予想以上に甘かった
正直なところ、サラは財宝を手放して当座をしのぐことはしたくないと考えていた。
人の口に戸を立てることはできない。財宝を売却した事実は必ず王家や他家に知られるだろう。何かあったと勘繰ってくれと言わんばかりである。現金を作る理由を説明できない今の状況では、どう考えても悪手である。
確かに領の備蓄は足りておらず、ひとたび災害が起きれば領民は飢えてしまうだろう。しかし、まだ飢饉が起きたわけではないのだ。ここは神に豊作を祈りつつ、健全な状態に戻していくべきだろう。
「伯父様、財宝を売って当座をしのぐことは、最小限にとどめるべきかと思います。ある意味では最後の手段のように使いたいと思います」
「どういうことだい?」
「王家や他家に知られることなく財宝の売却ができるとは思えません。むしろ、堂々としていなければ、グランチェスター領で何かあったと思われるでしょう」
「ううむ…」
「穀物の流通量を減らすこともできません。財宝の売却同様、外部に気取られる可能性が高いです」
「そういうものかい?」
「グランチェスターは、市場に小麦を供給する領です。一定以上の量を供給しなければ、国内の穀物価格が高騰し、市場の混乱を招きます。これを王室が見逃すとは思えません。売却量が減った理由を確認するために、査察が入ってしまう可能性があります」
どれだけ厳しくても、王家や他家に知られることなく備蓄量を増やす方法を検討しなければならないのだ。
『ん? 備蓄って必ずしも領の備蓄庫に置いておく必要ないよね。飢饉のときに倉庫を開放できればいいだけなら、領の持ち物である必要はないはず』
「伯父様、商家というか商会を作りませんか?」
「新しく商会を立てるってことかい?」
「そうです。備蓄に回す量はそのまま、領外に流通させる穀物は市場が混乱しない必要最低限に抑えます。そして残りはすべて新しい商会に売却するのです。領内の穀物業者は、この商会から穀物を購入するようにしましょう」
「ふむ」
「もし飢饉に見舞われてしまったら、この商会の倉庫を領民に開きましょう。対外的には商会に穀物を売ったことになりますから、これは備蓄ではありません。単に商会の倉庫にある備蓄を、商会が"人道的な理由で"領民に提供するというだけです」
「なるほど。商会に売却しているのだから、疑われることはないってことか」
「はい。ただ領の備蓄ではないので、売却益に見合った税を納めなければなりませんが」
「それは仕方がないだろうな。それでも変に疑われて査察が入るよりはずっといいはずだ。ひとまず父上と相談するよ」
「商会が領から穀物を購入する際に発行する手形は、現金化せずに領に残しておいて、数年後に領の財政が健全化した際に、商会から穀物を備蓄用として買い取れば良いのではないでしょうか。その際の支払いは手元に残した手形で相殺できるはずです」
「なるほどなぁ」
ロバートをはじめ、文官たちも頷いている。
「ただ、問題がないわけではありません」
「というと?」
「十分な備蓄が用意できる前に飢饉が発生したら対処できないのです。安定して運用するには数年かかると思います」
「な、なるほど」
「そもそも次の収穫量がどの程度になるのか、おおよその見当はついていらっしゃるのでしょうか」
「収穫量は、収穫直前にならないとわからないものだろう?」
「正確な量という意味でしたら仰る通りですが、天候や育成具合を観察すれば、おおよその収穫量は予想はできるはずです」
「はぁ? 占いの類か?」
「違います」
ロバートは文官たちの方を振り返る。すると、復帰した文官の一人であるポルックスが反応した。彼は農産物担当文官として長い経験を持つ。かつては徴税員として各地の農家を回っていたこともある叩き上げであり、税金をごまかすものには容赦がないが、困窮している領民には自腹を切って食料や薪を届けるような漢気のある文官でもあった。
「サラお嬢様の仰る通りです。最近の話ですので、お嬢様がご存じだとは思いませんでした。以前から気象と小麦の収穫には密接なつながりがあることは知られていましたが、私の部下が『おおよその収穫量は気象から算出できる』と申しており、2年前から実証させております」
「なんだと! 報告はもらっていないぞ」
「申し訳ございません。そうした報告を上げることすら難しいほど多忙な状況でございましたので、ついつい後回しにしておりました」
「確かにな。それで結果はどうなんだ?」
「予想時期によって変動はありますが、それなりの精度で予想は当たっております」
「なんと」
これには、ロバートだけでなく他の文官たちも驚きを隠せない。
「ポルックスさん、予想ができるのはその方だけなのでしょうか?」
「そうですね。あの者が言うには『気象記録と収穫量を関連付けるには、天文の知識と数学の素養が必要』とのことで、彼が言うことを理解できる者が他にいないのです」
確かにその通りだろう。前世でも、農作物の収穫予想には高度な知識と技術が必要であった。更紗は先物取引市場に関連する業務を担当していた時期もあり、その情報にどれだけの価値があるかをよく知っていた。
「ポルックスさん、その方と会わせてください。なるべく早く」
「しょ、承知しました」
ひとまず、収穫予想が可能な文官と明日には会えるように手筈を整えた。もちろん、このスケジュール調整も執務棟メイドが素早く手配した結果である。
「どれくらいの備蓄が必要で、現在どれくらい足りていないのかについては確認できているのでしょうか?」
「はい。それは終わっております」
領の蔵を直接確認して備蓄量を確認してきたベンは、種類ごとに必要量と現在の備蓄量を比較した紙を提示する。小麦のほか、豆、米(なんとこの世界には米があった!)など保存のきく食糧に加え、薪などの燃料も備蓄されている。
