恩は売れるときに売れ
近衛騎士たちの暴走をゲルハルト王太子の名代として正式に謝罪し、諸々の処理を終えたジルバフックス男爵は、報告のためにゲルハルト王太子の部屋を訪れた。
「ただいま戻りました。先方も大事にすることは望まないとのことで、慰謝料などはお受け取りにならないそうでございます。謝罪文をグランチェスター侯爵にお渡しし、サラ嬢には花束と菓子をお届けいたしました。ただ、サラ嬢はグランチェスター騎士団の団長宅に滞在されるとのことで、お会いすることはできませんでした」
ソファに腰を下ろしていたゲルハルト王太子は、背もたれに倒れ掛かるように天井を振り仰いだ。
「すっかり嫌われてしまったようだな。いや怯えられているのか」
「丸腰で騎士に囲まれる状況は大人でも恐ろしいものでしょう」
「まったく余計なことをしてくれたものだ。だがこれも私の愚かな行動が招いた結果か。失敗したな」
ジルバフックス男爵はゲルハルト王太子の意図を計りかねていた。長年ゲルハルト王太子に仕えていることから、彼が幼児性愛者ではないことは承知している。未成年の正妃とは正式に床入りすることはなく、側室に迎えてはいないが愛人関係にあった女性は何人かいた。だが、そうした愛人の中に成人前の女性は一人もいなかった。
ゲルハルト王太子は、数多くの演奏家や歌手を支援してきた。時折女性演奏家や歌姫と深い関係になることもあったが、関係が終わっても支援を打ち切るようなことはなく、才能と恋愛は区別して考えるタイプである。
「確かに殿下が何をお望みでいらっしゃるのかを計りかねているのは事実でございます」
「どういうことかな?」
「サラ嬢の演奏は確かに素晴らしいものでした。まだ8歳という幼さではありますが、隠し切れない程の秀でた美貌もお持ちです。殿下はあの方を将来の側室としてお迎えになるため、演奏家としてお連れになりたいのですか?」
ゲルハルト王太子は盛大なため息をついた。
「完全にやり方を間違えたな」
「やり方、でございますか?」
「勢いで『側室に』なんて口走ったけど、私はサラ嬢をそういう目で見ているわけではないんだ」
「ではどうされたかったのですか?」
家臣たちはゲルハルト王太子を幼児性愛者とは思っていないものの、サラに対してこれまで見たこともない執着を見せたことには驚いていた。騎士たちが暴走した理由も、この辺りにあるのだろう。やり方は大きく間違っているが。
「私はグランチェスター領に来ると決めた時、グランチェスター家のことを調べたんだよ。グランチェスター家の令嬢が正妃になってくれれば、今後のことも進めやすいしね」
「それは存じております」
「だがグランチェスター家のクロエ嬢は若過ぎる。さすがにもう一度幼な妻をもらう気にはなれなかったからね」
「ですがサラ嬢はクロエ嬢よりも幼くていらっしゃいますが…」
ジルバフックス男爵は訝し気に尋ねた。
「サラ嬢は駆け落ちしたアーサー卿の娘で、平民として育っている。両親が亡くなってグランチェスター侯爵が引き取ったが、最初に連れてこられた王都邸では小侯爵の子供たちのイジメにあっていたそうだ」
「それは想像に難くないですな」
「おそらくそれが理由で、サラ嬢はグランチェスター領でロバート卿が養育することになったのだと思われる。ロバート卿ならば子供じみたイジメをすることはないだろうからね」
ゲルハルト王太子はソファから立ち上がって窓の外を眺めた。日没が近いらしく、西側の空が赤く色づいていた。
「私はそこで読み間違えた。てっきりロバート卿は仕方なくサラ嬢を受け入れたのだろうと思い込んでいたんだよ。だって、おかしいじゃないか。サラ嬢を歓迎する気があるなら、アーサー卿が亡くなったときに手を差し伸べるべきだ。母親が衰弱して亡くなるまで放置しておいた癖に、都合よく祖父だの伯父だのとノコノコ出てくるか?」
「まぁ確かに」
「ガヴァネスとしてレベッカ嬢を招致したのも、サラ嬢のためというより初恋を拗らせたロバート卿の欲のせいだろうと思ったんだ。実際、二人は婚約してるしね。私はサラ嬢が小さなマルグリットみたいに、幼いのに知らない大人の中に放り込まれて健気に耐えているんだろうって同情してたんだ」
ゲルハルト王太子の亡くなった妻であるマルグリットは、12歳の若さで彼と婚姻を結んでいる。正確に言えば10歳で婚約者としてサルディナからロイセンに連れてこられ、12歳で結婚式を挙げて正式な夫婦となり、15歳になる直前に病で亡くなったのだ。
