小侯爵夫妻の到着
小侯爵一家が到着したのは、予定よりも遅い正午近い時刻であった。なんでも、途中でアダムが購入した新しい馬車の車輪が外れ、修理に時間がかかったらしい。
「来たか」
「はい。父上」
侯爵がエドワードに声を掛ける。背後にいるエリザベスや子供たちは少しばかり疲れた顔をしており、道中があまり快適ではなかった様子が見受けられる。
出迎えにはサラやレベッカも同席したが、積極的に前に出て挨拶する気にもなれず、侯爵の後ろで黙って立っている。
「エド、リズ、遠くからお疲れ様」
ロバートだけは爽やかな微笑みを浮かべて、兄夫婦と甥姪を歓迎した。
「あぁロブも息災のようだな」
「お久しぶりね」
小侯爵夫妻もロバートに挨拶を返す。子供たちは後ろで軽く会釈するが、その表情にはやや緊張が見られた。
『そういえば、お父様はアダムたちからは勉強に厳しい叔父って思われてるんだっけ。しっかし、お父様にそこまで言わせるなんて大丈夫? アカデミー入れる??』
大丈夫ではない。このままでは絶対に合格できないほどアダムの成績はヒドイ。なお、有力貴族の子弟がアカデミー入学に失敗した場合、そのままでは体裁が悪いので箔付けのために外国に留学させることが多い。
おそらくアダムも自分は留学するだろうと薄々予想しているようだが、外国語の勉強も適当なので、留学したところで何を勉強してくるというのだろう。それはクリストファーも同じである。
「部屋はいつも通り東翼に用意してあるよ。お腹空いてるだろうから、着替えてさっぱりしたら、一緒にテラスでランチにしないか?」
ロバートが小侯爵夫妻をランチに誘った。しかし、エドワードはこれを断った。
「すまない。途中で馬車が故障したせいで本当に疲れてしまったんだ。申し訳ないが、昼食は部屋に運んでもらえないだろうか?」
「それは仕方ないね。あぁ、風呂にもすぐ入れるようになっているから、さっぱりすると良いよ」
「気を使わせて悪いな」
「これくらいなんでもないさ。じゃぁ晩餐で会おう。ゆっくり身体を休めてくれ」
顔合わせもそこそこに、小侯爵一家は東翼に用意された部屋へと引き上げて行った。
アダムの新しい馬車は、舗装が当たり前の王都周辺で乗る分には問題なかったが、未舗装の道を長く走らせるには耐久性が足りなかった。しかも、今回は後続の荷馬車に積み切れなかった衣装やアクセサリーの一部を載せていたため、いつもより馬車には大きな負荷がかかっていた。
馬車が悪いわけではない。ただ、舗装された短い距離を走ることを前提に設計された馬車だというだけだ。何事にも適材適所というものがある。この馬車は、舞踏会やお茶会で見劣りしないよう見た目を重視し、石畳の上を走ってもお尻が痛くならないよう衝撃を吸収する性能に優れ、内装にもこだわった逸品なのだから。
出発前、王都邸の家令は新しい馬車での帰領を懸念し、従来の馬車の使用を勧めたのだが、アダムはまったく聞く耳を持たなかった。
かくして700ダラスもした新車は、道中の泥濘にハマって立ち往生し、元の車輪は壊れて使い物にならなくなって急ぎ別の車輪に付け替えることになった。純正品の車輪と違って微妙に咬み合わせが悪かったのか、この付け替えた車輪も移動中に何度か外れている。
馬車で散々な目にあった小侯爵一家は、初日の予定をすべてキャンセルし、晩餐までの時間をぐったりと自室で過ごすことになったのである。
だが、これに振り回される使用人たちにとっては災難でしかない。疲れて機嫌の悪い小侯爵一家はランチの内容に文句をつけ、入浴後にマッサージを要求し、お茶菓子を見れば「田舎臭い」とケチをつける。
一番気の毒なのはクロエの侍女である。クロエの髪はサラに呪われているので、キューティクルがボロボロになっている。元は艶のある金褐色の髪であったが、今は切れ毛の多い赤毛にしか見えない。
入浴後にバラの香油を馴染ませながらブラッシングすることで、辛うじてギリギリの見た目を保ってはいるが、そのブラッシングも髪をこれ以上痛めないように慎重にやらなければならない。また、少しでも引っ掛かってクロエに苦痛を与えれば、そのブラシで殴られることもあるのだ。
クロエはグランチェスター家のご令嬢らしく見た目は美しい。本人もそれを理解しているため、貴族然とした所作や会話術を学ぶことを厭わない。実は小侯爵夫妻の子供たちの中で一番勉強熱心で頭が良いのはクロエだったりもする。
サラがまだ王都邸にいた頃、クロエはサラが自分より美しいことを腹立たしく思っていた。だが平民として育っていたサラの所作はまったく洗練されておらず、頭は悪くなさそうだが言葉遣いは褒められたものではなかったため、美しいが取るに足らない存在だと思っていた。
だが、本邸の玄関まで出迎えにきたサラは、王都邸にいた頃とは比べ物にならない程に洗練された所作を身に付けていた。ガヴァネスは両親や叔父たちと幼馴染でもあるオルソン令嬢だと聞いていたが、短期間でこれほどサラが変わるとは正直思っていなかった。
