認識を新たにするロイセン男子
グランチェスター城内の旧館に戻ったジルバフックス男爵は、ゲルハルト王太子がまだ晩餐の席から戻っていないことを確認し、急ぎ湯浴みを済ませた。
『まずは今日あったことを殿下にお伝えし、善後策を検討せねば』
身体に残る不快なほど甘ったるい匂いを洗い流したジルバフックス男爵は着替えを済ませ、爽やかな薄荷の香りがするハーブティを飲みながら波乱だらけの今日の出来事を思い出した。
『ソフィア商会か。グランチェスター家の息がかかった商会というより、グランチェスター家が薄汚い商人どもに食い物にされないために作った商会なのかもしれぬ。おそらく談合に気付いたのだろうが、商人どもが結託すれば対抗するのは難しいだろうな』
商人でもあるジルバフックス男爵が見れば、ソフィア商会が大商人たちに正面から仕掛けた争いは、一見すればとても無謀な戦いに見える。いかにグランチェスター家が富貴な家であったとしても、今年の収入の7割を現金化せずにいられるとは考えにくい。
『しかも、あのように美しい女人が戦の矢面に立つというのか』
嫋やかなソフィアの姿を思い出し、ジルバフックス男爵は昼間から劣情を覚えたことを酷く恥じた。
『しかし、売り先の決まっていない小麦を大量に抱えている商会があるというのは、それはそれで魅力的ではある。おそらくあの商人の中には、親切な顔を装ってソフィア商会から小麦を購入している者もいるだろう。なんならソフィアに親切な顔をして近づき、小麦を購入する見返りに不埒な要求をするものもいるかもしれないな』
そこに思い至ったジルバフックス男爵は、何故か無性に腹が立ってきた。
『もしや、それを見込んでグランチェスター家はソフィアを商会の代表に据えたのか? なんと非情な!』
ジルバフックス男爵はソフィアの色香に迷った商人たちの下卑た笑いを想像したが、これは大きな誤解である。そもそもソフィアにそんな不埒な提案をすれば、ロバートが全力で相手を潰しにかかるだろう。
どちらかといえば、ソフィアの色香に迷って安っぽいヒロイズムに浸っているのはジルバフックス男爵の方である。
『ならば、ロイセンがソフィア商会から小麦を購入すれば良いのではないか? ソフィア商会に鉱物資源を現金化するルートが無いのであれば、他の商人を介して取引することもできる。グランチェスター家や不埒な商人からソフィアを守れるだろう』
ふと、ドアの外で使用人たちが俄かに動き出す気配を感じた。とうやらゲルハルト王太子が戻ってきたらしい。ジルバフックス男爵も身支度を整え、本城と旧館を繋ぐ回廊まで足を運んで出迎えた。
「ジルバフックス男爵、戻っていたのか」
「はい。実は急ぎご報告せねばならぬことがございます」
「そうか。では私の部屋で話を聞こう」
場所を移してジルバフックス男爵からの報告を受けたゲルハルト王太子は、目を閉じて逡巡した。『他国の揉め事に首を突っ込むことは避けたい』という気持ちはありつつも、同時に小麦を優先的に買い付ける好機であることも理解していた。
「厄介だね。商人の談合は、多かれ少なかれどこの国でも起こり得ることではあるけれど、そこまで大規模にやられるとは」
実はアヴァロンには談合を禁止する法律がきちんと整備されていない。取り締まる法律が無いわけではないのだが、談合があったことを立証する必要がある。これがとても難しいのだ。単に商人たちが集まって話し合いをしただけでは、彼らを罪に問うことはできない。とはいえ、王族や貴族の機嫌を損ねて良いことはあまりないため、ここまで大胆に談合してくるケースは少ない。
「それにしてもコジモか…あまりアヴァロンっぽい名前じゃないね」
「確かにそうですね。どちらかといえばフローレンス辺りに多い名前かと存じます」
「偶然かなぁ」
「今は判断材料が少なく、なんとも申し上げられません」
だが、最近起きたロイセンの名を騙る暴動、その前から行われていた組織的な横領などを考え合わせると、これらの事件には繋がりがあるように思えてならない。