言葉も習慣も違う国に連れてこられたマルグリットは、いつも不安そうな顔をしていた。ゲルハルト王太子はせめて自分だけは彼女の味方であろうと努力していたが、内向的なマルグリットはなかなかゲルハルト王太子に心を開かなかった。やっと彼に笑いかけてくれるようになった頃、マルグリットは病で帰らぬ人となってしまったのだ。
「公平な目で物事を見極めるべきではあったが、私は最初から偏った目でグランチェスター家の人間を見ていたのは確かだと思う。だからサラ嬢の胸を揺さぶる演奏を聴いたとき、『あぁ私はこの子を助けないと!』って暴走してしまったんだ。あれほど素晴らしい腕前を持ちながら、『演奏家になりたくない』というものだから、てっきりグランチェスター家の人間たちに目立つなと言われているのかと」
「なるほど」
「だからグランチェスター侯爵やロバート卿があんなに怒るとはおもってなかったし、レベッカ嬢が10年前のことを持ち出すなんて全然想像してなかったんだ。貴族家であれば他国の王族との繋がりが持てることを歓迎するだろうって」
「では側室と言うお話は?」
「グランチェスター家がサラ嬢を通じてなんらかの恩恵を求めるなら、彼女に側室の身分を与えることは吝かではないと思っただけだ。彼女が長じて他に想う人ができるのであれば、その者に下げ渡しても構わない、とね」
そもそもロイセンはアヴァロン以上に男性が優位な社会である。平民ですら一夫多妻が許されており、妻は夫に従属する者でしかない。ロイセンの貴族家にとって、王族や自分たちよりも上位の貴族に対して身内の女性を差し出すことは名誉である。また、多くの男性から望まれるほど美しい女性の父親は、娘を競りにかけるように結納の品をどれだけ積み上げたかで嫁ぎ先を決める。
王族や上級貴族が部下の男性に側室を『下げ渡す』ことも一般的であり、下げ渡された側は名誉と捉える。ここに女性側の意思が反映されることはほとんどない。つまり、ロイセンにおいて王族が女性に対して将来の道筋を提案することは、女性に対する恩恵なのだ。下げ渡す際に、女性自身が『他に想う人』を考慮してくれるというだけでもロイセンでは女性に対する特別な配慮となる。
他国との外交によって、すべての国が女性をそのように扱っているわけではないことを頭では理解していても、彼らはロイセンの人間であり、背負っている文化によって思考は大きく左右される。今回の対応は完全にゲルハルト王太子の『やらかし』であることは疑問を挟む余地が無い。
「しかし、アヴァロンでは娘をあそこまで大切にするのだね。知識としては理解していたつもりだったけど、改めて思い知らされた気分だよ」
「ですが、貴族の血を引いているとはいえ、平民女性のためにあそこまで強硬な姿勢を取るのは貴族家としては些か行き過ぎではありませんか?」
「我が国と事情が違うということなのだろう。それに彼女はもうじき平民ではなくなるそうだし、こちらとしてはグランチェスター家とサラ嬢に陳謝するしかあるまい」
「殿下がそこまでされなくとも…」
「だが喫緊の課題は、この冬を越えるための食料の調達だ。民を飢えさせるわけにはいかない。グランチェスターはアヴァロンの穀物庫なのだ。今、グランチェスターを怒らせるべきではないことは、お前も承知しているだろう?」
「はい」
沈みゆく夕日を眺めながらゲルハルト王太子は呟いた。
「済まぬ。私が判断を誤ったために、交渉が厳しくなってしまったかもしれぬ。まったく頼りにならぬ王太子だな」
「いえ、私どもこそ力足りず申し訳ございません」
ゲルハルト王太子がアヴァロンに『嫁を探しに来た』と言うのは事実であるが、それがすべての理由と言うわけではなかった。ロイセンは鉱物資源は豊富だが、農地に向いている土地が少ない。正確に言えば、少しずつ土地が痩せていくのを止められないのだ。作物を植えても十分な収穫が得られないため、農民が逃げ出して耕作放棄された土地が少しずつ広がっている状況である。
そのため、ロイセンは土地の豊かなアヴァロンとの間に、通商条約を締結したいと考えていた。輸出入の関税を可能な限り廃し、ロイセンから金や鉄などの鉱物を輸出し、アヴァロンから小麦などの食料を輸入する交渉を進めている。
だが、鉱物も食料も戦略物資であり、簡単に自由な輸出入を許可することはできない。そこでゲルハルト王太子は婚姻によってアヴァロンとの関係を深めることを提案している状況なのである。