なお、災害時用に毛布や布なども備蓄されていたはずなのだが、知らぬ間に売却されていたらしく、倉庫には虫食いで使えなくなった毛布しか残されていなかった。
「ひとまず小麦以外で、必要な備蓄の購入を始めましょう。しばらくは飢饉や災害に見舞われないことを祈りつつ、できる範囲の備蓄しかできませんね」
すると、ベンが新しい提案をしてきた。
「備蓄している食料品はどうしても劣化しますので、食べられなくなる前に一部を売却します。この売却先を、先ほどおっしゃられた商会にするというのはいかがでしょう」
「それはどうしてですか?」
「足元を見られて、ほぼ捨て値で売却しているのですが、意外と人気があるんですよ。ただ、販売価格を見てると、ぼったくりだよなぁと思いまして」
「なるほど。領が直営する商会は利益を求めるものではありませんしね、良いかもしれません」
ロバートは嘆息しながら「はぁ…。この国随一の穀倉地帯を持つグランチェスターが、なんとも情けないことだ」と呟いた。
「嘆いても仕方がありません。今は小麦以外で現金収入を増やす算段をすべきではないでしょうか。領内の鉱山、あるいは森林での材木伐採などを検討すべきでは?」
「サラ、大森林の開拓はグランチェスターの悲願ではあるけど、あそこには強い魔物が生息していて、林業を生業にしている人はいないんだ」
「でも、今のグランチェスター領は、ご先祖様が開拓した土地だと習いましたが?」
「よく勉強しているね。その通りだよ。グランチェスター領の大部分は、かつて大森林の一部だったんだ。それをグランチェスター伯爵が開拓し、その功をもって陞爵したんだ」
「では、もういちど開拓を進めることはできないのですか?」
「それだけの余力がないんだよ。魔物を駆除するのは、腕利きの猟師か冒険者なんだけど、開拓を推進していないから猟師はほとんどいないんだ。それにグランチェスター領の冒険者ギルドはかなり小規模なんだよね」
「それは、手詰まりですね。すぐに解決できる問題ではなさそうです。ご先祖様はどうやって開拓したんでしょう?」
「もう500年以上前の話だから、どこまで本当のことなのかはわからないけど、当時のグランチェスター伯爵は"ゼンセノキオク"とかいう彼の独自魔法で開拓に成功したらしい。それまで伯爵とは名ばかりの貧乏貴族だったそうだが、彼のお陰でグランチェスター家は侯爵となった。だからグランチェスター家では彼を始祖と呼んでいるのさ」
「は???」
「まぁ、歴史なんて話半分に聞いておけばいいよ」
ロバートは苦笑いしているが、サラはそれどころではない。
『まって、前世の記憶ってこと? それってご先祖様は転生者ってことなの??』
「伯父様、ご先祖様の記録、特に日記などは残されているのでしょうか?」
「図書館の特別室にあるよ。グランチェスターの一族しか閲覧できない決まりで、当主の許可が必要だ。たぶんサラなら大丈夫だとおもうけど、父上に許可をもらっておくよ」
「ありがとうございます」
『ひとまず許可待ちか。ご先祖様の記録を見れば、なにかヒントになることが書いてあるかもしれない』
とはいえ、すぐに何かできるわけでもないので、優先度は低めに設定しておく。
「いずれにしても、備蓄も現金も心許ない状態で、どれだけ収穫できるかわからない農作物にだけ頼るのは危険です。今期の作業を終えたら、不正会計があったと思われる過去の帳簿を精査することになります。もし、過去の過少申告が明らかになれば、次の監査が入る前に修正して不足分を納付しなければなりません。そうなったとき、即金で支払えると言い切れますか?」
「そ、それは…」
ロバートは口ごもり、文官たちも俯くしかない。
「発行した手形の額面の方が領の資産より多く、備蓄も圧倒的に足りないのです。現状、グランチェスターは破綻寸前であると自覚すべきです」
実際にはそこまで酷いわけではない。商家が結託して一斉に手形を現金化しようとしたところで、一時的にグランチェスター家の財産を切り崩せば済む。備蓄が少なくても、災害や飢饉が発生しなければ特に問題はない。仮に追加の納税が必要になっても、グランチェスター家自体の財政が大きく傾くとはサラも考えてはいない。敢えて厳しい指摘をしたのは「収穫が終わればなんとかなる」というロバートを始めとした文官たちの甘さに危機感をおぼえたからであった。
ロバートは無自覚にグランチェスター家の財産を背景として振る舞い、困ったら家の財産を使うことを安易に提案する。そして彼らは小麦の収穫を、尽きることのない財源であるかのように捉えている。
広大な穀倉地帯を持つ地領として、その考えは大きく間違っているわけではないが、彼らには『リスクヘッジ』の視点があまりにも欠けていた。
大規模災害が起きて畑が破壊されてしまうかもしれない、あるいは小麦に病気が発生してしまうかもしれないといったことをきちんと想定していない。飢饉のときに放出する備蓄だけでは十分ではない。もし飢饉が数年続いた場合、どこまでグランチェスター領が、あるいはグランチェスター家が領民を支えられるのか真剣に考えたことはあるのだろうか。
『基本的にグランチェスター領は豊かだから、文官も危機意識を持てないでいるのね。伯父様もお金に困った経験がないお坊ちゃまだろうし…』
この世界にも、ノブレスオブリージュという考え方は存在する。つまり、領主は領民を守るべき義務を負っているのだ。しかし、この甘さで領民を本当に守っていけるとは、サラは到底信じることはできなかった。この甘さこそが、グランチェスターの最大のリスクに思えるのだった。