不愉快な会合
そこは「花の隠れ家」と呼ばれていた。領都の花街に近い隠れ家のような邸は、貴族や富裕層だけが利用できる会員制の高級娼館である。
今夜、花の隠れ家には、グランチェスター産の小麦を扱う商人たちが集まっていた。ここ数年、狩猟大会の開会式前日に集まる習慣となっており、この隠れ家で商人たちは、無駄のない小麦の買い付けを実現するための”話し合い”をしてきたのだ。
この会合を主催するのは、グランチェスター商業ギルドのギルド長であるコジモだ。彼の目に適った有力な商人だけがこの場に参加する資格を得られる。そのため商業ギルドに出入りする商人たちはコジモに敬意を払い、自分たちもこうした会合に参加したいと願ってコジモに相応の”配慮”を示すのだ。
ジルバフックス男爵は、この日が会合への初参加であった。彼はゲルハルト王太子よりも先にアヴァロン入りし、グランチェスターだけでなく、穀倉地帯を持ついくつかの領の商業ギルドを訪ねている。ロイセンが小麦を輸入する計画を持っていることを匂わせ、他国との貿易に興味を示す商人を紹介してもらってきたのだ。
コジモから小麦の買い付けに参加する商人たちの集まりがあると聞いて、ジルバフックス男爵は非常に期待を持っていた。食糧の自給率が少しずつ下がっているロイセンは、自国で採掘される鉱物資源を輸出しなければ、立ち行かないところまで追い込まれている。しかもこの2年程は不作が続いており、食料を輸入できなければ、この冬に大量の餓死者を出してしまう可能性が高い。
沿岸連合との同盟関係も、そうしたロイセンの事情によるものであった。だが少しずつ悪化していくロイセンの食糧事情は、沿岸連合を付け上がらせた。海運貿易によって豊かな沿岸連合の国々は、食糧をチラつかせてロイセンの鉱物資源を不当とも言える程の安価で買い取ってきたのである。しかも、ロイセン王室に自国の姫や令嬢を嫁がせて影響力を高め、ロイセンの政治そのものを牛耳ろうとしていた。
10年前に粛清されたアドルフ王子が他国への侵略戦争を計画していたのも、実は食糧事情が大きく影響している。アドルフ王子は間違いなくクズだったが、少なくとも母国のことは愛していた。年々国力が衰えていくことに危機感を覚え、武力行使ができるうちに他国に攻め入り、食糧事情を改善しようと考えていた。だが、そうしたやり方をロイセン王は認めず、王妃の母国から食糧の輸入を決めた。
結果としてロイセン王室には粛清の嵐が吹き荒れ、農業だけでなく商業にも大きな課題を抱える結果となってしまった。新たに王太子となったゲルハルトはサルディナから正妃を娶る約定を交わして支援を引き出したが、沿岸連合の国々は餌に集る獣のようにロイセンの富を狙うようになった。
だが、ロイセンの弱みに付け込むような沿岸連合の首脳陣に比べて、アヴァロン王は高潔な人物であった。決して大国ではないが、アドルフ王子から自国の貴族令嬢を守る姿勢を見せ、ゲルハルト王太子が謝罪に訪れた際にも不当な要求は一切しなかった。
『アヴァロンは信頼のおける国だ。できれば良好な同盟関係を結びたい』
農業大国でもあるアヴァロンと同盟関係を結ぶことで沿岸連合を牽制し、貿易不均衡を是正したいというのが、ゲルハルト王太子とジルバフックス男爵の思惑でもあった。
『だが盛大にやらかしたな…』
ソフィアに出自を尋ねたことで、自分もやらかしの一端を担っていることが、ジルバフックス男爵の頭痛を悪化させていた。いや、痛いのは胃の方かもしれない。
「ジルバフックス男爵、こちらでしたか」
好々爺然としたコジモから声を掛けられたことで、思考の沼に沈んでいたジルバフックス男爵は一気に現実へと浮上した。
「あぁ、コジモ殿か。このような会合に呼んでいただき感謝する」
「いえいえ。ロイセンの方々と縁を繋ぎたい商家や商会は多いですからな」
そしてコジモに連れられ、多くの商人たちとの挨拶を交わしていく。他領で顔見知りになっていた大商会の代表も参加しており、改めてグランチェスター領の小麦取引が重要であることを思い知らされた。
だが、穏やかな雰囲気だったのはそこまでだった。
開会の挨拶が終わるや否や、コジモがこの会合そのものを無意味にする発言を繰り出したのだ。
「大変申し上げにくいことながら…グランチェスター領の小麦はすべて買い占められた。値引き交渉を一切することなく、本日付けで新参者のソフィア商会がすべて買い上げたとの連絡を先程受けた」
「な、なんだと! 今年は豊作だと聞いているが、小麦の価格は例年とそう変わらなかったはずだ。そのすべてを買い上げたというのか!?」
「はい。本日の午後、ロバート卿が直々にソフィア商会を訪れ、売買契約を交わしたことを手の者が確認いたしました」
『なんと! あの時すれ違ったロバート卿は、そのような契約のために訪れていたのか』
「俄かには信じられん。ひとつの商会がそれほどの資金を持っているというのか? 小麦はグランチェスター領の収入の7割を占めるのだぞ! 下手な小国の年間予算に匹敵するだけの資金を、あの小娘の商会が有しているというのかっ」
