同士としてお話合いしたいものです」
「承知した」
この時、ジルバフックス男爵は社交辞令として、ソフィアの言葉を受け取った。だが、すぐに彼はこの時のソフィアの発言を言質とし、ソフィア商会が販売するシードルとエルマブランデーをロイセン国内で独占販売する権利を取得するに至る。
そして、これが国の命運すら左右すると言われる『大富豪ジルバフックス家』の最初の一歩になることを、ジルバフックス男爵もソフィアも気付いていなかった。