王都ではあまり見られないデザインながら、身に付けているドレスも悪くなかった。締め付けられることを嫌うサラは、ふんわりとしたラインのドレスを着ていた。ウェストのやや高い位置をサッシュで締めて全体にメリハリを出し、艶やかな銀色の髪をハーフアップにしている。
『モスリンを重ねて作ったのかしら。フォーマルとは言い難いけど、デザインは悪くないわ。おそらく着心地も良いはず…どこで作ったのか調べなきゃ』
クロエはグランチェスター城で働くメイドの一人を呼び、サラが普段どこでドレスを作っているのかを確認した。
「サラお嬢様のドレスは、ロバート卿から依頼されたオルソン令嬢が手配されています。領都にあるいくつかのドレスメーカーですが、リストをお持ちいたしましょうか?」
「私もこちらで何着かドレスを作りたいのよ。教えて頂戴」
「承知しました」
「サラが今日着ていたモスリンのドレスを作った店も教えてね」
「あれはソフィア商会からの贈り物です。ソフィア商会には服飾部門がございませんので、おそらく別の場所で仕立てられたものを贈られたのかと思います」
「ふぅん。そうなのね」
「ソフィア商会は最近設立されたばかりの新しい商会ですので、グランチェスター家の方々にさまざまな贈り物をされているようですわ」
「そうなの。わかったわ」
『なるほど。あれはグランチェスター家への付け届けってことなのね。それなら待ってれば私のところにも届くかもしれないわ』
クロエは納得してベッドにゴロリと横になった。淑女としていかがなものかと思う行動ではあるが、彼女は本当に疲れていたのだ。
『馬鹿アダムのせいで無駄に疲れたわ。あの馬車は本当に見掛け倒しね』
クロエは兄が馬鹿なことにはとっくに気付いていた。そして弟が自分で思考することを放棄するほど愚かであることにも。二人とも本当に頭が悪いわけではない。ただ、甘やかされ、勉強をサボっても厳しく注意されることがないのだ。
これはクロエに関しても同じことが言えるのだが、彼女の場合は『貴族的に洗練された淑女』という目標があるため、自分を磨くことに余念がない。結果として三人の中でもっとも教育レベルの高い人物となっているわけだが、いずれにしても全員が『情操教育』に問題を抱えていることは間違いない。
そして、本来子供たちを導く立場にあるエリザベスだが、彼女は10年前と変わらぬ容姿を保つレベッカに激しい嫉妬心を抱いていた。王都でも有名なデザイナーのドレスや高級なジュエリーで飾り立てても、三十路を超えた肌の衰えは隠し切れない。
なお、レベッカの隣に立ったサラにも苛立ちを覚えた。かつて平民であったにもかかわらず、多くの貴公子の心を惑わせたアデリアの美貌を色濃く受け継いでいることは、8歳という幼さでも隠しきれるものではない。ただ、アデリアよりも凛とした印象を与えるのは、アーサーから受け継いだグランチェスター家の血統の成せる業だろう。
レベッカによって磨かれたサラの立ち居振る舞いは、洗練された淑女の風情である。これまでエリザベスは『グランチェスター家の美しい母娘』というイメージを社交界に与えてきた。だがサラの登場によって、視線は明らかにサラに向けられることになるだろう。
『いっそ、サラを養女にする? あの娘を従えて歩けば見栄えはしそう。気の毒な平民の姪を養女にして、貴族に嫁がせる母親ってのも悪くないわ。あれだけ美しければ、子爵くらいは釣れるでしょうし。なにより義父上様に好印象を与えられるはずよ』
エリザベスは、侯爵が自分たち一家を見る目が厳しくなっていることを肌で感じ始めていた。サラに対する子供たちのイジメが発覚したことが原因だろうとエリザベスは考えており、侯爵の前でこれ見よがしに子供たちを叱りつけ、離婚して修道院に入ると騒いで見せることまでした。
だが、侯爵の態度は変わらない。むしろ悪化しているようにすら見える。狩猟大会のせいで領地から離れないことも焦りに拍車をかける。
『義父上様は私たち一家への手当を減らしたとエドは言ってたわ。数年前に横領事件が発覚した時も減らされることはなかったのに、何故今になって減らされたの? だけど社交界で私たちの品位を示すためにはお金がかかることくらいわかっているはず。もしかして、私たちを社交界から遠ざけて、ロブを小侯爵にするつもりなのかしら?』
帳簿を整理したことで、グランチェスター領の手元不如意であることが発覚しただけなのだが、エリザベスはこの事態を無駄に深読みしていた。今のエリザベスを見れば、策士が良い判断をするには、正確な情報が不可欠であることがよくわかる。
そして、この小侯爵一家の状況を、逐一漏らさず報告できるようリックが観察している時点で、情報戦の勝者が誰なのかは一目瞭然である。