このように微妙な時期であるにもかかわらず、アヴァロン屈指の穀倉地帯を持つグランチェスターとの関係をこれ以上悪化させるわけにはいかない。
「やってしまったことは仕方がありません。これから取り戻していくほか無いでしょう。今夜はグランチェスターの商業ギルドの責任者との会合があります。毎年狩猟大会に合わせて商人が集まっているのだそうです」
「そっちはよろしく頼む。輸出入の実務窓口は、信頼できるウルリヒ商会に依頼するつもりでいるよ」
「大変ありがたいお言葉ではありますが、他の商会とも比較してご検討ください」
「わかった。そうさせてもらうよ」
そこでジルバフックス男爵は、ソフィア商会でロバートに会ったことを思い出した。
「そういえば本日、音の出る箱を買い求めに、販売元であるソフィア商会を訪ねました」
「買えたのかい?」
「実はソフィア商会でロバート卿とお会いしまして、その場で全種類を贈って下さると仰られました」
「ほう。それはありがたいね」
「それと…大変申し上げにくいことなのですが…」
「どうした?」
「その、ソフィアはサラ嬢と驚くほど容姿が似ておりました。年齢は二十歳前のように見えましたが、レベッカ嬢のことを考えますと正確な年齢まではわかりかねます。おそらく母方の血縁でしょうが……その、私がソフィアの出自を問いただしてしまいまして…」
「ぶはっ。それは堅物で知られるウルリヒ・ジルバフックス男爵が女性を口説いたということかい?」
ゲルハルト王太子は、ジルバフックス男爵の説明を聞いて噴き出した。
「その…大変に美しい女性なのでつい聞いてしまったのですが、それをロバート卿に窘められてしまいました。『うら若い女性に対し、みだりに身分や血統を問いただすことは慎んでいただきたい』と」
「もしやサラ嬢の母親は存命だったのだろうか? あるいは叔母のような人物だろうか」
「わかりません。ですが、気分を害されてしまったことは確かなようです」
「私たちは揃いも揃ってグランチェスターでやらかしているようだね」
「申し訳ございません」
「しかしサラ嬢に似た美しい女性か…それは見てみたいものだ。ウルリヒさえ虜にするほどの美貌なのだろう?」
ジルバフックス男爵は顔を赤らめて俯いたが、その瞬間に音の出る箱の命名を依頼されていたことを思い出した。
「失念してしまうところでした。そのソフィアより殿下に音の出る箱の商品名を付けて欲しいと依頼されました」
「あの魔道具の名前か。興味深いな」
「まだ名前を付けていない新商品なのだそうです。おそらく王太子殿下に命名いただくことで、商品に箔を付けたいのでしょう」
「ははは。あれは私が箔など付けなくても売れるさ。先程、貰った箱を開けてみたが、随行している魔法使いたちに言わせると、魔法陣が複雑に暗号化されていて解析はできないそうだ。質の高い風属性の魔石が使用されているらしく、とても高価な魔道具らしい」
「然様でございますか」
ジルバフックス男爵は、あの箱がそれほど高価であることを知らなかった。
『それほど高価な魔道具をあっさりと大量に土産に渡すと言っていたが…グランチェスター家の財産は一体どれほどあるのだろう。やはりこれほどの穀倉地帯を持つ貴族家は違うということか…やはりグランチェスターとの関係を良好にするための策を打たねばならないな…』
ロバートもそれほど高くつく買い物だとは思っていないだけなのだが、ジルバフックス男爵を怯ませるだけの効果はあった。
「まぁしかし、あれの命名を依頼されるというだけでもありがたいことだ。ロバート卿が直々に訪れたということは、グランチェスター家はソフィア商会の後ろ盾なのだろう。おそらくあちら側の配慮なのだ。売れる恩は売れるときに売っておくほうが得策だ」
「なるほど」
ゲルハルト王太子は暫し思考の海に沈み、やがてニヤリと笑った。
「奇を衒うよりもシンプルな方が良さそうだ。些か単純な命名ではあるが『シュピールア』にでもしておこう」
「かしこまりました。ではそのようにソフィア商会に伝えておきます」
「いや。命名書を書くよ。せっかくだしグランチェスター侯爵にもサインを添えてもらうとしよう。箔付けにはもってこいだろう。シュピールアのために演奏したサラ嬢もおそらく喜ぶだろうからな」
ゲルハルト王太子は、命名書に『シュピールア』と書き終えると、その下にさらさらと自署を認め、インクの上に砂をかけた。