現実を直視する日
「どうやら揃ったみたいね。今日は大人数だわ」
サラはギリギリまで勉強の場所を悩んでいた。いつもなら乙女の塔一択なのだが、従兄妹たちを連れて行くべきかどうかで悩んだのだ。
だが結局サラは乙女の塔で学習することを選択した。今日は女性たちの集落からサンプルが届けられる予定になっていること、アリシアやアメリアに相談したいことがあること、そしてなによりトマスに迷惑をかけないようにするためであった。
グランチェスター侯爵家の侍女には、下級貴族の令嬢が行儀見習のために働いているというケースも多い。そのためトマスが本邸に滞在している間は、目を隠すように前髪を下ろしてむさ苦しい雰囲気になっている。
無論普段のグランチェスター城内には、それほど浮ついた女性は少ない。だが、小侯爵一家が王都邸から連れてきた侍女の中には、3名の子爵令嬢と2名の男爵令嬢が含まれていることをクロエが教えてくれた。メイドの中にも騎士爵の娘が含まれているとのことだが、クロエもすべての人数を把握してはいなかった。
つまりトマスを知っている、あるいはトマスに熱を上げていた令嬢が含まれている可能性が非常に高いということになる。侯爵家の使用人から新たなストーカーが生まれることは何としても避けなければならないとサラは考えたのだ。
乙女の塔にはクロエのガヴァネスも同行することになった。彼女は40代の半ばの未亡人で、乗馬も得意ではないことから、女性たちは馬車で移動することになった。馬房に寄ってデュランダルに状況を説明したところ、自分が馬車を引くと主張したため、ロヴィも誘って2頭で引いてもらうことにした。
デュランダルはロヴィを父や兄のように慕っている。デュランダルによればロヴィとは話が合うらしいのだが、その話が下ネタでないことを祈るばかりである。
「初めましてサラ・グランチェスターと申します」
「こちらこそ初めまして。私はジェイン・ロチェスターです。亡きロチェスター前子爵の妻でございますが、縁あってクロエお嬢様のガヴァネスとしてグランチェスター家にお世話になっております」
「ロチェスター夫人、お久しぶりです」
「オルソン令嬢は相変わらずお美しいですね」
レベッカがジェインに声を掛けた。どうやら顔見知りらしい。
「私もロチェスター夫人とお呼びすべきでしょうか?」
「私はジェイン先生と呼んでいるわ!」
サラが呼び方を確認すると、クロエが元気に横から答えた。
「では、私もそのようにお呼びしても構いませんか?」
「もちろんです。サラお嬢様」
「折角ですし私たちも先生と呼び合いませんか? 家庭教師のトマス先生とも、そのように呼び合っておりますので」
「それは素晴らしいですね。ではレベッカ先生とお呼びしますね」
「はい。ジェイン先生」
どうやら教師陣も互いを先生と呼び合うようにしたらしい。
アダムとクリストファーは馬で移動することにした。グランチェスター家の子供は幼児の頃から乗馬の訓練をするため、兄弟はどちらも危なげなく馬を乗りこなしている。デュランダルによれば、アダムとクリストファーの乗馬はどちらもデュランダルの兄だそうだ。
乙女の塔に着くと、既にスコットとブレイズそしてトマスが到着していた。いつもの教室には新たに机と椅子が運び込まれていた。
「お、おいサラ。まさか全員で勉強するのか?」
アダムが驚くように質問した。
「全員が同じ講義を受けられるわけないでしょ。個別に課題をこなしつつ、必要に応じてそれぞれの先生が個別に指導する形式になるわ。お互いの勉強の進捗状況は筒抜けだけどね」
「サラとクロエは淑女教育だろう?」
「私は歴史と文学をもう少しやりたいと思ってるけど、折角だし今日は会計の基礎をクロエと一緒にやろうかしら」
「面白そう!」
サラがにっこりと笑うと、クロエも目を輝かせた。
「でも、その前にクロエに算数がどれくらいできるのかテストしないとね」
「クロエお嬢様は、初歩の計算問題でしたら問題なく解けますよ」
ジェインがクロエの勉強の進捗を説明した。
「あら、クロエも算数の授業を受けているのね」
「あんまり難しいのは無理だけど、足す、引く、掛ける、割るならできるわ」
『ふむ四則演算のルールがわかっているなら上出来ね。一応レベルを確認しておくべきね』
「じゃぁ、こうしましょう。今日は全員で勉強の進捗度を確認するテストをやりましょう!」
「うへぇ」
アダムがいきなり呻き声を上げた。
「サラ、お前の従兄妹は勉強嫌いなのか?」
「嫌いなのは、そこの残念なアダムだけですって」
「お前って、残念なのか」
「お前とはなんだ! 僕はグランチェスター小侯爵の長男だぞ!」
「ふーん。それで残念なヤツってことであってる?」
ブレイズは貴族のルールを知らないため、アダムに対してまったく容赦がなかった。
「ブレイズ、確かにアダムは残念な頭をしているけど、本当のことを言うとアダムが傷ついて泣くらしいのよ。だから、あんまり残念って言わないで上げて頂戴。これ以上勉強が遅れると、アカデミーに入学できない残念な貴族令息一直線なのよ」