唾を飛ばしながら捲くし立てる商人は、アヴァロンの王都でも幅を利かせる大商会の会長である。小麦以外にも多くの穀物を扱い、塩の流通にもかかわることが許されている特別な商会の一つのはずだ。
「ソフィア商会の会長であるソフィアの正体は不明だ。巧妙に作られてはいたが、あの身分は最近作られたような形跡がある。また、ソフィアは、グランチェスター騎士団の団長であるジェフリー卿の家に出入りしていることが確認されていることから考えて、グランチェスター家の関係者である可能性が高い」
「仮にそうだとしても、小麦を買い占めることでグランチェスターにどのような利があるというのだ!」
そこにコジモが割り込んだ。
「皆様、落ち着いてください。ソフィア商会とグランチェスター家との間に、なんらかの密約があることは明白です。おそらくグランチェスター家は我らが小麦価格を操作していることに気付いたのです」
『な、なんだと!?』
ここに至り、ジルバフックス男爵は、この会合が談合の場であることに気付いた。
『しまった、そのような陰謀に加担するつもりはなかったのに…』
「ふむ。気付いたとしてどうだというのだ?」
「おそらく書類上だけソフィア商会に売却しているのでしょう。換金されないとわかっていれば、手形などいくらでも書けますからね。小麦が買えずに困った我らが、ソフィア商会に買い付けに行くことを狙っているのではないかと」
「むぅ…なんと悪辣な」
『談合で小麦を不当に買い叩くのは悪辣ではないのか?』
横で話を聞いていたジルバフックス男爵は疑問を持ったが、敢えて口に出すことはしなかった。
「であるならば、我らはソフィア商会を干上がらせ、小麦を放出せざるを得ないように追い込むしかありませんな」
「それはソフィア商会の商品を購入しないということですかな?」
「少なくとも小麦をソフィア商会の言い値で購入することは業腹ですな」
「だが、グランチェスターが手形を換金しないのであれば、ソフィア商会はいつまでも小麦を売らないかもしれません」
すると先程の大商人がニヤニヤとした笑いを浮かべた。
「すべてをソフィア商会に売却している以上、領の予算を確保するためには、いずれ手形を現金化せねばならん。裕福なグランチェスターであろうとも、予算の執行にそれほどの余裕があるとは思えん。であるならば、我らはグランチェスター領の発行した手形と、ソフィア商会が発行した手形をひたすら現金化していけば良い」
「小麦を売らねば立ち行かないところまで追い込むということですな?」
「然様然様。追い込まれれば追い込まれるほど、我らはソフィア商会の足下を見ることができるだろうさ」
「ははは。なるほど。では、我々は甘く熟した果実が落ちてくるのを、口を開けて待てばよいということですな」
彼らの話を聞いているだけで、ジルバフックス男爵はイライラとしてきた。無論、彼自身も商会を経営しているため、商売が綺麗ごとだけで済むとは思っているわけではない。だが大商人たちだけで集まって談合し、利益を独占するやり方にはまったく納得できない。自分がこうした談合に与するだろうとコジモに判断されたことも不快でならなかった。
だが、どれだけ不快であっても、この場でアヴァロンの商人たちとの関係を悪化させることはできなかった。少なくともゲルハルト王太子や国王と善後策を検討してからでなければ、下手に動くことはできない。
ひとまずジルバフックス男爵は談合に与して立場を悪化させることが無いよう、事を荒立てることなくこの場を辞すことにした。
「そういうことなら、私のような部外者はどうにもならん。状況が変化したら、改めてこちらにいらっしゃる商人の方々にお会いできるよう取り計らって欲しい」
するとコジモがにこやかな笑顔を浮かべて応じた。
「あぁそうですな。いきなりこのような事態となり、ロイセンの方は戸惑われたでしょう。無事に問題を解決した後、ゆっくりお話しできる場を設けさせていただきます」
「うむ。よろしく頼む」
「ところでジルバフックス男爵、今夜はこちらで花を愛でていかれてはいかがですかな?」
コジモの申し出に、ジルバフックス男爵はイラつきを覚えた。外交のため王太子に随行している身でありながら、娼館で遊ぶような男と判断されたのかと不愉快になった。
だが、次の瞬間ソフィアのことを思い出して、苦い気持ちになった。
『…いや、浮ついていたことは否定できんな。ゲルハルト王太子殿下の依頼で訪ねた商会の会長に対し、口説くような真似をしたことは間違いない』
「いや今日はやめておこう。ゲルハルト王太子殿下への報告もあるのでな」
「そうですか。それは残念です。こちらの花々はアヴァロンでも有数の美しさと評判なのですが…」
「気を使わせてすまないな。また機会があれば会おう」
それだけ言うと、ジルバフックス男爵は足早に娼館から立ち去った。だが馬車の中で自分の身体に甘い香りが移っていることに気付き、酷く汚らわしいものに塗れているような気持ちになった。
「一刻も早く湯浴みがしたい」
馬車の中で独り言を呟き、ひどく疲れた表情を浮かべてグランチェスター城へと戻っていった。