「いずれにしろ、今の我らはグランチェスターに恩を売っておくべきだね。ソフィア商会を通じてグランチェスターが堂々と正面から商人たちに喧嘩を売ったことを考えれば、おそらく談合の会議にジルバフックス男爵が参加していたことは知られていると考えた方が良いと思うんだ」
「はい。私が迂闊でございました。申し訳ございません」
「いや、この状況を逆手に取って、グランチェスターを味方に付けるべきだろう。今からグランチェスター侯爵に密書を送るよ。『談合の場に部下が居合わせた』『ロイセンでは適正な価格で小麦を買い取る用意がある』と書き送っておくさ」
ジルバフックス男爵はニヤリと笑った。
「実は私も同じことを考えておりました。コソコソ隠し立てしても良いことは無さそうですので、昨夜見聞きした内容をそのままソフィア商会に流そうと考えております。ロイセンはソフィア商会から堂々と小麦を買い取りたいと持ち掛ける許可を頂こうかと思っておりました。ソフィア商会が鉱物資源の流通経路を持たない場合、現金化できる商会を間に置いても良いかと」
「ふっ…あはははは。ウルリヒ…お前、そんなにソフィアという女商人に入れ込んでいるのかい?」
「いえ、そんなつもりは…あくまでも私はロイセンのために…」
「ロイセンのために働いていることは疑ってないよ。でもソフィア商会のことになると、表情がわかりやすいくらい変わるから」
ゲルハルト王太子は大きな声でひとしきり笑い、ジルバフックス男爵を揶揄った。
「だけどウルリヒ、決してそのソフィアには手を出さないようにね」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「これ以上グランチェスター家を怒らせるべきではないからだよ。昼間にロバート卿から警告されたのを忘れたのかい?」
「しかし、それはソフィア商会が商人たちの矢面に立っているからではないのですか? 重要な局面で手駒に問題が出ることを嫌ったのでは?」
「だがソフィアはサラ嬢によく似ているのだろう? グランチェスター家は驚くほど身内を大切にするようだ。おそらくソフィアも大切にされているはずだ」
「ですが女性です」
ジルバフックス男爵は憮然とした表情で、ゲルハルト王太子に言い返した。
「おそらく、それが我々ロイセンの男が認識を改めないとダメな部分なのだろうな。先程もアールバラ公爵夫人にぴしゃりと叱られた気がする」
「と、申しますと?」
「これ以上、サラ嬢に余計なことをするなということさ。私はサラ嬢の価値を世間に知らしめ、グランチェスター家に縛られることなく彼女に幸せになって欲しいと思っていた。だが、サラ嬢は心底うんざりしているように見えたよ。まぁ表面上は礼儀正しかったけど、雰囲気を察したアールバラ公爵夫人が私の行動を遮るくらいにはわかりやすかった」
「なんと無礼な!」
「いや、彼らにしてみれば私たちの方が不躾なのだ。私たちが思っている以上に、アヴァロンの女性は強く、自分の意思を持っている。ロイセンの男子は女性を外敵から守り、好きなものを与えて甘やかすことを愛情だと思っている」
「女性とは弱き生き物ですから、守るのは当然ではありませんか!」
ジルバフックス男爵は主君に対して力説した。
「だが、アールバラ公爵夫人は自分で公爵となる夫を選んだ女傑だ。そして、サラ嬢はあれほどの技術を持っていながらも演奏家にはなりたくないと言っている。もったいないことに、それがサラ嬢の本音であることは理解した。そして、そのサラ嬢の思いをグランチェスター家の男性は守ろうとしている。思い返せば、レベッカ嬢もアドルフをギリギリまで拒んでいたそうだし、アヴァロンでは女性も自分自身で生き方を決めるのだろう。だとすれば、おそらくソフィアも同じく自分で商人の道を選んだと考える方が自然だ。そんな相手に貴族であることを振りかざして迫ってみろ、店の外にたたき出されて終わるぞ?」
「然様…でございますか」
「私としても学友のウルリヒの恋は応援したいところだが、現状では難しいだろうね。まぁせいぜい小麦取引で関係を深めてくれ」
ジルバフックス男爵はガックリと肩を落とした。実に哀愁漂う姿であった。