サラの方が残念の回数は多いとは誰も指摘しなかった。
「そうそう、アダムとクリスに言っておくわ。ブレイズはクリスと同じ10歳よ。勉強を始めてから2か月しか経ってないの。だからテストでブレイズよりも成績が悪ければ、チェスは禁止。居残り勉強させるからそのつもりで」
「お前、まだ2か月しか勉強してないのか?」
「それまでは傭兵団に居たからな。勉強は全然してなかったよ」
「そっか。じゃぁ楽勝だな」
「チェスのために僕も頑張るよ」
『うーん。アダムは単純ね。クリスは薄々気づいていそうな気がするわね。目が警戒しているもの』
実はトマスにはすでにテスト問題の作成を依頼済みであった。というより、このテストはコーデリア、トマス、レベッカの合作で、新しい教育機関においてクラス分けをするためのテストでもあった。
サラは真っ先に満点でテストをクリアしたが、スコットは500点満点中470点、ブレイズは380点であった。意外にもクリスは450点と好成績で、クロエも340点とそれなりの結果を残した。
そして、残念なアダムはと言えば、230点と最下位をマークした。
「アダム…あなた…冗談抜きでヤバいわよコレ。ブレイズどころか、淑女教育しか受けていないクロエにまで大差で負けてるじゃないの!」
サラは頭を抱えた。
「おかしいだろ。そいつ本当に勉強始めて2か月なのか?」
「正確に言えば2か月に少し足りない日数しか勉強していないわ」
「でも、ブレイズは天才の部類に入るのは確かだよね」
クリストファーが冷静に指摘した。それは紛れもない事実でもあった。
「まぁそれは認めるわ。彼は数字を覚えた途端に四則演算をそつなくこなしたし、文字を覚えて書き取りもこなせるようになっているわ。ただ、知識の絶対量が足りないから、今は不足を補っている感じね」
「ううん。サラ。最近書き取りを始めてわかったんだけど、オレはこの国の動詞の変化や助詞の使い方が正確とはいえないみたいだ」
「それを理解できているだけ凄いよ。ブレイズはアヴァロンの生まれじゃないのかい?」
「正確にはわからないんだ。オレは孤児だから。ロイセンとの国境付近に長くいたから、ロイセンの言葉の方が使いやすいかもな」
「あぁ。アヴァロン語とロイセン語は似てるけど、やっぱり違いはあるよね」
「イントネーションやスペルが違ったりするからな」
この会話の時点で、アダムはポカーンとした顔をしていた。平民の孤児に負けたこともショックだったが、今まで愚鈍だと思っていた弟は自分よりも遥かに頭が良かったからだ。
そこにトマスが採点を終えたテスト用紙を持って割り込んだ。
「スコット君は、スペルミスをなくせばあと10点はスコアを伸ばせますよ。それと、数学でもいくつか計算ミスをしています。これは見直しを徹底すれば防げるでしょう。アカデミーの入学試験では気を付けてください」
トマスはスコットに対してアドバイスをした。既にアカデミーの受験に向けて、ブラッシュアップの段階に入っているらしい。
「クリストファー君は、歴史が苦手そうですね。数学もいくつかは手をつけていない問題がありましたが、これは公式を習っていないのかもしれませんね。解法がわからなかったのでしょうか」
「はい。トマス先生、仰る通りです」
「では後程、数学の解法を説明いたします。歴史についてはレベッカ先生から課題を貰うと良いですよ」
もちろんレベッカは既にクリストファー用の課題をバッチリ用意していた。
「クロエさんは、さすがに数学は解けない問題が多かったようですね。今までのカリキュラムを考えれば当然でしょう。ですが書き取りの文字は美しいですし、文学や歴史の理解は素晴らしいですね」
「はい。トマス先生ありがとうございます。精進いたします」
クロエはトマスに見つめられて顔を赤らめながらお礼を言った。
『うわー、クロエがめっちゃ猫被ってる。イケメン好きなんだなぁ…』
「ブレイズ君は、いつも通りですね。まだ覚えるべき数学の公式は残っていますが、数学と書き取りだけならスコット君に並ぶ日も遠くないでしょう。ただ、文学と歴史は知識の蓄積ですからね、ひたすら本を読む必要があります。記憶力もずば抜けて良いですから、あっという間に身に付けてしまうかもしれませんね」
「はい。ありがとうございます」
そして最後の答案用紙を見ながら、トマスは言葉に詰まった。
「アダム君…正直申し上げれば、このままではアカデミーの入学は絶望的です。貴族には他国への留学という手も残されていますが、アヴァロン語の書き取りも覚束ない状態で外国語が使えるかは疑問が残ります。留学先で何らかの学位を取得するにしても、入学試験は必須です。試験不要の私塾もありますが、学位は取得できません。その……留学先で学位も取得せずに戻ってくるとなると、上級貴族の当主としてはかなり恥ずかしい思いをするかもしれません」
こうしてアダムは、長い間目を背け続けた現実を直視する羽目になったのである。