収穫量の予想と新人研修
翌日、サラが授業を終えて執務棟に向かうと、見知らぬ文官が入り口近くに控えていた。ポルックスが立ち上がって、その文官を呼び寄せる。
「サラお嬢様、この者がお話させていただいた収穫量を予想する部下です」
「早速お越しくださったのですね!」
「ワサトと申します。平民ですので、無作法な振る舞いがあるかもしれませんが、ご容赦いただけますよう」
「ご安心ください。私も祖父様が偉いだけの平民です。ちょっと前まで小さな商店で店番してました」
この発言に慌てたのは周りのメイドたちである。
「お嬢様、なんということを!」
しかし、サラは態度を崩さない。
「事実ですから。侯爵家の一員として礼節を忘れるつもりはございませんが、祖父様の威を借りて居丈高な振る舞いをするつもりもございません」
「そうは申されましても…」
メイドたちは互いに顔を見合わせて困惑し、ワサトもぽかーんとした顔をしている。
「ワサトさん、平民の小娘と話をするのはイヤですか?」
「いえ、まったく。かえってホッとしているくらいです」
「では早速お話を始めましょう」
ワサトは気を取り直して、小麦の収穫量を予想するための要素について説明を始めた。
「小麦の収穫量は気象に大きく影響されます。雨量や日照時間も重要ですが、予測する際に主に確認するのは気温です」
「必要な気象記録は、天文省のものを使用されているのですか?」
「はい。基本的にはその通りです。ただ、私の実家は小麦農家ですので、畑の真ん中で気温を計測し、兄が定期的に記録してくれています」
「素晴らしい! まさに実学ですね。ところで今年の収穫量はどの程度であると予想されていますか?」
「現段階での予想では、平年通りかやや多めになるかと」
「良かったわ」
しかし、ワサトが示した資料を見ると、表に数字が書かれているだけでグラフなどはなく、計算式などもわかりづらい。これを他の人に共有するのは確かに難しいだろう。
「この知識をワサトさんしか使えないのは領の損失だと私は考えております」
「あ、ありがとうございます」
「ですがこのままでは、他の方に伝わりません。定期的に収穫予想の報告書を作成して、公開するようにしましょう。ゆくゆくは小麦以外の農作物についても、収穫予想ができるようにしたいですね。それと、例年の値との比較をわかりやすく示すために提案したいのが、"グラフ"という表現方法です」
サラはワサトに向けて折れ線グラフ、棒グラフ、パイグラフ、または複合型のグラフの書き方をレクチャーした。近くで見ていたロバート、レベッカ、文官、果てはメイドたちも興味津々でサラの説明を聞いている。
昔とった杵柄ではあるが、更紗は資料作りがとても得意であった。報告書もプレゼン資料もお手の物である。相手に伝わりやすい書き方、見やすい表やグラフなど資料の書き方についても説明を始めると、ワサトだけでなく他の人たちもメモをとりはじめた。
『新人研修を受け持った時のことを思いだすわね』
グラフと資料作成のレクチャーを受けたワサトは、早急に収穫量予想に関するレポートを作成すると宣言し、慌ただしく自分の執務室へと戻っていった。
なお、この時に記述したレベッカやメイドたちのメモをベースに作成された"グラフの描き方"という文官向け教科書は、後にアカデミーで使用する数学の教科書にそのまま取り入れられるほど秀逸なものとなった。
同様にグラフの有用性を即座に見抜いたベンジャミンは、策定中であった書類の基本フォーマットにもグラフを盛り込んでいる。こちらも数年後には"グランチェスター様式"として、王府や他領でも利用されることになる。
しかし、これらの2つよりも大きなセンセーションを巻き起こしたのは、数日後にワサトが提出した収穫量予想のレポートと、その算出方法を記した論文であった。数年はグランチェスター領の技術として秘匿していたが、国王からの要請で技術を公開することとなり、瞬く間に国中へと伝播していった。天文省には収穫量予想専門の部署が設立され、小麦のみならずさまざまな農作物が対象となっていく。
もっとも、そんな大事になるとはまったく予想していないサラは、執務の終了時間が迫っているとメイドたちに急かされ、慌ただしく本邸へと戻る支度をしていた。
そんなサラにジェームズとベンジャミンが近づき、明日は錬金術ギルドと冒険者ギルドの担当者と会えるように手配すると告げた。
「どちらの担当者と先にお会いになりますか?」
とベンジャミンが質問する。
「え、錬金術ギルドはわかるのですが、冒険者ギルドとは?」
これにはジェームズが答えた。
「冒険者ギルドには、鉱山周辺の魔物の駆除を依頼することになります」
「騎士団を派遣するのではないのですね」
「それは最終手段とお考えいただければと存じます。彼らは基本的に外敵から領を守るために存在しておりますので」
「武力を使う仕事にも、住み分けがあるのですね」
「仰る通りです。冒険者ギルドに依頼を出すにあたっては、どこまでの範囲を対象とするかなどを事前に取り決めておく必要かございますので」
「そういうことですか。では両方一緒にお呼びください」
「「は?」」
これには、ジェームズとベンジャミンの両方が首をかしげる。
「お嬢様、なぜ一緒なのですか? 酒の蒸留と魔物の駆除はまったく別ですよね」
「薬草について錬金術師から話を聞きたいからです」
「しかし薬草から薬を生成するのは薬師であって、錬金術師ではありませんが…」
『あれ? 薬師と錬金術師は違う職業なの? 更紗時代のラノベを参考にし過ぎかなぁ…』
と内心焦りつつも、それぞれの職域をきちんと知ることも大事と思い直し、それぞれから話を聞く方が良いだろうとサラは判断した。
「では薬師の方も一緒に呼んでください。それと、ポルックスさんとカストルさんも、会議に参加してください。長時間になりそうなので、午前中の執務は切りの良いところまで進めておいてくださいね」
それぞれの机で作業しているポルックスとカストルに声を掛ける。
「「承知しました」」
両名とも一瞬だけ顔を上げて返事をしたが、すぐに顔を落として作業に戻った。普通の令嬢相手であれば叱責されるレベルの粗略な対応であるが、サラの扱いに慣れてきた文官たちにとっては普通である。
そこにロバートが声を掛ける。
「僕たちはいらないのかい?」
「伯父様、ジェームズさん、ベンさんも参加できるのであればお願いしたくはあるのですが、執務が溜まっておりますのでお願いしていいものかどうか…」
「いやぁ、サラが面白そうなことするんじゃないかと、気になって執務に集中できないんじゃないかと思うんだよね」
すると、近くにいた文官とメイドは一斉に頷いた。一部は書類を見ながらなので、サラは更紗時代に見た『赤べこ』を思いだした。
「私、そんな風に見えます?」
「そんな風にしか見えないよ!」
「ひどいっ!」
サラは順調に執務棟メンバーに馴染んでいるようだ。いや、執務棟メンバーの方がサラに慣れたというべきかもしれない。